2019年09月29日

2019年10月6日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「少年ダビデ、ゴリアトと戦う」
聖書:サムエル記上17章41節〜50節
※礼拝後、誕生者祝福の祈りと誕生日会が行われます。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「御言葉の種が蒔かれる」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書4章1節〜20節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びが行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:20| 日記

2019年09月22日

2019年9月29日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「サウル、イスラエル最初の王になる」
聖書:サムエル記上10章17節〜24節
※礼拝後、分級があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「私たちのもとに、やって来られる救い主」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書1章29節〜34節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:34| 日記

2019年9月22日 主日礼拝説教「神の家族になるために」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書3章31節〜35節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書3章31節から35節の御言葉であります。31節の御言葉をお読みします。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」
 主イエス・キリストの家族が、主イエス・キリストのもとに来ました。そして、彼らは、外に立って、人を使い、呼び出します。主イエス・キリストの輪の中には、入らないで、あくまでも、外に立って、人の口を使って、呼び出しているのです。
 そもそも、なぜ、彼らは、主イエス・キリストを呼び出す必要があるのでしょうか。それは、主イエス・キリストを、家族の元へ連れて帰るためです。
 なぜ、連れて帰る必要があるのでしょうか。主イエス・キリストが、暴走していると聞いたからであります。聖書の言葉に従って申し上げるならば、「気が変になっている」と聞いていたからであります。恐らく、身内の人たちも又、そのような気持ちで、主イエス・キリストを見つめていたかもしれません。自分の息子が、自分の兄弟の気が変になっている。そのように考えたかもしれない。そうでなければ、わざわざ、呼び出す必要はないだろうと思います。
 ここで注目すべき言葉は、「外に立つ」という言葉であります。身内の人たちは、主イエス・キリストの輪の中には入らない。仲間にならない。あくまでも、主イエス・キリストと取り巻く民衆の「外に立って」、恐らく、批判的な目を向けていただろうと思います。あるいは、気が変になった息子を心配していたのだろうと思うのであります。
 しかし、ここで、マルコによる福音書は、非常に、厳しい問いかけをしているのです。この「外に立つ」という言葉には、もう一つ、重大な意味があるのです。実は、この言葉を直訳すると、「気が変になる」という意味を持っているのです。
 つまり、マルコによる福音書は、ここで「本当に、気をおかしくしているのはどっちなのか」。そのことを問いかけているのであります。
 福音宣教に生き、福音を語り、悪霊を追放し、救いを実現している御方が、「気をおかしくしている」のでしょうか。あるいは、救いを実際に起きていることを知りながら、主イエスを救い主として理解できない身内が、「気をおかしくしている」のでしょうか。
 元々、母マリアは、主イエス・キリストを身ごもった時、何と言ったでしょうか。「わたしの主のはしためです。お言葉の通り、この身になりますように」。そのように言ったのであります。母マリアもまた、神様の御言葉の中に生きていた。しかし、今、マリアは、御言葉の外に生きている。本当に、気が変になっているのは、どちらなのか。
 私達もまた、御言葉に聴く者です。その恵みに生きているものです。しかし、気がついたら、御言葉の外に生き、外の言葉に支配されていないだろうか。私達も又、気が変になってしまうことがないだろうか。それが、まず、ここで厳しく問われていくのではないでしょうか。
 32節から34節の御言葉をお読みします。「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』」。
 ここには、二通りの人間がいます。一つは、肉親でありながら、主イエス・キリストの輪に入ることもなく、キリストの御言葉に聴くこともない、外に立つ人々。もう一つは、肉親ではないけれど、主イエス・キリストを求め、キリストの御言葉の中に生きる人々。 この二通りには、明確な違いがあります。しかし、本当にそうであるのか。両者には、本当に違いがあるのか。そのことを踏まえて、この御言葉に聞いていきたいと思います。
 主イエス・キリストは、キリストに連なり、キリストの御言葉に生きる人々を指して、「ここに私の家族がいるのだ」と語っています。つまり、御言葉の内に生きるか否か。それが、キリストの家族であるかどうかの境目になるのであります。
 しかし、主イエス・キリストは、続けて、次のように語っています。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。神様の御心に適った人こそ、主イエス・キリストの家族であり、神の家族なのだということであります。
 この二つのことを合体して言い直すならば、「キリストの御言葉の中に生きる人こそが、神様の御心に適った人であり、神様の家族なのだ」ということなります。これを、更に端的に申し上げるならば、「主イエス・キリストの御言葉に聴くだけで、神様の御心を行う人になれる」ということになります。「御言葉に聴く」、という行いが、神の御心に適った人になる条件となり、神の家族になる条件になるということになるのです。
 しかし、このような解釈は、正しいのでしょうか。例えば、先ほども申し上げましたが、母マリアは、初めは、神様の御言葉の中に生きた人でありました。しかし、今は、神様の御言葉の外に立っています。
 民衆はどうでしょうか。彼らは今、キリストの御言葉の中に生きています。しかし、この民衆が、後に、主イエス・キリストから離れ、主イエス・キリストを十字架に付けてしまうのです。最後には、彼らは、キリストの御言葉の外に生きることを選んだのであります。その意味で申し上げるならば、この場所で、堂々と、「自分は、神の御心を行う人間だ」と胸を張って言える人は、誰もいない、ということになるのであります。
 つまり、身内の人も、民衆も、外見的には違いはありますが、質的には、同じ人間であり、同じ過ちを犯すことになるのであります。
 人間というのは、どこまでも不安定な生き方をするということであります。一貫性がなく、矛盾に満ち、自分の思いのままに従って生きるのが人間なのであります。人間の行為・行いや服従も、その意味では、全く不完全なのだということになるのであります。
 しかし、主イエス・キリストは、そのような不完全な民衆を指して、「ここに神の家族がいる」「ここに神の御心を行う人がいる」と宣言してくださる。キリストの御言葉の中に生きる不完全な人間を指して、「ここに、わたしの家族がいるのだ」と言ってくださる。
 これはどういう意味なのでしょうか。それは、主イエス・キリストに連なり、キリストの御言葉の中に生かされていく時、そこで、その人が、神様の御心に適った者へと造りかえられている、ということなのであります。この私が、御言葉に聴いているから、神の家族になるのではないのです。キリストの御言葉に聴き、その恵みの中に生きる時、キリストが、憐れみによって、その人を家族へと招き、神の家族へと、神の目に相応しい者へとその存在を造り替えてくださるのであります。
 ここに、私達の現実があるのではないでしょうか。私達もまた、喜びをもって、希望をもって、主イエス・キリストの御言葉に耳を傾けるものであります。そして、その御言葉の恵みの中で生活をするのです。
 しかし、私達の知らない内に、御言葉の外に立っていないでしょうか。御言葉の中から離れ、御言葉の外に立ち、外の言葉に支配されていないでしょうか。その時、今朝の御言葉は、私達に厳しく問いかけているのです。「本当に気が変になっているのは誰なのか」と。
 しかし、主イエス・キリストは、そのような私達を指して、見渡して、「ここに私の家族がいるよ」「あなたは家族だよ」「あなたは御心に適った存在だよ」と言ってくださる。あるいは、そのように、招いてくださる。キリストの御言葉の中に生きる私達は、そのような恵みを噛みしめながら、そのような罪の赦しを味わいながら生きることが赦されているのであります。私達が、御言葉に聴いたから、恵みを得るのではありません。御言葉の恵みの中に、身を置いたとき、主が、あなたをそのような存在として、新たに呼び出してくださるのです。
 この御言葉は、決して、民衆だけに語られたものではないでありましょう。御言葉の外に立つ、身内の人たちにも向けられた招きの言葉であります。御言葉の外にいても、内にいても、主イエス・キリストは、今、皆さんを招いておられるのです。どのような立場にあっても、主イエス・キリストは、「ここに喜びがある。」「ここに真実がある。」「ここに、神の家族の交わりがある」のだと、招いてくださる。そして、あなたもここに来て良いのだ。そのように招いてくださる。新しい一週間の歩みが始まります。御言葉の外に立つこともあるかもしれない。そのような悲惨な現実の中でこそ、御言葉の中へと招く主の声があるということを、改めて覚えて歩みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:31| 日記