2019年09月08日

2019年9月8日 主日礼拝説教「使徒を選び遣わす主」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書3章13節〜19節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書3章13節から19節の御言葉であります。13節から15節の御言葉をお読みします。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」
 主イエス・キリストは、十二人の弟子たちを選びます。そして、彼らを「使徒」と名付けました。
 さて、この聖書箇所は、私達と無関係なのでしょうか。それは違います。教会は、別名「使徒的教会」とも呼ばれることがあります。これはどういう意味でしょうか。
 これは、私達もまた、「使徒の後に続く者」であるということです。そのように考えるならば、この聖書箇所は、私達と無関係ではありません。いやむしろ、この聖書箇所は、私達自身について記された箇所であるとも言えるかもしれません。
 「使徒的教会」の枝である私達が、どのようにして使徒となるのでしょうか。「使徒的教会」の枝として、私達は何を大事にし、何をするのでしょうか。それが、ここで強調されていることなのであります。そのことを踏まえた上で、今朝の御言葉を読んでいくことが大切なのであります。
 それでは、弟子たちは、どのようにして「使徒」として選ばれたのでしょうか。彼らの能力が評価されたからでしょうか。他の人よりも優れた所があったからでしょうか。
 それは違います。今朝の御言葉には、主イエス・キリストが、彼らを「任命した」と記されています。
 この「任命」という言葉は、「造り出す」という意味があります。因みに、「使徒」という言葉は、「派遣」という意味もあります。つまり、主イエス・キリストは、十二人を「派遣するために任命された」のであります。
 「派遣すること」も、「任命すること」も、本来ならば、その人の「資格」が問われます。言い方を変えるならば、派遣するのに相応しいかどうか。その評価が大事になるのであります。
 しかし、聖書は、「任命」という言葉を「造り出す」という言葉で表現しているのです。つまり、資格が大事なのではないのです。評価が大事でもないのです。主イエス・キリストが選び、そして、新しい者へと造り出してくださる。あるいは、相応しい者へと造り替えてくださる。それが、「使徒」になるということなのであります。主イエス・キリストの弟子になるということなのであります。
 私達の能力が評価されたわけではないのです。ただ、主イエス・キリストが、あなたを認め、あなたを神様の御業のために相応しい者へと、新たに造り替えてくださる。その大きな恵みの中でこそ、使徒の働き、教会の働き、私達の働きが求められていくのであります。まずは、その深い幸いを深く心に留めておきたいと思います。
 それでは、「使徒」の務めとは何でしょうか。あるいは、「教会」「キリスト者」の働きとは何でしょうか。
 それは、「派遣して宣教すること」であり、更に「悪霊を追い出すこと」であります。「宣教」とは何でしょうか。「福音」を宣べ伝えることであります。「神様の救いを伝えること」であります。これが、「使徒の務め」であります。あるいは、使徒に続く教会の務めなのであります。他の何かが求められているわけではありません。ただ、福音を伝えていくことが大事なのであります。ただただ一心に神様の救いの喜びを伝えていくことが大事なのであります。教会として、あれやこれやと色々なことをする必要はないのです。今、あなたを生かし、あなたを救う、神の力を、喜びと共に伝えていくこと。これが、使徒的教会の務めなのであります。
 そして、聖書によれば、「悪霊を追い出す」こと。これも、使徒的教会の務めとして記されています。何か難しいことが求められているのでしょうか。そうではありません。
 思い起こしてください。私達もまた、元々は、悪霊に支配されていたのではないですか。神様に背を向けていたこともなかったでしょうか。悪霊の思うがままになっていた時がなかったでしょうか。
 しかし、今、私達は、主イエス・キリストを通して、あるいは、主の御言葉を通して、神様の救いの御支配の中に生きる者とされているのではないですか。神様の救いが、その私達の内に支配しているではないですか。
 私達が受けた恵みを、そのまま伝えていけば良いのです。私達の内に、実際に起きた、悪霊からの解放を伝えていくことが大事なのであります。私達が頂いた、神様の救いの支配を宣べ伝えていけば良いのです。あなたに起きた救いは、あなたの社会に生きる人々の内にも起きるのではないでしょうか。
 さて、「福音宣教をすること」「悪霊からの解放を宣言すること」。この二つのことが、使徒の務めであり、後に続く教会の務めでもあります。
 しかし、本当に大事なことが、もう一つあります。それは、使徒たちは、あるいは、教会は、いつも「主イエス・キリストのそばに置かれている」ということです。主イエス・キリストが共にいるということです。主イエス・キリストが、私達に傍にいて、福音を語り続けてくださり、支え続けてくださる、ということです。
 つまり、主イエス・キリストを離れては、使徒の務め、教会の務めを行うことはできないということです。私達は、いつも主イエス・キリストと深く結ばれて、主イエス・キリストの御言葉に聴くことが許され、その恵みの中で、教会の務めに生きるものとされているのであります。
 私達が、キリストから離れてしまうような危機もあるかもしれません。しかし、主イエス・キリストは、それでも、教会のそばにたち、私達を御言葉によって、立ち上がらせ、新たに造り替え、新たに歩ませてくださるのであります。いつでもそばにキリストがいてくださるからこそ、私達は、教会の務めを果たすことができる。キリストなくして、何もできないのであります。その幸いがここから強く強調されていくのであります。
 16節から19節の御言葉をお読みします。「こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの教会ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「神の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」
 ここには、任命された使徒たちの名前が記されています。ここには、他の人よりも、特別な何かがあったのでしょうか。ここに記された使徒たちは、他の人よりも優れた能力があったのでしょうか。
 シモンは「ペテロ」と呼ばれます。ペテロとは、「岩」という意味です。シモンは、「岩」のように強い人だったのでしょうか。そうではありません。
 実際には、弱さが沢山ありました。主イエス・キリストを否認し、裏切り、逃げ出してしまうこともあったのであります。決して強くないのが、ペテロの本当の姿であります。
 それでも、主イエス・キリストは、シモンを「ペテロ」と呼ばれる。それは、正に、神様の恵み、憐れみ、赦しが、岩のように力強いということでありましょう。ペテロの力ではなく、神の恵みや憐れみの力強さを象徴する。それが、ペテロなのであります。
 ヤコブとヨハネは、「雷の子」と呼ばれています。これは、「気性が荒い」、「怒りっぽい」という意味であります。それは、言うならば、使徒にしておくには、あまりにも不適合であるかもしれません。自分勝手で、怒りっぽい人間が、使徒に相応しいとは、到底、思えないものであります。
 他にも、徴税人や漁師たちがいました。熱心党のシモンは、恐らく、政治的過激派の一人であったことでしょう。言い方を変えるならば、「世界の敵」と呼んでも良いかもしれません。そのような人も使徒の中にいたのであります。そして、イスカリオテのユダ。もう言わなくてもお分かりだと思いますが、ユダは、主イエス・キリストを裏切ってしまいます。
 このように人間的に見るならば、欠けの多い器ばかりです。使徒や弟子にするには、価値の見出せない、相応しくない器であります。
 そして、主イエス・キリストは、正に、そのような彼らの現実を深く知っていたでありましょう。主イエス・キリストは、彼らの弱さを見抜けなかったわけではないと思います。主イエスは、彼らの弱さをよく知っていたでありましょう。
 しかし、彼らを使徒として任命したのであります。言い方を変えて言うならば、そのような彼らの内に、価値を生み出し、相応しいものへと造り替えてくださった。ここに救い主の深い救いが込められている。愛が込められている。そのことを改めて深く思うものなのであります。
 私達も又、欠けの多い者かもしれません。完璧な人間はいないでありましょう。しかし、そのあなたに価値を生み出し、相応しいものへと、主が造り替えてくださり、必要としてくださるのであります。
 この使徒たちは、最後には、皆、主イエスを裏切ります。そして、主イエスは十字架に架けられていく。本当に弱い存在です。欠けに満ちた存在であるかもしれない。しかし、その弟子達のためにも、主は、十字架に架かられ、復活し、再度、彼らと出会ってくださるのであります。この深い恵みの内に、使徒たちは、教会を立てていくのであります。そして、今、私達もまた、その恵みに連なったものでもあるのです。
 私達にも欠けが沢山あるかもしれない。しかし、その私達もまた、主の傍に置かれ、御言葉を頂いているのです。「あなたの罪は赦されている。」「あなたには価値があるのだ。」「あなたを新しく造り替えるんだ。」そのように、私達の一番近い所で、今も、主は語り続け、私達を、新たに造り替え、主の御業のために必要としてくださっているのです。その幸いを改めて、心に留めつつ、新たなる日々に歩みを進めていきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:06| 日記

2019年09月02日

2019年9月8日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ルツの決意」
聖書:ルツ記1章11節〜19節a
※礼拝後、分級が行われます。
※保護者の方々も是非、共にお越しください。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「使徒を選び遣わす主」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書3章13節〜19節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びが行われます。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:39| 日記

2019年9月1日 主日礼拝説教「小舟に乗る救い主」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書3章7節〜12節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書3章7節から12節の御言葉であります。7節から8節をお読みします。「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まってきた。」
 主イエス・キリストは、弟子たちと共に湖の方へ立ち去られます。この「立ち去る」という言葉は、「退却する」「逃げる」という意味もあります。
 なぜ、主イエス・キリストは、逃げる必要があったのでしょうか。それは、ファリサイ派の人たちとヘロデ党に命を狙われていたからであります。
 つまり、この聖書箇所では、まず、両極端にいる人間の姿を描いています。一方では、主イエス・キリストを殺したいと願う人たちがいました。しかし、もう一方では、主イエス・キリストに従う大勢の人々がいたのであります。聖書によれば、従った人々は、ユダヤ全土だけではなく、異邦人も含まれています。外見的に言うならば、主イエス・キリストの伝道が成功したとも言えるかもしれません。
 しかし、果たして、この両者は、両極端にいると言えるのか。ファリサイ派の人々と群衆には、本当の違いがあるのか。それが、今朝の御言葉の大切なポイントになります。
 そもそも、なぜ、ファリサイ派の人々やヘロデ党−言い方を変えて申し上げるならば、宗教的指導者と政治的指導者−が、主イエス・キリストを殺したいと思ったのでしょうか。
 それは、自分たちの権威が危機にさらされてしまうからであります。自分たちの正しさや自分たちの立場が危険に陥るからであります。彼らは、主イエス・キリストを、私の主人として迎えることができないのであります。なぜでしょうか。自分が主人でいたいから。自分が、支配者でいたいから。自分が権威者であり続けたいからであります。だから、主イエス・キリストは、彼らにとって、邪魔な存在になるのです。少し視点を変えて言うならば、主イエス・キリストが、自分たちにとって都合の悪い存在だから。だから、殺したいと願うのであります。
 このように、主イエス・キリストに対する殺意は、自分が主人でいたい、という自分中心の心から生まれてくるのだということ。そのことを深く踏まえておきたいと思います。
 それでは、なぜ、群衆は、主イエス・キリストに従い、主イエス・キリストに押し寄せてくるのでしょうか。聖書には、次のように書いてあります。「イエスのしておられることを残らず聞いて」と。
 主イエス・キリストが「していることを残らず聞いて」、押しかけてきたのであります。主イエス・キリストの行為、即ち、主イエス・キリストの癒しの御業を聞いて、押しかけてきたことになります。つまり、群衆は、主イエス・キリストの行為に目を向けている。目に見える奇跡だけに思いを向けている。
 言い方を変えるならば、人間の願望に応えてくれる救い主だから、押し寄せてくるのであります。しかし、これは、この時代だけのことではないだろうと思います。この現代においても、あるいは、私達個人においても、願望は尽きません。生活のこと、健康のこと、命のこと、将来のこと。様々な悩みや願いがあります。そして、その願いに答えてくれる存在を、誰もが願っているかもしれません。
 しかし、このような人間の現実は、何を表しているでしょうか。それは、救い主は、願いを叶える存在だという思いです。自分の願いに応えてくれる救い主だけを望む心であります。逆に言うならば、自分の願いに応えられない救い主は、救い主ではない、ということになります。
 自分の願いに応えてくれる救い主であって欲しい。目に見える豊かさを保障してほしい。そう願う私達は、もしかすると、自分が、神様の主人になっていないでしょうか。自分が主人になって、救い主を従わせているのではないでしょうか。つまり、この群衆も又、自分が主人に立った上で、救い主を見つめている。その意味で申し上げるならば、ファリサイ派と違うとは言い切れないのではないでしょうか。この聖書箇所は、その意味で、救い主は、誰からも理解されることのない救い主だったのだ、ということを明確にしているのであります。
 それでは、このような無理解の人間に対して、主イエス・キリストは何をされるのでしょうか。9節の御言葉をお読みします。「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」
 主イエス・キリストは、ここで用意された小舟に乗られます。何のためでしょうか。民衆と距離を置くためであります。
 しかし、それだけのためではありません。例えば、4章以下を読みますと、同じように、主イエス・キリストが舟に乗られる姿が描かれています。そこで何をされたのでしょうか。主イエス・キリストは、そこで、民衆に向かって御言葉を語られたのであります。
 恐らく、ここでも同じようなことがなされただろうと推測できます。つまり、主イエス・キリストは、ここで御言葉を通して、人々の信仰の目を開き、救いを得させようとされたのではないでしょうか。目には見えない言葉をもって、主イエス・キリストは、救いを語られたのであります。目に見える、形ある救いでなければ受け入れない、という偽りの信仰ではなく、目には見えないけれど、信仰を通して、キリストを受け入れていく。キリストと一つにされていく。その部分を、主イエス・キリストは重要視されたのであります。目に見えるものだけを受け入れるというのは、偽りの出会いです。目には見えないけれど信じて耳を傾けていくところに、キリストとの真実なる出会いがある。そして、そこに真の信仰による救いがある。主イエス・キリストは、その部分を大切にしておられたのだろうと思うのであります。
 これは、私達においても大切なことでありましょう。教会は、舟であります。決して大きくない教会です。だから、小舟かもしれない。しかし、そこに、主イエス・キリストがいてくださる。そこで、主イエス・キリストが、救いを語り、信仰を起こしてくださる。それが、教会なのであります。そして、今、私達もまた、この御言葉を通して、本当の意味での安息を得ることが許されている。その幸いを深く思うものであるのです。
 しかし、これから、この群衆は、皆、主イエス・キリストを離れていきます。そして、主イエス・キリストを十字架にかけてしまいます。なぜでしょうか。自分の願いに答えない救い主は、邪魔なだけだから。自分の願いに従わない救い主は、いらないから。だから、救い主を十字架にかけてしまう。正に、ファリサイ派の人たちとヘロデ党の人たちを同じ路線に、群衆も立ってしまうのであります。
 このような人間の悲惨な現実の中で、主イエス・キリストを「神の子」と呼ぶ存在があります。それが「汚れた霊」であります。11節の御言葉をお読みします。「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」
 汚れた霊だけは、主イエス・キリストを「神の子」と呼んでいます。しかし、主イエス・キリストは、汚れた霊を沈黙させます。なぜでしょうか。主イエス・キリストを「神の子」と言うのは、汚れた霊の務めではないからであります。私達人間が、主イエスを真の神の子と知ることができるのは、「ここではない」「この時ではない」ということなのであります。
 では、私達は、どこで、いつ、それを知ることができるのでしょうか。それが、十字架の出来事の中で知ることができるのであります。人々の悪意と不信仰によって十字架刑が行われます。しかし、その人間の罪の極みの中でこそ、イエス様が、神様の子どもであり、真の救い主であり、キリストにこそ救いがあることを知ることができる。
 十字架のもとで、ローマの百人隊長は何を語ったでしょうか。「本当に、この人は神の子だった」と語るのであります。十字架に架けられた主イエス・キリストを通して、主イエスが、真の神の子、真の救い主であることを知ることができる。そして、この十字架にこそ、神の救いの御業があることが分かる。主イエス・キリストは、そのことをここで語っておられるのであります。
 私達の罪のために十字架に架けられ、死んで復活された、救い主は、今も生きておられます。そして、小舟である教会の中で、今も、真実の出会いを求めて、あなたに御言葉を語り続けておられます。あなたのために十字架に向かうのだ。あなたの罪を清めるために、あなたの罪を背負って、私は十字架に向かって行くのだ。目に見える救いではないかもしれない。形ある豊かさの保障ではないかもしれない。だからこそ、目には見えない、あなたを永遠に生かす命を与える為に、私は、あなたに語り続けるのだ。これを信じて従って欲しい。
 主イエス・キリストは、今も、生きて、小舟にのって、私達に語り続けてくださるのであります。この恵みを深く心に留め、心の目を開いて、キリストとの真実の出会いを果たしていく日々を歩みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:35| 日記