2020年01月28日

2020年2月2日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「イザヤの召命」
聖書:イザヤ書6章1節〜8節
※礼拝後、誕生者祝福と茶話会があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「人間中心の落とし穴」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書6章1節〜6節a
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:47| 日記

2020年1月26日 主日礼拝説教「安心して行きなさい」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書5章21節〜43節

 私達にとって、真の救いとは何でしょうか。あるいは、私達にとって、これ以上に何も要らないほどの救いとは何でしょうか。それは、目に見えるものでしょうか。あるいは、それは形あるものでしょうか。健康が与えられることでしょうか。金銭的に恵まれることでしょうか。家族や友達に恵まれることでしょうか。生活を豊かにする仕事を持つことでしょうか。
 もし、そうであるならば、不健康な人、病の人、貧しい人、孤立している人、社会性を失った人は、「救われていない」ということになります。言い方を変えるならば、その人は、「神様から罰を受けている」とも言えます。あるいは、「神様から見捨てられている」という理解もできるかもしれません。あるいは、健康が与えられ、金銭に恵まれ、友達や家族に囲まれ、仕事が保証されるために、神様を信じるとするならば、それは、もう既に御利益宗教であると言っても過言ではありません。人間が、人間の願望を優先させるところに、御利益宗教が生まれます。そして、そこでは、神よりも人の願いが優先され、願望を叶えてくれない神は、無力な神と見なされていくのであります。人間の自己実現や自己満足のために、神様や信仰が利用されることもあるでしょう。それが、キリスト教なのでしょうか。それが教会なのでありましょうか。そのことを改めて問い直しつつ、今朝の御言葉に聴いていきたいと思います。
 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書5章21節から43節の御言葉です。前回、ヤイロの娘の話について聴きました。今朝は、主イエス・キリストの服に触れた病の女性の話に聴きたいと思います。
 25節から26節の御言葉をお読みします。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」
 ここに一人の女性が登場します。この人は、十二年間も出血が止まらない人でありました。しかし、これは、単なる肉体的苦痛というだけではありません。
 ここには大きく三つの苦しみが示されています。一つ目の苦しみは何でしょうか。それは、孤立する苦しみです。レビ記15章によると、出血した女性は、汚れの対象とされていました。彼女が触れるものは汚れてしまう。だから、誰との接触も得られないまま12年間の日々が過ぎていくのです。コミュニティから排除され、家族や友人から引き離され、自分を責めながら、孤立していく。自分が悪いから、自分がこんな体になったから。誰にも見られないところで涙を流しながら、長い闇の時代を生きてきた。生きていくことの苦しみを味わいながら生きてきたのであります。
 二つ目の苦しみは何でしょうか。それは、将来への不安です。病気を治そうと全財産を使い果たしたのであります。回復を望み、全てを捧げてきたのです。自分のもっている全ての力や財産を使い果たしたのであります。けれど、治ることはなかった。いや、むしろ、もっと悪くなった。正に、お金では解決できない・人間の力では解決できない苦しみがある、ということであります。そして、その苦しみが、その先に対する新しい不安を生み出していくのであります。これからどうやって生きたら良いのか。将来に不安を抱かずにはいられないのであります。そのような苦しみが、彼女を襲うのであります。
 自分の人生に豊かさや喜びを取り戻すために、金銭を使う人は多くいるかもしれません。しかし、お金では解決できない痛みや苦しみもあるです。お金では満たされない痛みがあるのです。そして、気がつけは、全てを失っていた。明日から、どうやって生きられるのか。これからどうやって生きたら良いのか。将来に対する不安が彼女を支配するのであります。
 三つ目の苦しみは何でしょうか。それは神様との関係が切れてしまう苦しみであります。先ほども申し上げましたが、彼女は、人々と触れ合うことが禁じられます。それは、つまり、礼拝にも参加ができないことを意味しています。神様との交わりからも断たれてしまうのです。本当は、一番、神様を必要としている人かもしれません。しかし、神様との交わりのある礼拝にすら足を運ぶことが許されていない。神様との関係が断たれててしまう苦しみがここにある。たとえ、肉体が苦しくても、たとえ、社会で孤立していたとしても、神様が共にいてくださる。そう信じられたら、少しは平安を得ていただろうと思います。しかし、今、神様すらも、自分から離れてしまう。その理不尽さの中で、心の内にある計り知れない苦しみから逃れることができないのであります。
 このように、彼女は、ただ肉体的な苦痛を味わっていたわけではありません。孤立し、将来への不安を抱え、神にも見捨てられていく。そのような多重の苦しみを味わっているのであります。逆に言うならば、体は苦痛であったとしても、この心の内にある苦痛が、ちゃんと満たされていたならば、彼女は心が健やかに生きられたのかもしれない。そのようにも言えるのではないでしょうか。
 しかし、そのような悲惨な現実の中で、彼女は、主イエス・キリストを知り、そして近づき、手を伸ばすのであります。27節から28節の御言葉をお読みします。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服にふれた。『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである。」
 藁をもすがる思いで、手を伸ばそうとする彼女の切実な思いが示されています。しかし、ここには、やはり、御利益的な信仰理解が描かれていると言えるかもしれません。自分の願望が優先する。信じるというよりも、癒されることを望む。従うというよりも、願望が先行する。そのような信仰がある。苦しい故の行為であります。仕方がないと言えるかもしれません。
 しかし、信仰的な側面から言うならば、その信仰は、決して、完全な信仰とは言い切れないものであります。私達にとって、救いとは何でしょうか。それがここで改めて問われます。それは、癒されることなのでしょうか。形あるもので満たされることなのでしょうか。主イエス・キリストは、その救いだけの救い主なのでしょうか。
 もし、ここで、この女性が癒されただけで、全てが終わっていたとするならば、キリスト教は単なる御利益宗教だったのかもしれません。しかし、ここでこの話は終わらないのであります。30節から32節をお読みします。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。そこで、弟子たちは言った。『群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。』しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」
 もし、主イエス・キリストが、無視して通り過ぎていったのであれば、救い主は、ただ人の願望に応えるだけの道具であったかもしれません。もし、主イエス・キリストが、ここで立ち止まることなく、その人を捜すこともなかったのであるならば、主イエス・キリストは、私達の遠くにいて、私達の願いを叶えるだけの御利益的な信仰対象であっただけかもしれない。
 しかし、主イエス・キリストは、そこで立ち止まり、その人の汚れた手の感触を敏感に感じ取り、そして、その人を捜し、呼びかけてくださる。完璧な信仰をもっていたわけではないのです。自分の願望が先行するような信仰でしかないのです。誤った信仰理解の持ち主です。
 しかし、主イエス・キリストは、その人の手の感触をつぶさに感じ取り、その人のことを知って下さり、その人を捜して下さる。その人のために足を止めてくださる。不信仰であることを咎めるためではありません。その人と出会い、その人を、主にある交わりの中に入れるために、主はその人を呼び続けるのであります。
 ここに救い主が望んでおられる救いがある。それは、その人を神様との交わりへと取り戻すことなのであります。そこに肉体の癒しを越えるほどの、御利益信仰を越えていけるほどの本当の救いの出来事があるのだということを聖書は証しているのです。
 さて、彼女は、主イエス・キリストに触れて、癒されることを通して、恐れたのであります。この「恐れる」という言葉は、神様を畏れるという意味です。主イエス・キリストを通して、そこに神がいることを恐れた。
 そこで、彼女は恐れたのであります。神様を恐れたのであります。体が清くなったのだから、堂々と、神様の前に出れば良いんです。しかし、彼女は、恐れた。なぜでしょうか。肉体が癒されても、拭いきれない自分の弱さと小ささを知ったからであります。自分の汚れや自分の罪深さ、弱さを知ったから。自分の体の問題ではなく、心もまた、弱っていたことを知ったから。自分が不信仰であることを知ったから。だから、神を恐れた。そして、この主イエスの前では、自分の罪を隠すことができないと思った。だから、ありのまま、全てを打ち明けたのであります。
 しかし、これがまた、大切なことなのであります。汚れたままで、主の御前に進み出て良いのであります。取り繕う必要はないのであります。罪や汚れをまとい、ボロボロになりながら、自分をさらけ出しながら、主の御前に進み出て良いのであります。正しい人はいないのです。義人は誰もいないのです。クリスチャンだから、クリスチャンらしく、七三、スーツのような姿で、主の御前に出る必要は無いのです。
 主イエス・キリストが、神との交わりの内へと、招いてくださる。ボロ着をまとって主の御前に出て良い。あなたの弱さを背負って前に出て来て良い。その交わりの中へと招き、その交わりの中でこそ、新しい御言葉が聞こえてくるのであります。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と。
 信仰とは何でしょうか。それは勿論、信じること、信頼することです。しかし、彼女は、自分が癒されることだけを願った御利益信仰をもって主に近づいた。彼女の信仰は、その意味で、神を信じるというよりは、自分の願いを先行させた自分中心の不完全な信仰なのであります。
 しかし、信仰とは、更にもう一つ重要な側面があります。それは、信仰に入る、ということであります。信仰に入るとは、どういう意味でしょうか。それは、神様との関係の中に入るということであります。主イエス・キリストとの交わりの中に入れられる、ということであります。それもまた、信仰なのであります。主イエス・キリストは、心が汚れ、罪と不信仰に満ちた、この女性を、ただ肉体的に癒すだけではなく、そのぬぐい去ることのできない汚れたそのままの姿を、主の交わりの中へと入れられた。彼女との親しき交わりに生きて下さった。そこに、あなたの救いがあるのだ。そう宣言して下さっているのであります。
 そして、何よりも彼女に将来の希望を与え、社会へと遣わしていくのであります。将来に対する不安を取り除き、共同体の中へと新たに復帰させていくのであります。
 信仰に入れられ、神様との関係の中に生かされ、救いを得て、新たに歩む。そのところには、安心があります。そして、そこに心の健康があるのです。
 「もうその病気にはかからず」と、主イエス・キリストは言われます。そんなことは誰も保証できません。違う病気になることもあるでしょう。死に至る病に冒されることもあります。信仰を持つということは、病気にならないことではない。でも元気に暮らせるのだと言うのです。安心して暮らして良いのだと言うのです。なぜでしょうか。
 本当の病気は、肉体的な部分ではなく、罪に満ちたこの心の中にある。しかし、今、あなたは、もう既に、キリストの交わりの中に生きている。その病は、もう、キリストによって取り除かれている。キリストのもとに留まって歩みなさい。そう言われている。
 信仰生活とは、元気に生きられる生活なのです。安心して歩める生活なのです。なぜでしょうか。神様との関係が、決して破れることがないからであります。キリストを通して、修復された神様との関係、神様との絆は、決して、誰にも破滅させることはできないからであります。キリスト−神様−との関係は、お互いに手首をつかみ合う関係なのです。私が離しても、キリストは離さない。
 どれだけ、罪にまみれても、どれだけ、弱さや汚れを纏っていても、信仰に入れられ、救いを頂くということは、その確固たる関係と交わりの中に生かされている、ということなのであります。
 その交わりは、人間の罪や死や病よりも強いのであります。なぜなら、私達を交わりへと招く主御自身が、罪と死に勝利されたから。私達は、その勝利の主に招かれ、その主との交わりの中に今を得ているのです。だから、安心して良い。だから、元気に暮らせるのであります。主イエス・キリストは、今も生きて、あなたを招き続けます。その招く声に心の耳を傾けて、ありのままの姿で、主の御前に進み出る者でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:42| 日記

2020年01月18日

2020年1月26日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「義人ヨブの苦難」
聖書:ヨブ記1章9節〜22節
※礼拝後、絵本の読み聞かせの時があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「安心して行きなさい」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書5章21節〜43節
※礼拝後、五分の集いがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:50| 日記