2019年08月25日

2019年9月1日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ナジル人怪力サムソン」
聖書:士師記16章23節〜31節
※礼拝後、誕生者の祝福と誕生日会が行われます。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「小舟に乗る救い主」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書3章7節〜12節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:16| 日記

2019年8月25日 主日礼拝説教「安息日にこそ救いを知る」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書3章1節〜6節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書3章1節から6節の御言葉であります。1節から2節の御言葉をお読みします。「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」
 主イエス・キリストは、会堂に入られました。安息日の礼拝を捧げるためであります。その会堂には、片手の萎えた人、即ち、手の不自由な人がいました。
 人々は、主イエス・キリストが、この人を癒すかどうかに注目しています。決して、主イエス・キリストを受け入れたわけではありません。訴える口実を得るために注目をするのであります。なぜなら、律法によれば、安息日に仕事をすることが禁じられていたからであります。
 しかし、例外もあったようです。律法によれば、命に関わる場合・緊急性の高い場合は、安息日であっても、人を癒すことが許されています。ファリサイ派の人々も、そのことは知っていたでありましょう。
 しかし、ここにいるのは、「片手の萎えた人」であります。特段に緊急性が高いわけでもありません。すぐに、命に関わる問題でもなさそうであります。癒すのであるならば、わざわざ、安息日にする必要がない。翌日でも良いのであります。
 つまり、もし、ここで主イエス・キリストが、この人を癒した場合、それが主イエス・キリストの意図的な行為であることがはっきりとなるであります。そして、そのことを受けて律法違反という仕方で、訴える口実を得ることができるのであります。
 これら人々は、今、自分たちの目の前で、心から痛みを抱え、苦しみを抱え、不自由さに捕らわれている、この人の救いに対して無関心なのであります。この人が救われようが、癒されようが、彼らには関係のないこと。彼らにとって大事なことは、自分たちの正しさをもって、主イエス・キリストを抹殺すること。ただ、それだけが、彼らの関心事なのであります。つまり、神の御子を否定する所では、本当の意味で隣人を愛せない現実があることを、ここから教えられるのではないでしょうか。
 そのような悲しい現実の中で、3節の御言葉が語られています。3節の御言葉をお読みします。「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。」
 主イエス・キリストは、片手の萎えた人に、次のように言います。「真ん中に立ちなさい」と。恐らく、この人は、会堂の隅っこにいたのかもしれません。申し訳なさそうに、隅っこにいたのかもしれない。あるいは、人々に強制されて隅っこにいたのかもしれない。人々から排斥され、関心を持たれることなく、会堂にいたかもしれない。
 しかし、主イエス・キリストは、この隅っこにいる人間に注目されるた。そして、「真ん中に立って良い」と言うのであります。「堂々として良い」ということです。「あなたも神様の子どもではないか。あなたも大切な存在ではないか。神様の御前で、あなたも立って良いんだ。」そのように語りかける主の姿が、ここにあるのであります。
 主イエス・キリストを通して、あるいは、キリストの招きを通して、隅っこに生きざるを得なかった人が、立ちあげられ、神様の前に立つことが許されていく。これは大きな幸いであります。
 そして、ここにこそ救い主の深い救いがあるのではないでしょうか。決して、見世物にしたいわけではありません。救い主の救いとは、主イエス・キリストの招きを通して、神様の御前に、一人の子どもとして、立つことが許されるということ。そこに救い主による救いがあるのだということなのであります。そのことを、主イエス・キリストは、この人を通して、証しておられるのではないかと思うのであります。
 4節から5節の御言葉をお読みします。「そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことは、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」
 ここで主イエス・キリストは、何を問うているのでしょうか。それは、安息日とは何かということであります。正しい安息日とは何か。それは、仕事をしないことなのでしょうか。それは何もしないことなのでしょうか。それが、正しい安息日の意味なのでしょうか。ファリサイ派の人々は、それが、正しい安息日であると考えたようです。しかし、主イエス・キリストは、全く逆の視点をもって、安息日を説明しているのであります。
 本当の安息日とは何か。それは、救いを知る日ではないか。祝福を知る日ではないか。それをここで改めて強調しているのではないでしょうか。
 「善を行う」とは、「神様の御心に適ったことを行う」という意味であります。正しい安息日にこそ、神様の御心が行われるべきなのであります。そして、その神様の御心とは、人を縛り付けることではなく、人に安息を与え、喜びを与え、救いを与えることなのだということも、ここで強調されているのだと言えるのであります。
 主イエス・キリストは、安息日にこそ、救いが実現されるべきだと語ります。安息日にこそ、神様の救いの御業が明らかにされるべきだと語っている。
 それに対して、人間は、何も答えない。黙り込んでしまう。この沈黙は、拒絶による沈黙が込められています。人々は、その救いを受け入れない。受け入れたいと思えない。だから沈黙をする。知らんぷりをするのであります。
 即ち、自分の正しさを優先し、神様の御業を拒絶してしまう。自分の正しさを誇ることで、本当の救いを見出せない。そのような現実に落ちてしまっているのであります。 
 そのような現実に対して、主イエス・キリストは、怒りを持たれたのであります。優しいイメージのある主イエス・キリストが、怒りの心をもたれた。
 しかし、同時に、悲しみも抱かれる。悲しんでくださる。人々の頑なさ、弱さ、無知を怒りつつ、しかし、深く悲しまれる。この感情の起伏は、彼らを深く愛していることの裏付けになるだろうと思います。怒るだけではない。悲しみを抱かれる。それは、愛情ありきの感情なのであります。
 そして、そのような感情を抱きつつ、主イエス・キリストは、手の萎えた人を癒される。即ち、神様の恵みの御業を行われた。ここに神様がいるよ。ここに神様の救いの恵みがあるよ。ここにこそ、神が与える真の安息があるんだ。
 自分を拒絶し、自分を殺そうと思う人々に対して、それでも、主イエス・キリストは、御自身を通して、神が今、この安息日に生きて働かれていることをお示しになられたのであります。人間の頑なさよりも大きな憐れみをもって、主は、神様の救いを証しし続けてくださる。その幸いを深く思う者であります。私達も心が頑なになってしまうことがあるかもしれない。心の目が閉じてしまうかもしれない。しかし、そのような中においても、主は、御自身の御言葉と御業をもって、私達に、神が生きている。神様の恵みがここにあるのだと証し続けてくださるのだろうと思うのであります。
 律法によれば、命に関わる場合、安息日に癒しを行うことは許されています。主イエス・キリストが、この人を癒された、ということ。それは、「命に関わる」からでありましょう。
 いや、ここにいる全ての人が、今、命の危険にある。だからこそ、主イエス・キリストは、公衆の面前で、人々の真ん中で、救いの御業を行われたのだろうと思います。
 体の癒しだけが、本当の救いではありません。体の中にある心が、命の危機に瀕することがあります。神様から心が離れることがある。神様の御心から離れることがある。神様の前に立てないことがある。その全てもまた、命の危険であります。主イエス・キリストは、この命の危険を、ここにいる全ての人の内に見出しておられたのではないでしょうか。 そして、今、私達もまた、その危険の中に生きているのかもしれない。しかし、そのような絶望的な現実の中にこそ、主が立っておられる。癒しを行って下さる。救いを実現して下さる。神の前に立って良い。あなたも神の子どもだ。大切な存在だ。そのように私達を招き、そのような存在へと新たに造り替えてくださる。そのところで、私達は、本当の意味で、真の安息を得ることができるのだろうと思うのであります。
 この一連の出来事を経て、人々は、ヘロデ党の人々と一緒に、主イエスを殺す計画をします。神様の救いを受け入れず、神様の御心よりも、自分たちの思いや正しさを優先した結果がここにあります。
 ファリサイ派の人々は、ユダヤ中心主義です。ヘロデ党の人々は、外国との関係を大事にします。両者は、本来、相容れない関係にあります。しかし、両者の関係が一致していく。主イエス・キリストを殺すという目的をもって一致していく。
 つまり、主イエス・キリストの死は、一部の人間の計画によって起きたのではなく、この世界において、全ての人間が関わっているのであります。
 この計画の通り、主イエス・キリストは、十字架に架かります。しかし、この計画は、神様の救いの計画でもありました。私達の罪のために十字架に架けられた救い主。その救い主の命を通して、全ての人が神様の子どもとされていく。神様の国へと招かれていく。 この主イエス・キリストが、今、私達の内にも生きておられます。そして、主は招かれるのです。真ん中に立ちなさい。あなたも神の子なのだ。あなたも大切な存在なのだと。安息日は、正に、この大きな救いと幸いを、共に知り、味わう一日なのではないでしょうか。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:14| 日記