2019年08月05日

2019年8月11日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「真の安息を得させるために」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書2章23節〜28節

※礼拝後、5分の集い、信仰の学び、ダニエル会例会が行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:58| 日記

2019年8月4日 主日礼拝説教「新しい時の始まり」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書2章18節〜22節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書2章18節から22節の御言葉であります。18節の御言葉をお読みします。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』」
 ここには、「断食」の問答が記されています。そもそも、「断食」とは何でしょうか。「断食」とは、「悔い改め」のことです。
 それでは、「悔い改め」とは何でしょうか。それは、「自分の罪を告白」し、「神様に方向を転換」することであります。言い方を変えて申し上げるならば、古い自分に背を向けて、神様に向かって新しく歩み出すことであります。「悔い改め」は、決して、後ろ向きの行為ではありません。むしろ、前向きの行為、喜びに向かった行為なのであります。
 元々、イスラエルでは、年に一度、断食をしていました。しかし、それでは、十分な悔い改めにはならないということで、年に四回の断食に変わりました。ファリサイ派の人々は、それでも十分ではないということで、週に二回の断食を行いました。
 しかし、ファリサイ派の断食は、悔い改めの断食というよりは、人々に信仰深さを見せるパフォーマンス的な要素もあったようです。そのため、洗礼者ヨハネは、ファリサイ派の断食の在り方を批判し、自身は、日を定めない断食を行いました。
 このように、「断食」とは、考え方は、違うにせよ、信仰者における生活の大切な行為の一つでありました。しかし、ここで大事なことは、「断食」とは、そもそも、「罪の告白」であり、「方向転換」であり、そして、「新しい歩み」である、ということであります。 
 さて、主イエス・キリストは、断食を行ったのでしょうか。聖書には、主イエス・キリストが断食を行っている様子が、幾つか描かれています。本来、罪のない御方が、断食をしたのであります。正に、神の御子は、人間の罪や穢れを背負われたのであります。本来、穢れのない御方であるにも関わらず、人間と等しくなられた。その幸いを深く思うものであります。
 しかし、主イエス・キリストは、その弟子たちに断食を強いることはしませんでした。それはなぜでしょうか。
 19節から20節の御言葉をお読みします。「イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食をすることになる。』」
 主イエス・キリストは、ここで結婚の譬えを語られます。旧約聖書では、神様を花婿に譬え、イスラエルを花嫁に譬え、両者の関係を夫婦関係に例えることがあります。つまり、ここで、主イエス・キリストは、御自身を「神御自身」として証していることになります。そして、弟子達は、その結婚に招かれた客として、ここにいるのであります。
 今、ここで何が起きているのでしょうか。主イエス・キリストにおいて、神様御自身が喜びをもって、生きておられるということです。神様御自身が、ここで、喜びの交わりに生きてくださり、喜びをもたらしてくださっているということであります。神様は怒りをもって、この世界に臨んでいるのではない。神様は、喜びをもって、ここに生きて働き、交わりに生きていてくださるのであります。私達は、その喜びに招かれた客として頂いているのであります。
 だからこそ、その喜びの中で、「断食」は相応しくない、いや「断食」などできるはずはない、ということであります。今なすべきことは、「断食」ではないのです。喜びを共に味わうこと。主イエス・キリストは、その幸いと喜びをここでお示しになるのであります。
 しかし、主イエス・キリストは、次のように語ります。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」と。
 主イエス・キリストが奪い取られる時が来る。それはいつでしょうか。「十字架の時」であります。「十字架に架けられて死んで行く時」であります。
 その時に何が起こるのでしょうか。断食が起こるのであります。罪の告白が起こるのであります。悔い改めが起こるのであります。
 つまり、主イエス・キリストの十字架の死を通して、私達は、本当の意味で、私達の罪の重さを知ることになるのだということであります。主イエス・キリストの十字架の死を通して、私達の汚れた現実を知ることができるのだということであります。あの十字架の死の悲惨さを通して、私達は、私達の罪の悲惨さを知ることができる。まず、そのことを示されていくのであります。
 しかし、私達は、主イエス・キリストの十字架を通して、ただただ罪を知るだけではありません。この私の罪を、あの主イエス・キリストが担っている。そのことも知ることができるのであります。主イエス・キリストの十字架の死を通して、自分の罪を知ることができるのは、そこで、あの主イエス・キリストが、私達の罪を担っていることを知っているからなのであります。
 つまり、十字架のキリストを見上げ、自らの罪の重さを知る人こそ、自分の罪が担われているという喜びを知っている者でもあるということでありましょう。正に、「悔い改め」とは、自分の罪を数え、涙を流すことではありません。この私の罪を背負われるキリストを見つめ、自分の罪を知り、その罪を告白し、そして、赦されている喜びに押し出されながら真の喜びへと新たに足を進めていくことであります。
 悔い改めと喜びは、同じことなのであります。主イエス・キリストは、その大きな恵みを、私達に新たにしてくださるのであります。
 初めにも申し上げましたが、「悔い改め」「断食」とは、「新たに生きること」なのであります。罪が赦されている恵み。その恵みを噛みしめながら、新しく生きることなのです。 だから、主イエス・キリストは、次のように言われるのです。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と。「新しいぶどう酒」、「新しい喜び」が、もう既に、目の前に備えられているのです。「新しい救い」が、主イエス・キリストを通して、もうここに備えられているのであります。 
 大事なことは、この新しいものを受け入れる器になるかどうか。古い自分を捨てて、方向転換をして、新たに歩み出すことができるか。それが大切なことなのであります。古いものと新しいものを混ぜることはできません。古いもの、過去のものを否定することはしません。それを振り返るなとは言いません。あるいは、古いことが無駄なことであるとも言いません。古いものを忘れてはいけないだろうと思う。
 しかし、キリストのものとされるということは、全く、新たなものとして、新たに生きることを意味しているのであります。古いものが、自分を新たにすることはできない、ということなのであります。古いものと新しいものを混ぜるところには、必ず、ジレンマが生じるのです。古いものが無駄にならないように、それはそれで保存し、新しいものに思いを向け直して行く。それが大事なのであります。
 ファリサイ派の人々は、主イエス・キリストを受け入れることができませんでした。彼らは、新しく生きることを辞めたのであります。古い自分にしがみついたのであります。つまり、どれだけ悔い改めを重ねても、神様に向かって、新たに歩み出すことをしなかった。なぜでしょうか。
 それは、自分のことしか見えていないから。神様が見えていない。神様の救いが見えていない。そこでは、自分の罪の現実も見えていない。だから、赦されていることの喜びも見出すことはできない。それ故に、彼らの断食は、パフォーマンスに成り代わっていくのであります。どんだけ、悔い改めを重ねても、神様に向かって、新たに歩み出さないところに、本当の悔い改めはあるのでしょうか。
 悔い改めとは、神様にむかって「新しく生きる」ということであります。それは、古い自分に背を向けて、神様に向かって新たに歩み出すことであります。
 しかし、その自分を捨てきれないことがある。古いものを絶対化させ、自分たちの積み重ねた知恵や知識やキャリアに縛られてしまうことがある。自分の積み重ねてきたことを正当化したいと思う。そのようなことは、私達のうちでも起こり得るだろうと思います。
 しかし、そのような現実の中で、真の悔い改めが、生まれるはずがありません。そこでは、神様に心を向けていない、自分にしか心が向いていない。神様の方へ転換する気持ちがない。そのような私の姿しかないから。
 主イエス・キリストは、今も、生きて、私達を招いておられます。ここに神が生きている。ここに神様との交わりがある。ここの十字架の死と復活の救いがある。ここに罪の赦しがある。新しいぶどう酒がここにある。主イエス・キリストは、今も、ここで力強く招き続けておられる。古いものに縛られ、主イエス・キリストに背を向け続けるのか。古いものを置いて、救いの招きに応え新たに歩み出すのか。私達は、今、キリストの前で、強く問われていくのであります。
 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で記します。悔い改めもまた、神様の憐れみによって導かれて実現するのだと。私達が、日々、この招きに応えて生きられるように、祈りをもって、導きを願うものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:56| 日記