2019年12月08日

2019年12月15日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「天使の御告げ」
聖書:マタイによる福音書1章18節〜25節
※礼拝後、手話を楽しく学ぶ時間があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「突風を静める」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書4章35節〜41節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:03| 日記

2019年12月8日 主日礼拝説教「すべてを説明する」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書4章33節〜34節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書4章33節から34節の御言葉であります。
 マルコによる福音書4章は、概ね、「譬え話」で構成されています。では、この「譬え話」のテーマは、何でしょうか。それは、「神の国」であります。
 それでは、「神の国」とは何でしょうか。それは、特定された場所のことではありません。「神の国」とは、神様の御支配、あるいは、神様の救いの支配、神様の恵みの支配のことであります。
 つまり、主イエス・キリストは、「神様の救い」「神様の恵み」について、「譬え話」を用いて証しをされたということにあります。言い方を変えて申し上げるならば、主イエス・キリストは、「神様の救い」「神様の恵み」について、「譬え話」という御言葉を用いて、証しをされたとも言えるのです。
 即ち、神様の救いや恵みは、目に見える形あるものとして表現できるものではない、ということです。それらは、目には見えない御言葉を通して、明らかにされるものなのであります。先週もお伝えしましたが、飼い葉桶に寝かされた幼子から、どうして、神様の救いが見えるのでしょうか。十字架の上で、無力のままに死んでいく人から、どうして、神様の恵みが見えるのでしょうか。
 神様の救いや恵みは、目に見える形では表現ができないのです。主イエス・キリストが、御言葉をもって、クリスマスや受難の意味を説き明かしてくださって、初めて、これらの出来事が、救いの出来事、恵みの出来事であることを知る者とされるのであります。
 そのことを踏まえた上で、今朝の御言葉33節〜34節の御言葉をお読みします。「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」。
 主イエス・キリストは、人々の聞く力に応じて、「譬え」だけを語りました。そもそも、なぜ、「譬え」を使って語るのでしょうか。マルコによる福音書4章11節には、次のように書かれています。「『あなたがた−弟子たち−には神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、[彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない]ようになるためである』」。
 何のために「譬え」を使うのでしょうか。それは、人々に分かり易く救いを伝えるためなのでしょうか。そうではありません。それは、「外の人々に救いの真理を隠す」ためなのであります。
 では、なぜ、「救いの真理を隠す」必要があるのでしょうか。それは、外の人々が、主イエス・キリストの側に、御言葉の内側に留まるためであります。外から眺めている傍観者ではなく、御言葉に生かされる当事者になるためであります。もう少し砕いて言うならば、彼らが「理解するため」「納得するため」ではなくて、御言葉そのものを信じるようになるためであります。自分の尺度や都合だけで御言葉を受け止めるのではなく、むしろ、自分の思いを捨てて、自分に語られた御言葉として聞くためであります。そのために、主イエス・キリストは、あえて、「譬え話」を用いて、「救いの真理を覆い隠す」のであります。
 その意味で、ここで言われている「聞く力」とは、私達の理解力とか能力のことではありません。それは、「聞く姿勢」のことを指していると言えるでしょう。傍観者として聞くのか。当事者として聞くのか。自分の都合や願いを優先して聞くのか。自分に必要な紙の御言葉として聞くのか。
 主イエス・キリストは、人々に「譬え話」を用いて語ります。それは、つまり、およそ、ほとんどの人間が、外の人間、傍観者として聞いていた、ということがここから分かるのであります。この人々の中には、自分の求める言葉だけを聞きに来た人もいるかもしれません。自分に都合の良い言葉だけを求めている人もいたかもしれない。聴く姿勢が、自分中心になっている人が多かったのだろうと思います。
 そのような人々に対して、救いの真理を覆い隠すために、「譬え」だけを語ったのであります。それは、決して、意地悪がしたいわけではない。「自分の思いを捨て、自分の理解や自分の思想を捨て、ただ、キリストの御言葉に聞き耳を立ててほしい。」「御言葉の外に立って他人事のように眺めるのではなく、キリストの元に留まり、御言葉の内に来て、その隠された恵みを味わって欲しい。」「ただ納得するだけではなく、御言葉をただ信じて欲しい。」
 主イエス・キリストが「譬え話」を語るのは、ただ、民衆と弟子たちを分け隔てすることが目的ではない。意地悪することが目的ではない。主イエス・キリストが「譬え話」を語るのは、このように、主イエス・キリストの招きがあることを示すためなのであります。
 主イエス・キリストは、「譬え話」を用いて語られます。そのようにして、救いの真理を覆い隠して御言葉を語られます。それでは、その「覆い隠された真理」は、どのようにして明らかにされるのでしょうか。
 それは、簡単に言うならば、主の弟子になるということです。主イエス・キリストと結ばれて生きる、ということです。主イエス・キリストに結ばれて生きる。そのところでこそ、私達は、本当の救いや恵みを知ることができる。救いの意味が分かったから弟子になるのではありません。キリストのものとされたからこそ、救いの本当の意味が分かるのであります。
 なぜなら、主イエス・キリストが、御言葉の深い恵みを指し示してくださるからであります。主イエス・キリスト御自身が、全ての解き明かしをしてくださるからであります。クリスマスの出来事も、受難の出来事も、他の全ての御言葉もまた、キリストと結ばれ、キリストが御言葉をもって養ってくださるからこそ、その本当の喜びや恵みの支配を味わうものとされているのであります。
 しかし、そこで、改めて、私達は、私達の聴く姿勢が、強く問われているのではないでしょうか。自分の思いや都合や願いを優先して聞いていないだろうか。一人の傍観者のように、外から眺めて聞いていないだろうか。自分の思いや理解を優先して、御言葉を批判したり、御言葉の上に、自分を立てていないだろうか。そのことが強く問われているのではないでしょうか。
 主イエス・キリストの弟子達も同じであります。この後、主イエス・キリストを裏切ってしまうのであります。主イエス・キリストから離れてしまうのであります。つまり、彼らも又、キリストの内側、キリストの御言葉の内側から離れてしまうのであります。
 主イエス・キリストも又、この弟子たちの弱さをよくご存じであると思います。しかし、それでも彼らを弟子として招かれたのであります。そして、その彼らの罪を背負って、十字架で死に、三日後に復活をし、そして、時を経て、彼らに聖霊を与えられたのであります。つまり、主イエス・キリストは、彼らの罪を赦し、御言葉を語り続けてくださるのであります。
 弟子達も、私達も人間です。だから、失敗もあります。人間ですから、失敗もあります。自分本位で御言葉の上にたってしまうこともあります。しかし、そのような私達を招き、信仰を与え、御言葉をもって主は、養い続けてくださるのであります。
 今も、復活の主は、生きて、御言葉を通して、神の恵みを証しし続けてくださいます。目に見えるものではありません。しかし、目に見えない御言葉だからこそ、決して朽ちることもなければ滅ぶこともありません。いや、だからこそ、私達を永遠に生かす力になるのであります。
 そして、何よりも、主が語り続けてくださる、ということは、その恵みが、いつまでも変わらない、ということであります。時代が変わり、人が変わり、私達もまた変わっていくものです。それでも、語り続けられる恵みは変わらない。失敗をするかもしれない。困難が襲いかかってくるかもしれない。死んで行くこともあります。しかし、あなたが恵みの中にあること、救いの中にあることは、永遠に変わらない。
 それが、主の御言葉を通して、生きるにしても、死ぬにしても語られ続けているのです。私達は、そのような主の御言葉の中にあって、真の光、真の命、真の救いを外からではなく、内側で味わい尽くすものへと、何度でも招かれ、導かれているのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:55| 日記

2019年12月02日

2019年12月8日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ヨハネの誕生」
聖書:ルカによる福音書1章57節〜66節

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「すべてを説明する」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書4章33節〜34節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学び、ダニエル会、野の花会を行います。

皆様のお越しを心よりお待ちもうしあげます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:09| 日記