2019年09月08日

2019年9月15日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ハンナの祈り」
聖書:サムエル記上1章9節〜20節
※礼拝後、手話を楽しく学ぶ時間があります。
※保護者の方々も、是非、お越しください。お子様だけでも結構です。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「救い主の勝利」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書3章20節〜30節
※礼拝後、コーヒーブレイクがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:09| 日記

2019年9月8日 主日礼拝説教「使徒を選び遣わす主」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書3章13節〜19節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書3章13節から19節の御言葉であります。13節から15節の御言葉をお読みします。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」
 主イエス・キリストは、十二人の弟子たちを選びます。そして、彼らを「使徒」と名付けました。
 さて、この聖書箇所は、私達と無関係なのでしょうか。それは違います。教会は、別名「使徒的教会」とも呼ばれることがあります。これはどういう意味でしょうか。
 これは、私達もまた、「使徒の後に続く者」であるということです。そのように考えるならば、この聖書箇所は、私達と無関係ではありません。いやむしろ、この聖書箇所は、私達自身について記された箇所であるとも言えるかもしれません。
 「使徒的教会」の枝である私達が、どのようにして使徒となるのでしょうか。「使徒的教会」の枝として、私達は何を大事にし、何をするのでしょうか。それが、ここで強調されていることなのであります。そのことを踏まえた上で、今朝の御言葉を読んでいくことが大切なのであります。
 それでは、弟子たちは、どのようにして「使徒」として選ばれたのでしょうか。彼らの能力が評価されたからでしょうか。他の人よりも優れた所があったからでしょうか。
 それは違います。今朝の御言葉には、主イエス・キリストが、彼らを「任命した」と記されています。
 この「任命」という言葉は、「造り出す」という意味があります。因みに、「使徒」という言葉は、「派遣」という意味もあります。つまり、主イエス・キリストは、十二人を「派遣するために任命された」のであります。
 「派遣すること」も、「任命すること」も、本来ならば、その人の「資格」が問われます。言い方を変えるならば、派遣するのに相応しいかどうか。その評価が大事になるのであります。
 しかし、聖書は、「任命」という言葉を「造り出す」という言葉で表現しているのです。つまり、資格が大事なのではないのです。評価が大事でもないのです。主イエス・キリストが選び、そして、新しい者へと造り出してくださる。あるいは、相応しい者へと造り替えてくださる。それが、「使徒」になるということなのであります。主イエス・キリストの弟子になるということなのであります。
 私達の能力が評価されたわけではないのです。ただ、主イエス・キリストが、あなたを認め、あなたを神様の御業のために相応しい者へと、新たに造り替えてくださる。その大きな恵みの中でこそ、使徒の働き、教会の働き、私達の働きが求められていくのであります。まずは、その深い幸いを深く心に留めておきたいと思います。
 それでは、「使徒」の務めとは何でしょうか。あるいは、「教会」「キリスト者」の働きとは何でしょうか。
 それは、「派遣して宣教すること」であり、更に「悪霊を追い出すこと」であります。「宣教」とは何でしょうか。「福音」を宣べ伝えることであります。「神様の救いを伝えること」であります。これが、「使徒の務め」であります。あるいは、使徒に続く教会の務めなのであります。他の何かが求められているわけではありません。ただ、福音を伝えていくことが大事なのであります。ただただ一心に神様の救いの喜びを伝えていくことが大事なのであります。教会として、あれやこれやと色々なことをする必要はないのです。今、あなたを生かし、あなたを救う、神の力を、喜びと共に伝えていくこと。これが、使徒的教会の務めなのであります。
 そして、聖書によれば、「悪霊を追い出す」こと。これも、使徒的教会の務めとして記されています。何か難しいことが求められているのでしょうか。そうではありません。
 思い起こしてください。私達もまた、元々は、悪霊に支配されていたのではないですか。神様に背を向けていたこともなかったでしょうか。悪霊の思うがままになっていた時がなかったでしょうか。
 しかし、今、私達は、主イエス・キリストを通して、あるいは、主の御言葉を通して、神様の救いの御支配の中に生きる者とされているのではないですか。神様の救いが、その私達の内に支配しているではないですか。
 私達が受けた恵みを、そのまま伝えていけば良いのです。私達の内に、実際に起きた、悪霊からの解放を伝えていくことが大事なのであります。私達が頂いた、神様の救いの支配を宣べ伝えていけば良いのです。あなたに起きた救いは、あなたの社会に生きる人々の内にも起きるのではないでしょうか。
 さて、「福音宣教をすること」「悪霊からの解放を宣言すること」。この二つのことが、使徒の務めであり、後に続く教会の務めでもあります。
 しかし、本当に大事なことが、もう一つあります。それは、使徒たちは、あるいは、教会は、いつも「主イエス・キリストのそばに置かれている」ということです。主イエス・キリストが共にいるということです。主イエス・キリストが、私達に傍にいて、福音を語り続けてくださり、支え続けてくださる、ということです。
 つまり、主イエス・キリストを離れては、使徒の務め、教会の務めを行うことはできないということです。私達は、いつも主イエス・キリストと深く結ばれて、主イエス・キリストの御言葉に聴くことが許され、その恵みの中で、教会の務めに生きるものとされているのであります。
 私達が、キリストから離れてしまうような危機もあるかもしれません。しかし、主イエス・キリストは、それでも、教会のそばにたち、私達を御言葉によって、立ち上がらせ、新たに造り替え、新たに歩ませてくださるのであります。いつでもそばにキリストがいてくださるからこそ、私達は、教会の務めを果たすことができる。キリストなくして、何もできないのであります。その幸いがここから強く強調されていくのであります。
 16節から19節の御言葉をお読みします。「こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの教会ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「神の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」
 ここには、任命された使徒たちの名前が記されています。ここには、他の人よりも、特別な何かがあったのでしょうか。ここに記された使徒たちは、他の人よりも優れた能力があったのでしょうか。
 シモンは「ペテロ」と呼ばれます。ペテロとは、「岩」という意味です。シモンは、「岩」のように強い人だったのでしょうか。そうではありません。
 実際には、弱さが沢山ありました。主イエス・キリストを否認し、裏切り、逃げ出してしまうこともあったのであります。決して強くないのが、ペテロの本当の姿であります。
 それでも、主イエス・キリストは、シモンを「ペテロ」と呼ばれる。それは、正に、神様の恵み、憐れみ、赦しが、岩のように力強いということでありましょう。ペテロの力ではなく、神の恵みや憐れみの力強さを象徴する。それが、ペテロなのであります。
 ヤコブとヨハネは、「雷の子」と呼ばれています。これは、「気性が荒い」、「怒りっぽい」という意味であります。それは、言うならば、使徒にしておくには、あまりにも不適合であるかもしれません。自分勝手で、怒りっぽい人間が、使徒に相応しいとは、到底、思えないものであります。
 他にも、徴税人や漁師たちがいました。熱心党のシモンは、恐らく、政治的過激派の一人であったことでしょう。言い方を変えるならば、「世界の敵」と呼んでも良いかもしれません。そのような人も使徒の中にいたのであります。そして、イスカリオテのユダ。もう言わなくてもお分かりだと思いますが、ユダは、主イエス・キリストを裏切ってしまいます。
 このように人間的に見るならば、欠けの多い器ばかりです。使徒や弟子にするには、価値の見出せない、相応しくない器であります。
 そして、主イエス・キリストは、正に、そのような彼らの現実を深く知っていたでありましょう。主イエス・キリストは、彼らの弱さを見抜けなかったわけではないと思います。主イエスは、彼らの弱さをよく知っていたでありましょう。
 しかし、彼らを使徒として任命したのであります。言い方を変えて言うならば、そのような彼らの内に、価値を生み出し、相応しいものへと造り替えてくださった。ここに救い主の深い救いが込められている。愛が込められている。そのことを改めて深く思うものなのであります。
 私達も又、欠けの多い者かもしれません。完璧な人間はいないでありましょう。しかし、そのあなたに価値を生み出し、相応しいものへと、主が造り替えてくださり、必要としてくださるのであります。
 この使徒たちは、最後には、皆、主イエスを裏切ります。そして、主イエスは十字架に架けられていく。本当に弱い存在です。欠けに満ちた存在であるかもしれない。しかし、その弟子達のためにも、主は、十字架に架かられ、復活し、再度、彼らと出会ってくださるのであります。この深い恵みの内に、使徒たちは、教会を立てていくのであります。そして、今、私達もまた、その恵みに連なったものでもあるのです。
 私達にも欠けが沢山あるかもしれない。しかし、その私達もまた、主の傍に置かれ、御言葉を頂いているのです。「あなたの罪は赦されている。」「あなたには価値があるのだ。」「あなたを新しく造り替えるんだ。」そのように、私達の一番近い所で、今も、主は語り続け、私達を、新たに造り替え、主の御業のために必要としてくださっているのです。その幸いを改めて、心に留めつつ、新たなる日々に歩みを進めていきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:06| 日記