2019年12月30日

2020年1月5日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「宝をささげる」
聖書:マタイによる福音書2章1節〜11節
※礼拝後、誕生者の祝福と祝会があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「異邦人の救い」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書5章1節〜20節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:00| 日記

2019年12月29日 主日礼拝説教「見よ、わたしはあなたと共にいる」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書1章43節〜51節

 私たちは、先週クリスマスの礼拝を守りました。主イエス・キリストの御降誕を記念する祝いの礼拝でありました。アドヴェントからクリスマスにかけての約一ヶ月間、我が家では耳にたこができるほど繰り返された言葉があります。「うれしいお知らせを持ってきました。うれしいお知らせってなあに?ベツレヘムの馬小屋で赤ちゃんがお生まれになりました。」私たちの教会附属である清和幼稚園のページェントからの一節です。清和幼稚園では、アドヴェントの時期に入ると、先生方は子ども達に、絵本を読んだりして、丁寧に、クリスマスの本当の意味を教えてくださいます。そして、次に、何でクリスマスの日に劇をするのかを子ども達に伝えるのです。先生は、子ども達にこんな風におっしゃいました。「クリスマスは、イエス様がお生まれになった嬉しい日だよね。その、その嬉しいお知らせを、大好きなお家の人たちにも伝えたくない?」そうすると子ども達は答えます。「うん!伝えたい!」そのような先生方の促しによってページェントの練習は始まるのです。我が家の娘も、「クリスマスはイエス様がお生まれになった嬉しい日」と素直な心で受け入れ、「嬉しい事を、大好きなお家の人にも伝えたい。」と一生懸命練習して、クリスマスの日を心待ちにしていました。
 本日お読みした聖書にも、自分自身が受けた喜びの知らせを、誰かに伝えたいと思った一人の若者が登場します。それが、フィリポです。フィリポは、43節にありますように、「私に従いなさい。」という主イエスからの直接的な召命の言葉を受けて、弟子となった人です。フィリポの召命物語は、43-44節のたった2節で、具体的な事柄は記されておりません。しかし、ここでは、フィリポが召命を受け、すぐさま福音の伝道を始める様子が伝えられるのです。45節で、フィリポは、ナタナエルを見つけ、早速そのよき知らせを告げます。
 興味深いことに、多くの学者は、このナタナエルを弟子や教会、ないしは、キリスト者の理想像であると注解しているのです。理想像と聞きますと、私たちは、ナタナエルを「良いお手本」のような人と考えるかもしれません。しかし、本日の箇所をよく読みますと、最初はどうもそうでなかった。フィリポは、ナタナエルに出会い、このように言います。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。(45節)」「モーセが律法に記した方」や「預言者たちも書いている方」とは、イスラエルの人々がずっと待ち望んでいたメシア、救い主のことです。フィリポは、「私はそのお方に出会った。モーセや預言者達が伝えている通りの救い主だった。神様の約束が実現したのだ。」そう喜びにあふれて言ったに違いありません。
 しかし、ナタナエルは、その救い主が「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」である、という言葉に躓きました。21章を読みますと、ナタナエルは、主イエスと同じガリラヤのカナという村の出身であったことが分かります。きっと、ナザレがどんな村かも知っていたはずです。もしかすると、大工のヨセフのことも知っていたのかもしれない。だからフィリポも、あえて主イエスを「あのヨセフの息子」だと紹介したのかもしれない。それは聖書には書いてありませんから、推測でしかありません。しかし確かなことは、ナタナエルが、あの貧しいナザレの村から、約束の救い主が出るわけがないと思ったということです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか(46節)」こう、ナタナエルは疑いの言葉を口にするのです。
 先ほど、ナタナエルは、信仰者の理想像であると申しました。そう聞くと、私たちは、ナタナエルに自分自信や、この石山教会の姿を重ね合わせて読まずにはいられないでしょう。そして、疑うナタナエルを通して、私たちは、自分たちの罪に今一度、目を向けるのです。聖書には、他にも、主イエスを疑った人々の話が沢山出てきます。主イエスの弟子たちでさえ、最後は逃げた。主は、疑われ、拒否され、馬鹿にされ、罵られ、ついには、十字架にかけられ殺されるのです。ここに私たちの罪が生んだ残酷な現実があります。ナタナエルも最初は信じなかった。私たち人間の罪を代表するような存在であったのです。
 しかし、フィリポは諦めずにこう言います。「来て、見なさい。(46節)」一緒に主イエスの元へ行こう。救い主をこの目で見ようではないか。ナタナエルは、これを拒否することもできました。しかし、そうはしませんでした。フィリポについて行くことを選んだのです。46節と47節の行間に、どのようなストーリがあったのか、それは分かりません。しかし、ここで、確かなことは、主から全く反対方向に向いていたナタナエルの心が、主の方へ向き直ったということなのです。これを、キリスト教の専門用語では、「回心」と呼びます。
 主イエスはご自身の方に近づいてやってきたナタナエルを、すぐさま見つけ、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。(47節)」と言われました。主はナタナエルを偽りのない、真実な人であると褒めたのです。この「偽りがない」と言うのは、ナタナエルが生まれて一度も罪を犯したことがない、という意味ではありません。事実、ナタナエルは、一度疑いました。しかし、彼の回心を主は喜ばれ、彼を最高の褒め言葉をもって迎え入れてくださったのです。
 説教を準備する中で、このナタナエルという名前が、ヘブライ語で「神与えたもう」という意味であることを知りました。生まれた我が子を前に、その両親は、この子は、神によって与えられた子ども、神からの賜物だと思ったに違いありません。そのような感動を、「ナタナエル」という名前に託したのでしょう。ナタナエルは当時のありふれた名前の一つだったかもしれません。しかし、私は、ヨハネによる福音書が、主イエスとこの若者の物語をあえて伝える訳が、この「神与えたもう」という名前の意味にあると思えるのです。ヨハネによる福音書6:37には、主イエスのこのような言葉があります。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」「父がわたしにお与えになる人」とは、主に心を向け、主の身元へやって来る人たちのことです。主イエスの弟子たち、更には私たち一人一人のことです。そして、「父がわたしにお与えになる人」とは、「神与えたもう」人、即ち、ナタナエルのことでありましょう。ですから、私たちは皆、主イエスにとってのナタナエルなのです。主はいつもどんな時も、私たちが主の身元に立ち帰ることを待っていてくださるお方です。そして、私たちが主に心を向け立ち帰る時、主は私たちを決して追い出されはしない。主は、私たちの罪を裁かれるのでなく、かえってこれを赦してくださり、私たちを「神与えたもう」存在として心から愛して慈しんでくださるのです。
 しかし、ナタナエルにとっては、これが主と初対面でありました。しかも、直前まで、良い感情を抱いていなかった人物に、出会っていきなりお褒めの言葉をいただく。これには、ただただ驚きしかなかったでしょう。思わず「どうしてわたしを知っておられるのですか。(48節)」と質問します。すると、更に驚くべきことを主イエスは言われるのです。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。(48節)」初対面のナタナエルについて、主イエスは知らないはずなのに、知っていた。
 ここでは、非常に重要な事柄が示されております。それは、主が先に、ナタナエルを知ってくださっていたということです。しかも主は、ナタナエルのその心に偽りがないことまで熟知されていました。人の心を全て知っておられ(2:25;5:42;6:15)、その喜びも悲しみも罪も全てご存知であられる主のお姿がここで強く示されていくのです。しかし、これは、主イエスが、人の心を見抜く特殊能力持っておられるということではありません。主がおっしゃる「フィリポから話しかけられる前」とは「時間」です。そして、「いちじくの木の下」は場所です。ここにナタナエルは、そして私たちは、単に人間の心を見抜くだけでなく、時間と場所をも御支配される主イエスのお姿を見るのです。それは、真の神のお姿でした。
 49節においてナタナエルは「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と信仰を告白します。この「神の子」という言葉について補足いたしますと、辞書には、セイオス・アネールという言葉に言い換えられるとありました。しかし、困ったことにセイオス・アネールという言葉自体に、しっくりとくる日本語訳が見当たらないのです。「人であって神である者」「神的人間」などと訳される言葉です。つまり、「イエスは真の神であり、真の人である」という信仰が、この「神の子」という言葉で言い表されているのです。そして、「イスラエルの王」とは、主がナタナエルに言われた「まことのイスラエル人」に対応する言葉です。主が、この私を「まことのイスラエル人」と呼んでくださるのなら、あなたこそ私の王です。あなたこそ、聖書の中で約束されていたあのメシア、私たちが待ち焦がれた救い主は、真の神・真の人であった! そのような告白がここにあるのです。
 ところで、ナタナエルの信仰告白は、驚きの中で発せられた言葉でした。私たちは、このナタナエルの召命物語が、主イエスの奇跡物語であることを見落としてはいけません。実は、「セイオス・アネール」という言葉には「奇跡を行う人という」意味もまたあるのです。つまり、奇跡を見たから信じた、という信仰がここでは絵描かれているのです。このような信仰は、私たちの多くも経験していることでしょう。自分の欲求や望みが聞かれたから信じる。過去の苦難を振り返って、今の恵みを噛みしめながら神様は本当にいらっしゃると告白する。不思議な神のお導きを感じる。このような信仰のあり方は、巷に溢れているのです。ナタナエルもそうでした。神秘的な主の奇跡を目の当たりにし、神の子、メシアをここに見させていただいた喜びで、思わず信仰告白をしたのです。しかし、主イエスの凄さは、それを「ダメな信仰ですよ」と言われないということです。それどころか、主イエスは「もっと偉大なことをあなたは見ることになる。(50節)」と言われるのです。
 奇跡より「もっと偉大なこと」とは一体何でしょうか。51節以下に「はっきり言っておく」という書き出しをもって、そのことが記されております。この「はっきり言っておく」とは、原語では「アーメン、アーメン」となっております。文語訳は、それを「まことにまことに我汝らに告ぐ」と訳しています。この「アーメン、アーメン」は、ヨハネによる福音書に20回以上繰り返され、全て主イエスが大事な事をこれから述べようというときに言われるのです。その意味で、「もっと偉大なこと」とは「もっとも偉大なこと」でもあるのです。それは「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。(51節)」ということだと、主は言われます。これが、本日の箇所のクライマックスです。ここだけわかればいい、と言ってもいいくらいです。
 この主の言葉で、私たちが真っ先に思い起こすのは、本日お読みした旧約聖書の御言葉でありましょう。家族を騙して祝福を掠め取ったヤコブが、その罪のゆえに旅をすることになり、その道中で起こった不思議な出来事を伝える話です。旅に疲れたヤコブは、石を枕に眠りにつくと、不思議な夢を見ます。それは、先端が天まで達する階段(以前の聖書では梯子と訳されていました)が地に向かって伸びており、そこを天使が昇り降りしているという夢でした。すると、主が傍に立って、かつてアブラハムに与えられた祝福の約束を、再びヤコブに知らせるのです。そして、夢から醒めたヤコブが「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」と信仰の告白をする。ヤコブは、このことを記念して、その地を、神の家を意味する、ベテルと名付けました。このヤコブの話を抜きに、主イエスの言われることを理解することはできません。
 51節において、主イエスは自らを「人の子」と言われます。ここには、2つの意味があります。1つは、実際の「人」という意味です。2つ目は、終末の時に現れる「救い主」を聖書では「人の子」と呼びます。主イエスは、地上に人としてお生まれになった救い主なる神であるのです。そして、主イエスこそ、あのヤコブが夢に見た、天と地を行き来する階段そのものである、この地上に来られた主イエスから天への道が開かれているということが、ここで明らかになってくるのです。その意味で、主イエスこそが、神のおられる唯一の場所(ベテル)であるのです。
 ナタナエルは、最初、奇跡を見て信じる者でした。しかし、主は彼に、私を通して神を見ようになりなさいと導かれたのです。信仰の高みに招いてくださった。そして主は、今ここに、私たちが捧げる礼拝においても、聖霊によって天地をつなぐ道を開いてくださっています。神は私たちのはるか遠くに鎮座されるお方ではありません。私たちは、主イエス・キリストを通して神が私たちと共におられることを信じることがゆるされているのです。そこに目を向けて、私たちは、今一度、主イエス・キリストを頭とするこの石山教会に召されて加えられている喜びを深く心に刻みたい。この礼拝において、主イエス・キリストの名を通して、聖書を読み、祈り、神を賛美することがゆるされている恵みを噛みしめたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:54| 日記

2019年12月28日

2019年12月24日 クリスマス・イブ礼拝説教「あなたのための救い主」須賀 工牧師

聖書:ルカによる福音書2章8節〜21節

 今、私達は、クリスマス・イブの礼拝を捧げています。この何年間、石山教会のイブ礼拝は、シンプルになりました。コンサートをするわけでもなく、派手な催し物もなく、ただただ、静かに礼拝をする。御言葉だけを聞く。少し、物足りないと感じる方もいるかもしれません。
 しかし、もう一度、クリスマスの物語を思い起こしたいと思います。クリスマスの物語は、私達の目を引くような、派手な出来事だったのでしょうか。華やかで、きらびやかで、人々の心をウキウキさせる出来事だったのでしょうか。
 恐らく、それは、違うだろうと思います。人々が支配し、憎しみや傲慢に満ちた世界からクリスマスは始まります。洞窟をくりぬいて造られた、電気もないような暗い世界の中で、救い主は生まれます。そこには何の華やかさもなく、輝かしさもなかった。それが、クリスマスの物語であります。
 しかし、人の目には暗く見える現実の中でこそ、見えてくるものがある。聞こえてくることがある。いや、何も輝かしさを見出せないような現実のなかしか、聞こえないメッセージがある。そのメッセージを、聞いて、心が明るくされる。特別なコンサートだけでは、絶対に味わえないような本当の喜びや癒しで満たされる。そこにクリスマスの本当の形があるのだろうと、私は思います。
 クリスマスとは、主イエス・キリストの誕生を記念する日です。一般的には、クリスマスは、12月25日と言われています。しかし、聖書には、クリスマスが12月25日とは一言も書かれていません。いや、そもそも、イエスが生まれた日付けすら書かれていないのです。 元々、12月25日は、ローマという国で、冬至のお祭りを行っていたそうです。そして、キリスト教がローマの国教になった際、クリスマスを、このお祭りの日に定めたのだと言われています。なんだか、適当な感じもします。
 けれど、クリスマスを冬至に行うことにも大きな意味があると思います。冬至というのは、一年で、一番、昼が短く、夜が長い日です。言い方を変えるならば、一番、暗闇の多い日。しかし、その暗闇の中にこそ、私達を照らす光がある。当時の教会の人々は、その光こそ、キリストだ。イエス様こそ、私達の闇を照らす真の光なのだ。そのように信じて、この日をクリスマスに定めただろうと思うのです。
 私達もまた、心が暗くなることがある。もう自分はダメだ。もう自分はお終いだ。心が暗闇になることがある。しかし、その暗闇の中にこそ、私達を照らすイエスがいてくださる。神の御子がいてくださる。光の中で光を見ることはできません。闇を知っているからこそ、光の尊さや恵みを味わいしることができるのではないでしょうか。
 このイエス様の誕生を、一番、最初に教えられた人たちがいました。それが、羊飼いです。羊飼いは、簡単に申し上げるならば、当時、排除され、軽んじられた人々でありました。人々から見捨てられた人たち。
 いや、それだけではありません。彼らは、神様に見捨てられた人間だとも言われていた。神様に礼拝をする時も、羊の番をしなければいけなかったから。だから、神様から離れた存在、見捨てられた存在。そのように言われていた。正に、孤立した人々であり、闇の中に生きる人たちだったのだろうと思います。彼らは、神様と人間の関係が破滅してしまったような人々であり、その意味で、正に、心の中が飢え乾き、闇に満ちたような人々でありました。
 しかし、その人たちが、まず、イエス様の誕生を知るものとされる。そして、こう言われるのです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と。あなたのために救い主が生まれたのだと。聖書は、証ししているのであります。
 この世においては、排除された人々でありました。価値がないと言われた人たちです。しかし、神様は、「あなたのために救い主がいるのだ」といってくださる。つまり、この世の人間が価値を見出さなかった人々を、神様は、「価値がある」と認めてくださった。実は、ここに、神様の愛があるのです。
 聖書には、愛という言葉がよく使われます。その中で、一番、使われるのが、「神様の愛」です。神様の愛とは、どういう愛か。それは、色々な考え方があるかもしれませんが、この愛とは、「価値を生み出すこと」です。価値を付けるのではありません。価値を生み出してくださる。「価値を付ける」とするならば、それは、自分にとって都合の良い存在だけに価値を付ける、ということになります。しかし、価値を生み出すことは違います。どのような人間であったとしても、「あなたに価値がある」と、価値を生み出してくださる。そこに神様の愛があるのであります。
 あなたのために、救い主は生まれるのです。あなたを救い、あなたを守り、あなたを支えるために、救い主が生まれるのです。あなたは、その喜びを知って良いのです。その喜び味わうことが許された価値ある者なのだ、いうのであります。羊飼いたちは、この愛に溢れた御言葉の中へと招かれているのであります。そして、この言葉は、今、私達に向けた御言葉である、ということも深く心に留めておきたいものであります。
 羊飼いたちは、天使の大軍に囲まれながら、この恵みを味わったようです。きっと、華やかで、にぎやかで、神々しい光の中で、この恵みを味わっただろうと思います。
 しかし、この大軍は、天に去って行きます。目に見える華やかなものはいつかは去って行くものです。しかし、羊飼いたちは、その場から立ち上がり、イエスさまのお生まれになった場所まで走り出します。
 なぜでしょうか。目に見えるものは消えても、語られた言葉は、心に刻まれていたから。あなたのために救い主は生まれた。この言葉は、彼らの心に刻まれていたから。だから、イエス様のところへと歩み出せた。
 今、皆様の心にも、この言葉は刻まれています。目に見える華やかなものは、ここにはありません。ただあるのは、御言葉だけです。だから、もう一度、お伝えします。「あなたがたのために救い主はお生まれになった」。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:44| 日記