2020年02月12日

2020年2月16日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「エゼキエルの召命」
聖書:エゼキエル書3章1節〜11節
※礼拝後、楽しく手話を学ぶ時間があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「洗礼者ヨハネの死」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書6章14節〜29節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:43| 日記

2020年2月9日 主日礼拝説教「悔い改めのために」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書6章6節b〜13節

 クリスチャンとは、どのような存在でしょうか。それは、「キリストのものとされた存在」のことです。あるいは、「キリストに支配された存在」、「キリストに満たされた存在」とも言えるかもしれません。即ち、私達の人生は、もう、私達のものではないということであります。私達の人生も、生活も、既に、キリストの御支配の中に入れられている。これがクリスチャンであります。
 そのクリスチャンには、クリスチャンとしての「務め」が与えられています。言い方を変えるならば、「生きる目的」が与えられています。
 今までは、自分のために目的を設定してきただろうと思います。しかし、今、私達の人生は、キリストの支配の中にある。つまり、私達の生きる目的もまた、キリストが中心でなければいけない。キリストが主体でなければいけない、ということなのであります。
 それでは、その務めとは何でしょうか。それが宣教をする務めです。宣教とは何でしょうか。それは、伝えることです。何を伝えるのでしょうか。それは、神様の救い−神様の救いの支配−を伝えることです。逆に言うならば、それが以外のことを伝える必要はない、ということです。今、あなたを生かし、あなたを救い、あなたに喜びをもたらしているもの、そのものを伝え、証しすること。それが、クリスチャンに与えられた宣教の務めなのであります。
 例えば、主イエス・キリストは、弟子たちに「汚れた霊に対する権能を授けた」とあります。これは、悪霊払いの力を与えた、ということではありません。汚れた霊に対して、神様の救いが勝利している。そのことを伝える権能を授けた、ということなのであります。大事なことは、神様の勝利、神様の救いの支配を伝える、ということなのであります。
 そして、同時に、今朝の聖書の御言葉によれば、「神様の救いを伝える」ということは、「悔い改め」へと導くことでもあるのです。つまり、「救いと悔い改め」は、全く別のことではないということなのであります。教会に来ると、「罪人扱い」されると拒絶する人もいますが、本来、悔い改めと救いは、同じ出来事なのであります。悔い改めが分からない、ということは、救いが分からない、ということなのあります。
 そもそも「悔い改め」とは、方向を転換することであります。汚れた霊に支配されていた過去を捨てて、神様の救いへと方向を転換して歩み出すことであります。
 つまり、悔い改めるということは、決して、自分の弱さや罪を嘆き、涙を流すことではありません。罪の自責にとらわれることが悔い改めではありません。
 救いがあることを知り、喜びがあることを知り、希望があることを知り、その方向へと向きを変えていくことなのであります。つまり、悔い改めとは、本来は、救いを喜ぶことなのであります。
 このように、クリスチャンは、クリスチャンとしての務めが与えられています。その務めとは、神様の救いと悔い改めを伝えることです。今朝の御言葉によると、その務めは、誰かの家に留まることから始まるのだ、と記されています。「家」とは、「その人の心」を表しています。つまり、その人の心に留まり、そこで神の救いと悔い改めを宣べ伝えるということ。これが、クリスチャンの務めなのであります。
 即ち、クリスチャンの務めとは、その対象者の外面的な生活の援助をすることではありません。処世術を教えることでもありません。この世の知恵で、その人の生活を啓発することではありません。その人の内側に留まり、その人の心に向かって、神様の救いと悔い改めを宣べ伝えることなのであります。
 しかし、ここで忘れてはいけないことがあります。それは、何よりも、私達自身が、神様の救いを知っている、ということであります。私達自身が、悔い改めへと導かれている、ということであります。私達自身が、何よりも先ず、神様の救いの支配の中に入れられていて、神様の救いの喜びを知っている、ということであります。
 即ち、宣教を頑張るから、報酬として、救いが与えられているわけではありません。何よりもまず、私達自身が、もう既に、救いの光の中に生かされている。その幸いの中で、キリストのものとして、キリストの務めの中に入れられているのであります。このことが大前提として、ここで示されていることを忘れてはいけないのだろうと思うのです。
 そして、もう一つ大切なことは、クリスチャンの務めとは、私達の働きではない、ということです。それは、神様の御業であり、キリストの働きなのだ、ということです。これを忘れてしまうと、私達は、自分の思いや自分の価値観や自分の満足のために、宣教をすることになるだろうと思うのであります。あくまでも、このクリスチャンの務めは、神様から委ねられた、神様の働きであり、その働きの中心には、神様御自身が生きて働かれている、ということなのであります。これもまた、今朝の御言葉の大前提であると言えるかもしれません。
 そのことを踏まえた上で、今朝の御言葉には、次のような言葉が記されています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」。
 主イエス・キリストは、ここで「杖」と「履物」だけを持ちなさい、と仰せになります。それ以外は、持たなくても良い、ということを仰せになるのです。
 それでは、「杖」と「履物」とは何でしょうか。それは、私達の行く道を支えてくれるものです。それでは、私達の宣教の歩みを支えていく物は何でしょうか。それは「信仰」です。神様を神様と崇める信仰です。ただ、神様を信じる、ということ。それだけで良い、というのであります。
 私達が宣教する世界とは、どのような世界なのでしょうか。それは、先週の御言葉によれば、私達を受け入れない世界です。神様を受け入れない世界です。自分の価値観が先行する世界です。神様を畏れない世界であります。
 その世界の中で、神様の救いと悔い改めを宣べ伝えるのであります。この世の人間に合わせることが宣教ではありません。それ故に、この世の人間に愛されることが宣教の目的ではないのであります。拒絶され、受け入れられない世界の中で、痛みや苦しみを背負いながら、ただ神様の救いを語り続けるところに宣教の業がある。
 そして、その宣教の務めに於いて、必要なものは、「信仰」だけなのだ、ということなのであります。もっと、神様を信じて良いのだ、ということです。もっと神様を信頼して良い。もっと神様を頼りにして良い。自分だけで頑張る必要ない。自分の力だけで何とかしようとしなくてよい。神様に頼っていい。私も、いや、私こそが、そこで戦っているのだよ。そのメッセージがここで強く強調されているのであります。
 「下着を二枚着てはいけない」という言葉も記されています。普通、下着を二枚着る人などいるのでしょうか。少し、違和感を感じる言葉に読めるかもしれません。ただ、私は、何となく分かる気持ちがします。旅行の準備をする時、私は、必ず、余分に一着の服を準備することがあります。汚れるかもしれない。破れるかもしれない。自分なりに危機管理をしながら、余分に服を準備することがあるのです。
 主イエス・キリストは、ここでもそのような人間の不安や計画に対して、この御言葉を語ったのかもしれません。あなたの生活は、もう既に、神様のものとされている。神様の支配の中にあって、この務めが与えられている。自分の不安や計画を先行させることよりも、まず、神様を信じたら良い。神様に委ねるところから始めたら良い。そのように、主イエス・キリストは、宣教の務めに生きる、私達に、この御言葉を語られているのではないかと思うのであります。
 私達クリスチャンが、クリスチャンとしての宣教の務めに生きる時、あるいは、教会が宣教をしていく時に、一番の課題は、自分の思いや計画が先行してしまう、ということであります。即ち、神様から離れて、自分の思いや計画を優先してしまう、ということであります。
 そのために、主イエス・キリストは、二人一組で宣教をするようにと言います。宣教は、個人の思いが優先されるところでなされるのではありません。信仰を同じくする仲間と共にすることなのです。同じ道を共にいく仲間と共に、信仰を確かめ合い、祈り合いながら、あるいは励ましあいながら、宣教はなされていく。そのことが大事なのであります。
  大切なことは、このクリスチャンとしての務めは、そもそも、主イエス・キリストの働きなのだということを覚えておくことであります。権能を授けるのも、主御自身なのであります。私達が主体となる働きではない、ということです。あくまでも、この宣教の中心には、キリストの働きがある。そこから離れては、私達は何もできない、何もしてはいけない、ということなのであります。
 そして、宣教や伝道の業が、個人的な働きとならないために、主イエス・キリストは、信仰を同じくする仲間を与えてくださると共に、神様を信じる信仰へと、神様に委ねて行く信仰へと、ここで、私達を促しているのだろうと思うのです。
 このように、クリスチャンは、宣教の務めへと導かれています。しかし、人間には勿論限界があります。失敗することがあります。うまくいかないこともあります。その時、私達は、何とか理解してもらおうと工夫をしたり、試行錯誤をしたりするかもしれません。 しかし、それが行き過ぎると、宣教の務めが、自分の務めになってしまうこともあります。大事なことは、無理をせず、諦めることです。しかし、ただ、諦めるのではありません。自分の無力さを知り、主に委ねるということなのです。
 聖書によれば、「足の裏の埃を払い落とす」と書かれています。この言葉は、乱暴そうに聞こえます。しかし、それは、一旦、自分の務めを諦めて、無理をせず、最後には、主の裁きに委ねて良いのだ、ということなのです。自分の力を止めて、神様の可能性に委ねるということなのであります。これもまた、大切なことなのであります。
 宣教とは、このように、最初から最後にいたるまで、神様の支えや導きや裁きよって成り立っているのであります。そして、私達は、その神様の支えに寄りかかるところに、私達の宣教の務めがあることを思い起こすものでありたいのであります。
 即ち、厳密にいうならば、務めとしての宣教とは、私達が、何かをすることで成り立っているわけではないのです。神様がしてくださることに、私達が委ね、信じるということなのです。人間と神が協力し合って宣教をするということではなく、神様がしてくださる宣教に、私達が乗っかっている、乗っけられているということが大事なのであります。もし、そうでなければ、神様は、人間の力がなければ宣教ができない、という神様の全能性を否定することにもなるだろうと思います。あるいは、このような御言葉が語られることもなかっただろうと思うのです。
 今朝の御言葉は、宣教は、神様の業なのであって、人の業ではない、ということを主張するのです。あなたを救うのは、誰かではなく、その誰かを通して働いておられる神様御自身なのだということなのであります。
 私達がすべき宣教とは、その神様に委ね、神様を信じるということなのです。その上で、与えられた賜物を生かしていくということなのです。
 このように、主イエス・キリストは、弟子達を派遣します。しかし、この弟子達は、後に、キリストを裏切ります。そこに人間の不完全さがよく表されていると言えるかもしれません。しかし、復活のキリストは、もう一度、弟子達を招き、世界へと遣わします。
 私達も又、同じです。私達のもちえる信仰は、不確かなものであるかもしれません。しかし、復活のキリストは、今も、生きて、私達に赦しを宣言し、新たに造り替え、あなたを通して、救いを高らかに宣言しておられるのです。この神様の御業に、この不確かな自分が載せていただいている、ということを深く感謝しつつ、新たに歩み出すものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:40| 日記