2019年12月02日

2019年12月8日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「ヨハネの誕生」
聖書:ルカによる福音書1章57節〜66節

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「すべてを説明する」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書4章33節〜34節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学び、ダニエル会、野の花会を行います。

皆様のお越しを心よりお待ちもうしあげます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:09| 日記

2019年12月1日 主日礼拝説教「神の国に入る人」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書4章30節〜32節

 今朝、私達は、待降節−アドベント−第一主日礼拝を迎えています。主イエス・キリストの御降誕を記念する、「クリスマス」に向けての備えの時であります。
 主イエス・キリストは、何のために、この世にお生まれになったのでしょうか。それは、私達人間の救いのためであります。全ての人間が救われるためであります。この救いを実現させるために、主イエス・キリストは、この世に来て下さいました。
 それでは、その「救い」とは、何でしょうか。私達人間にとって、「救い」とは、様々な意味を持っているかもしれません。健康が守られること、お金が儲かること。家内安全など。しかし、それは、どれも、自分を中心にした「救いの像」でもあります。
 それでは、私達の願望ではなく、主イエス・キリスト御自身が与えてくださる救いとは何でしょうか。それは、「人間の罪が赦されること」、そして、「死から解放されること」そして、「永遠の命を得ること」であります。
 この救いを成し遂げるために、主イエス・キリストは、真の人となり、人間の罪と裁きを背負って十字架に架けられ、そして、死に勝利されたのであります。
 私達の救いは、この主イエス・キリストと結ばれることによって、我が身に実現するのであります。キリストを通して、キリストと堅く結ばれることによって、私達も又、罪に死に、死に勝利するのであります。そして、キリストが、永遠なる神の御許に昇られたように、私達も又、キリストと結ばれている以上、永遠なる神の御許へと召されていくのです。
 私達は、この恵みをいつか頂くのではありません。この救いと恵みは、もう既に、キリストを通して与えられています。つまり、私達は、もう既に、神の国の中にあって、神様の恵みの支配の中で、生かされている存在なのであります。
 私達は、既に、神様の恵みの支配の中で、この今を生きることができ、その恵みの支配の中で、いつか死を迎え、その恵みの支配の中で、復活をし、その恵みの支配の中で、永遠に生きるのであります。神様の恵みの支配は、一つの河の流れのようなものであります。キリストと結ばれることによって、その流れに乗せられているのです。そして、死をもって、その流れが止まり、復活の時に流れが再開するのではなく、死を越えてもなお、永遠の流れの中に身を委ねて生きられるのであります。その幸いを深く覚えつつ、アドベントの日々を過ごしたいと思います。
 さて、神の国とは、何でしょうか。それは、神様の恵みの支配のことです。特定の場所ではなく、神様の恵みが支配することです。神の国が実現するということは、神様の恵みが実現するということです。
 それでは、神様の恵みの支配は、どこから始まるのでしょうか。主イエス・キリストから始まります。主イエス・キリスト御自身が、次のように述べています。「神の国が近づいた」と。主イエス・キリストから、神の恵みの支配は始まり、完成するのです。言うならば、主イエス・キリストが、神の恵みそのものであるとも言えるかもしれません。
 しかし、どうでしょうか。神様の恵みの支配を感じながら、生活ができる人がどれだけいるのでしょうか。つまり、神様の恵みとは、誰の目にも見えるような、わかり易いものではないということでもあるのです。神様の恵みの支配が来ている。神様の救いの支配が実現している。そのように思いながら生きられることのほうが少ないかもしれない。神様の恵みの支配よりも、苦しみの支配、自分中心の支配、痛み支配の方が、圧倒的に大きく見るかもしれない。その大きな支配の中で、神様の恵みの支配を見失ってしまう。そういうこともあるかもしれません。
 つまり、神の国−神様の恵みの支配−とは、とても小さい。あるいは隠されているものなのかもしれない。あるいは、見えにくく、認識しにくいものなのかもしれない。聖書の御言葉を通して言うならば、正に、からし種のようなに小さいもの。そのように言えるかもしれません。
 主イエス・キリストがお生まれになったのは、ベツレヘムの馬小屋です。馬小屋で生まれた貧しく、惨めな幼子が、真の救い主であると、誰が信じられるのでしょうか。飼い葉桶に寝かされた幼子を見て、ここに神の恵みの支配があると誰が信じられるのでしょうか。博士も羊飼いも、ヨセフもマリアも、天使の導きがあって初めて信じられたのではないでしょうか。
 しかし、それなくしては、ここに神の恵みの支配が近づいているとは、誰も言えないだろうと思うのです。
 馬小屋で生まれた、主イエス・キリストは、30歳頃に十字架に架けられます。人々に裏切られ、金で身柄を引き渡され、何もできず、何も語ることなく、人々の罵声に晒されたのであります。誰が、この御方に救い主を見ることができるのでしょうか。誰が、この出来事に神様の恵みの御支配を見ることができるのでしょうか。
 つまり、神の恵みの支配とは、神の国とは、人間の目では見えないほどに、小さく、隠された仕方で、聖書には記されているのであります。もっと華々しく、分かり易く、誰にでも理解できて、納得できる仕方で、神の恵みの支配を表して欲しいものです。人間の願望に応えてくれるとか、優れた政治家や革命家になるとか、色々な仕方があったはずです。
 しかし、神様が聖書を通して、示される恵みの支配は、私達の目には小さく、分かり難く、理解できない、納得出来ない仕方で表現しているのであります。
 では、この小さく、見えないものが、どのようにして、見えるものとなるのでしょうか。からし種は、土に蒔けば、大きく成長し、鳥が巣を作れるほどの枝を張るそうです。その時、私達は、知ることができるのです。ここにからし種が蒔かれていたということをです。
 つまり、私達は、自分の力で、からし種を見つけるのではないのです。自分の力で、恵みの支配を見つけるのではないのです。神様が御言葉の雨を降らせ、御言葉の光を当て、からし種を大きく育て、鳥のように平安を与えてくださる。そのところで、私達は、神様の恵みの支配が、ここにあることを知ることができる。
 キリストの誕生の物語も、キリストの受難と死の出来事も、あるいは、復活の希望も、人間の目には小さく、隠され、わかりにくい一つ一つの出来事も、神様が、御言葉によって明らかにしてくださる。人間の目には、愚かで、弱く映るものも。あるいは、小さく見えにくい一連の出来事も、神様が御言葉の雨や光を与えることで、からし種を成長させて、私達にとってよく見えるものへと変えてくださるのであります。
 神様の御言葉に支えられ、鳥の如くに平安を頂く中で、クリスマスの物語も、受難と死、そして復活の物語も、そして、恵みを感じられないような、今の現実の中にも、確かに、神の恵みの支配があることを、私達は明らかに信じることができるのであります。
 私達が生きていく中で、様々な不安がある。この自分は、本当に救われているのだろうか。この社会の中にあって、自分は本当に生きられるのだろうか。神様の救いに生かされているのだろう。神様を見失ってしまうこともある。その時、私達は、神様の恵みが、からしだねのように小さなものとして見ているかもしれない。
 しかし、私達は、もう既に、神様の恵みの支配の中で、平安を得ているのです。そして、そのために、主は、御言葉の種を蒔き続け、御言葉の雨を降らせ、光を与え、私達に恵みの支配がここにあることを、いや、既に、あなたが恵みの支配の中に入れられているということを明らかにしてくださるのであります。
 最初のクリスマスの出来事は、一部を抜かしては、誰にも知られないような出来事でありました。正に、隠された光の出来事であったと言えます。誰もが信じられないような仕方で、救い主は、生まれ、誰もが信じられないような仕方で十字架に架かり、誰も信じられない仕方で、復活を遂げられました。
 しかし、今、私達にとっては、その信じられない隠された真実こそが、真の平安であり、真の救いなのです。そのために、神様御自身が、御言葉と支えをもって、私達に神の国の恵み、神の恵みの支配を証しし続けてくださるのです。この恵みを覚えつつ、クリスマスの備えの時を過ごしたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:00| 日記