2019年08月21日

2019年8月18日 主日礼拝証し「神から頂く恵みに与って」丸井富美子姉

聖書:コリントの信徒への手紙一 1章26節〜31節

 私は、今日、神様から頂く恵みをどのように伝えたら良いのかと思いつつ、この朝を迎えました。証しをさせて頂くには余りに足りない者ですが、コリントの信徒への手紙1の1章26節から31節のみ言葉を通して与えられた思いを、私が経てきたいくつかのことを通してお話しさせて頂こうと思います。私は、昭和23年(1948年)に大分で生まれました。兄妹は4人で上に兄が2人、そして、私と妹です。両親はクリスチャンではありませんでしたが、母は、時々、一番上の兄を連れてメソジストの教会へ行っていました。母は私にも教会へ行くことを勧めて、私はひとりで歩いて行ける日本基督教団の大分教会へと導かれました。教会まで2qほどだったと思います。大人の足で2kmは遠くないように思えますが、夏の暑い日には、家までの帰りは遠くも感じられました。母は、たまにお小遣いを持たせてくれましたので、途中の大きな食糧品のマーケットで100グラム10円の量り売りのキャラメルを買うこともありました。何種類も並んだ飴をどれにしようかと思いながら10円で11個か時には13個のキャラメルが買えて嬉しかったことなども思い出されます。教会学校の分級では紙芝居を見たり、聖句入りのカードを頂いたり、イースターの色つき卵を作ったり、学校の放課後に集まってクリスマスの劇の練習をしたことなども懐かしい思い出です。教会学校は、隣の校区の子どもたちと過ごす初めての体験となりました。教会学校へは3年生頃から6年の卒業まで通い、その後は高校を卒業してから再び通うようになりました。父は銀行に勤めていましたが、私のすぐ上の兄は、絵を描くことが好きで絵の材料費(油絵の具やキャンバス代など)にもお金がかかりましたから、私が受験出来るのは授業料の安い国立大学、それも家から遠くないことが条件でした。それで、家から通える大分大学と隣りの県の宮崎大学を受験したのですが、2つの大学とも不合格でした。学校の教師になりたいと思っていましたから、合格者の受験番号が発表されるラジオを聴いていて、自分の番号が抜け落ちた時、ふとんをかぶって泣いたことを思い出します。それでもうひとつ、すべり止めにと思って受けていた兵庫県伊丹市にある国立県営兵庫職業訓練校の衛生検査科に入りました。ここは、もともとは結核回復者の社会復帰を目的とした所でしたが、結核患者が少なくなった頃で結核の病歴がなくても入学できるようになっていました。授業料は無料で原則、全寮制。そして寮の支払いは食事代のみで、授業に出ると1日50円の訓練手当が支給されました。親からの仕送りは毎月1万円程度で足りたのです。母は女性も何か資格を持って自立出来るようになることを望んでいましたし、既に兄が大阪にいましたので送り出してくれました。父は、私が病院で血液や尿などの検査をするのはかわいそうだと、気が進まないようでしたが・・。30人1クラスの内、既に結婚して故郷に家族を残して来られた人や、病気療養のために仕事を辞めた人達はとても熱心に勉強していましたが、私などは家から離れた自由さもあって、のんびりし過ぎてギリギリで国家試験に合格しました。この寮生活の時に、何人かが教会へ通い始めていました。カトリック教会へ行く友もいましたし、プロテスタントの教会へ行く人たちもいました。私も友だちの1人と一緒に伊丹バプテスト教会に通い始めて、19才の時に受洗しました。
卒業後、大阪で就職し、結婚を機に石山に来ることが決まり、バプテスト教会の牧野牧師に相談しまし
たら、石山教会に中村利成先生を訪ねるようにと教えて下さいました。当時、私の勤務先は守山に建設
中の病院に決まっていましたので、守山の住まい(アパートですが)が良いかと夫と歩き廻って捜した
のですが、見つからなかったのです。現在は守山も開発が進んでいて、いくつものマンションなどが建
てられていますが、今から50年ほど前はまだ、田んぼの多い所でした。もし、守山に住んでいたら、石
山教会に繋がることは難しかったかもしれないことを思いますと神様の不思議な御手を感じざるを得ま
せん。病院の臨床検査の仕事には検体検査と生理機能検査といって患者さんに直接接して検査する仕事
がありますが、私が、一番長く担当したのが心電図検査で、その時に救急蘇生法を学びました。この救
急蘇生の手順が、後に、30年以上も経って役立つことがあったのです。それは、数年前、大阪のS教会で開催された福音主義連合の役員・信徒研修会に参加した時のことでした。午前中の講演会を終えて10数人づつが分団に分かれて昼食の後、順に自己紹介をしていた最中に、私の斜め向かい側に座っておられた婦人が、突然、心肺停止状態に陥られたのです。異変に直ぐに気づいて、そばにおられた方々と協力して蘇生することが出来ました。勿論、私1人では出来ないことです。救急車の手配をして下さった方、AEDを持ってきて下さった方、そして、祈って下さった方々がおられます。当初、私は草津教会で開かれる別の集会に出席する予定でしたが、須賀牧師に誘われて、変更してこの研修会に参加していました。その婦人は救急搬送時には呼吸も心電図も回復しましたが、意識だけは回復していませんでした。その日、午後からの研修会では、はじめに婦人の回復を願い、皆で祈りを合わせました。150名程の参加者の内、牧師は10数名おられたと思います。こんなに多くの牧師に祈られるとは幸いな人だと思いました。その婦人は3日目に意識が回復されたそうです。消防署の救急担当の方から意識が戻りましたとの電話を受けたとき、私は驚きと喜びで、初めて鳥肌が立つ経験をしました。
もうひとつの経験があります。
昨年の5月から女性合唱団に加えられて毎週1回、集まって.練習しているのですが、昨年の冬、練習中
に突然、1人の婦人が心肺停止に陥りました。この方も、参加者と協力して蘇生出来ました。今も元気に
共に歌っておられます。全ての病気が快復するわけではありませんから、私の乏しい知識が役に立った
としたら、全く幸運としか言いようがありません。大学受験に失敗して、やむなく進んだ道で人の命を
救う一端に関わらせて頂いたこと、これらのことは、神様の導きと御守りを目に見える形で覚える経験となりました。
話はそれますが、私が55才、妹が51才の時のことです。大分に母と2人で住んでいた妹が脳出血で倒れたのです。手術は無事済みましたが、大分で過ごすのは難しいと分かり、迎えに行って飛行機に乗せて伊丹空港へ。空港から大津市民病院へワゴン車のタクシーで直行して入院させました。身体障害者1級で要介護5の妹を次にどこに連れて行けば良いのか、途方にくれて、たまたま、職場のソーシャルワーカーに相談しましたら、その職場の道を挟んだ向かい側の建物が、入所も出来る県立リハビリセンター「むれやま荘」だと教えて下さいました。それまで、私は自分の毎日通う勤務先のすぐ近くにそのような施設があることを全く知らずにいたのです。妹は、ここで1年7ヶ月を過ごした後、南彦根の介護施設に移りました。その後、しばらくして介護施設の責任者の方から私の職場へ「しばらくお姉さんの方で看て下さい。今日、夕方5時にお姉さんのところに連れて行きます」と電話がかかって来ました。妹は後遺症による失語症で自分の思いを伝えることが難しく、介護施設でも手に余る状態になっていました。私は上司の医師に妹の状況を伝えて、当面の介護休暇を申し出ましたが、その日だけは施設の方で見てもらうように、受け入れ先を探すからと言われました。そして、翌日に妹は大津市内の精神科病院に入院することが出来ました。既に、妹は寝たきりに近い状態で私が家で介護できるレベルでもありませんでしたし、私の腰の痛みはかなり強くなっていましたから、この時も私は神様の眼差しと救いの御手を強く感じました。
もうひとつ、神様の御手を感じさせられたことをお話ししようと思います。もう、7〜8年も前の夜の祈祷会に出席した時のことですが、その日の出席者は牧師と1人の兄弟と私の3人でした。初めに讃美歌を歌いますが、初めての歌だったのか、私も他のお二人も殆んど歌えませんでした。それを機に、初めて歌う讃美歌は家で練習しておくことにしました。週報の次週予告欄をみて、知らない讃美歌は、インターネットで調べて少し練習しておくのです。このようにして過ごす内に、思わぬ恵みを神様が下さったと思えることがありました。それは昨年10月21日のことです。北 紀吉牧師をお招きして特別伝道集会がもたれましたが、礼拝の中で(1曲だけでしたが)私達がいつも使っています讃美歌21でなく、54年版の讃美歌222番が用いられました。この讃美歌をインターネットで調べましたら楽譜は出ませんが4番までの歌詞とメロディーが分かりました。初めて聴く讃美歌でしたので、何度か練習して4番までの歌詞を、使い終えた用紙の裏紙にプリントしました。特別伝道礼拝の当日、2番までは礼拝前に配られた讃美歌で歌いましたが、北牧師はなおも続けて歌われます。家での練習用のプリントでしたから、置いてきたかもしれないと思ったのですが、幸いいつもの讃美歌に挟んでありました。それで、北牧師に合わせて歌うことが出来ました。夢中で歌っていましたから、ほかのどなたかも歌っておられたかもしれませんが、北牧師と声を合わせて讃美歌を歌ったことは嬉しい思い出になりました。今日、この証しを準備するにあたってもう一度、歌詞を検索してみたのですが、今回はどうしても見つけることが出来ませんでした。昨年、プリントすることが出来たことは、幸いでした。
日々の生活が、神様の支えと導きの中にあることを思います時、また自分の予想もしないことがしばらくの時(年月)を超えて生かされる時があることを思います時、私はコリントの信徒への手紙1の31節が心に迫ってくるのです。
日曜日、礼拝に招かれなくても生きていけるし、自分の道は自分で切り拓くと思う方がいらっしゃる
かもしれません。また、教会の中でのかかわりを避けたいと思うことがあるかもしれません。それでも、そのような思いを超えて、なお、私は教会の礼拝に与りたいと思います。頂く恵みは余りあると思うからです。これまで歩んできた道を振り返って、神様の確かな導きの御手を覚えて感謝を致します。信じて生きようとする時、苦い思い出さえも、神様に知られている者の平安と心強さを覚えるのです。                                           
私の心に響く祈り、ダグ・ハマーショルドの著書「道しるべ」から、1節を読ませて頂きます。
(ダグ・ハマーショルドは元国連事務総長。任務中に航空機事故で亡くなられました。亡くなる2ヶ月前に記された日記の1節です)

「私たちを 憐れみたまえ。
私たちの努力を 憐れみたまえ―私たちが 愛と信仰とにみち、正義を尊び、へりくだって 御前にいで、己を律し、忠実を守り、勇気をもって 御身のあとについていけますよう、そして私たちが、静寂のうちに 御身に出会えますように。
御姿が見えますように 清い心を 与えたまえ。
御声が聞こえますように 貧しい心を与えたまえ。
お仕えさせていただけますように 愛する心を与えたまえ。
御身のうちに生きられますように 信ずる心を与えたまえ。
御身よ、私は御身を知りませぬが しかも御身のものでございます。」
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:36| 日記