2019年10月27日

2019年11月3日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「預言者エリヤの戦い」
聖書:列王記上18章30節〜40節
※礼拝後、誕生者祝福とお茶会があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「御言葉の光」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書4章21節〜25節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:19| 日記

2019年10月27日 主日礼拝説教「死は終わりではない」須賀 工牧師

聖書:ヨハネによる福音書5章19節〜30節

 今朝、私達は、召天者記念礼拝を捧げています。過ぐる日、神の御許に召された、聖徒たちの面影を偲びつつ、神様の御名を讃美する礼拝を捧げたいと願う者であります。
 キリスト者は、「永遠の命」を信じます。だから、「死」は終わりではなく、通過点であると信じています。
 「永遠の命」とは何でしょうか。それは、言葉では、簡単に説明できないことです。しかし、はっきりと分かることもあります。それは、どのようにして、「永遠の命」が得られるか、ということであります。
 24節をお読みします。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へ移っている。」
 ここで記されていますように、主イエス・キリストの御言葉を聞いて、神様を信じる者は、永遠の命を得ることが出来るのであります。即ち、キリストを通して、神様を信じることが、永遠の命に至る道なのです。神様は、人が、裁かれるためではなく、救いを受け、永遠の命を得るために、御子イエス・キリストを与えてくださった。その御子の御言葉に聴き、神様との深い交わりへと招かれることによって、永遠の命が得られるのであります。
 この御言葉は、全てが「現在形」で記されています。要するに、未来の話をしているのではありません。「今の話」をしているのです。
 つまり、私達は、この永遠の命を、生きている間に味わうことが許されているということなのです。永遠の命とは、死んだ後−未来−に与えられるものではありません。もう、既に、生きている間に、約束として与えられているものなのです。
 過ぐる日、主の御許に召された人々もまた、その約束を抱きつつ、主の御許に召されているのであります。だからこそ、私達は、「死が終わり」ではないことを信じることが出来るのです。予想できない未来の話ではなく、今、この自分に、既に起きていることだからこそ信じられるのであります。
 もし、永遠の命が未来の話であるならば、「自分は本当に永遠の命を得られるのだろうか」「先立った愛する人は、永遠の命を得られるのだろうか」と悩むこともあるだろうと思います。未来は、不確かなものだからです。そして、不確かなものは、私達に苦悩を与えていくこともあります。
 しかし、永遠の命は、未来に与えられるものではなく、今、もう既に、私達に与えられたものなのであります。私達は、もう既に、死から命に移されているのです。過ぐる日、召された聖徒たちも、この地上の生涯において、既に、永遠の命を受け、その恵みを抱きつつ、召されているのであります。だからこそ、私達は、「死が終わりではない」ことを知っています。死が単なる「絶望」ではないことも知っている。愛する聖徒たちが、永遠に眠ることはないことを知っているのであります。
 25節の御言葉をお読みします。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
 「死んだ者」とは、「死に支配された者」です。それは、既に死んだ人のことではありません。今を生きる私達の現実的な姿を表しています。ヨハネによる福音書は、「死んだ者」という言葉と28節にある「墓の中にいる者」という言葉を使って、この世とあの世を区別して記しています。ここに記されている「死んだ者」とは、「死に支配されたこの世の人」を指しています。
 私達は、皆、死の支配の中にいるのです。しかし、そのような現実を切り裂くように、神の子の声が届くのであります。死の深い絶望の中にあっても、神の子の声を聞くことできるのであります。そして、その声によって、死から命に移されている。死の支配から解放されて生きる道が備えられているのであります。
 それは何時起こるのでしょうか。今やその時なのであります。永遠の命は、未来の話ではなく、今、既に、私達の内に、御言葉を通して、実現している出来事なのであります。大事なことは、あなたが、その恵みを、今、この時に受け止めるかなのではないでしょうか。そして、その恵みを知る時、私達の死も愛する者の死も、終わりではないことを味わい知ることができるのではないでしょうか。
 27節から29節をお読みします。「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
 人は、死んだ後、時が来ると、復活をします。これは輪廻転生ではありません。あなたのままで復活をします。これを終末論と呼びます。世の終わりの時、全ての人が、体をもって復活をするのです。
 そして、その時に、何が起こるのでしょうか。善を行う者は命を受けるため、悪を行う者は裁きを受けるために、復活するのであります。善を行う者とは、どのような人でしょうか。それは、神様の御心に適った人です。悪を行う人とは、どのような人でしょうか。神様の御心から離れた人です。こうして、神様の御心に従って、善と悪が分けられ、生と死が分けられるのであります。そして、最後の最後には、全き、神様の御支配が実現するのです。
 このような話をすると、心が不安になります。自分は、本当に救われるのだろうか。愛する者は救われるのだろうか。クリスチャンでなかった家族は、どうなるのだろうか。クリスチャンであっても、自分は、クリスチャンらしく生きられなかったが、本当に大丈夫だろうか。不安な心に支配されてしまうことがあるかもしれません。
 正直に申し上げると、人が救われるか、裁かれるか。それは、人間が判断できることではありません。全ては、神様の御心に従うまでであります。
 しかし、はっきりとしていることがあります。それは、裁きの座には、主イエス・キリストが座っていてくださるということであります。裁きの権能は、主イエス・キリストにあるということです。裁きは、一切、主イエス・キリストに委ねられているということであります。ここに、私達は、深い慰めを見出すことができるのではないかと思うのです。
 私達人間を、最後の最後に裁く御方は、私達人間のために、命を捨ててまでも、その愛を貫かれる御方なのであります。惜しみなく、命をすてるほどに、私達人間を断固として、愛し抜かれる御方なのであります。その御方が、私達を最後に裁くのであります。その裁きは、罰ではなく、愛であることは間違いないのであります。裁くためではなく、救うために、この世に遣わされたイエス・キリストは、裁くためではなく、救うために、再び、裁きの座につかれるのであります。
 私達は、今、既に、永遠の命に生かされています。しかし、私達の肉体は、いつか滅び、死を迎えます。しかし、時がくれば復活をします。その復活は、罰を受けるための復活ではなく、キリストの愛を再び味わい知ることのできる復活なのであります。そして、このキリストの愛に抱かれつつ、神の御国で、永遠に、神との交わりに生きることが出来るのであります。
 讃美歌には、「天にある民も、地にある民も、神様を讃美する」という意味の讃美歌があります。この地上における礼拝は、天上にある礼拝と繋がり、この地上で語られた、神の子の声は、天上の民にも届く神の子の声なのです。生きる者も、召されたる者も、同じ希望を抱きつつ、今、この時、共に、主の御名を讃美するものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:12| 日記