2020年02月15日

2020年2月23日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「燃え盛る炉」
聖書:ダニエル書3章16節〜30節
※礼拝後、絵本のよみきかせの時があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「わたしたちの教会」須賀 舞
聖書:ヨハネによる福音書2章13節〜22節

皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:59| 日記

2020年2月16日 主日礼拝説教「洗礼者ヨハネの死」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書6章14節〜29節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書6章14節から29節の御言葉であります。17節から20節の御言葉からお読みします。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。そこで、へロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。
 洗礼者ヨハネは、当時の領主ヘロデに対して、彼の罪を指摘し、投獄されていました。しかし、洗礼者ヨハネは、ただ、彼の罪を指摘したわけではありません。即ち、ただ、ヘロデを批判し、ヘロデを責めた訳ではありません。洗礼者ヨハネは、ヘロデのことを愛していたのです。変わってほしいと願ったのであります。自分の罪深さに気付いて欲しいと願ったのであります。立ち帰って欲しいと願ったのであります。悔い改めて欲しいと願ったのであります。洗礼者ヨハネにとって、罪を指摘することは、相手を責めることではないのです。相手が救われることを願うことなのであります。そして、それは、正に、神様の御心でもあるのです。神様は、裁くためではなく、救うことを御心に留めてくださるからであります。
 しかし、ヘロデの妻、へロディアには、それが伝わらなかった。彼女には、神様の救いの御言葉が届かなかった。なぜでしょうか。「自分は悪くない」「自分のしていることは間違っていない」「自分は正しい」と思いたかったからであります。本当は、自分の罪に気づいていたのかもしれません。しかし、それを罪として、素直に認められなかった。弱い自分を知りながらも、それを覆い隠して、自分をキレイに見せたかった。そういうところは、私達の内にもあるかもしれません。
 しかし、自分の罪を認められない所では、神様の救いの御言葉が届かなかった。自分を正当化することで、神様の御言葉を必要としない自分を作り上げてしまったのであります。 へロディアに対して、夫ヘロデは、ヨハネの教えを受け止めていたようです。いや、ヘロデは、神様の御言葉を受け止めていたのであります。自分の罪に気付き始めたのであります。自分の弱さを受け止めつつあったのであります。自分の罪に気付きながらも、それを認めたいけど、なかなか認められない。そのところで、ヘロデは当惑していたのであります。罪を認めることの難しさがここで明らかにされていると言えるのではないでしょうか。しかし、大事なことは、ヘロデが、御言葉に聴き続けようとしたことなのであります。
 続けて21節から29節までお読みします。「ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、へロディアの娘が入って来て躍りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、『欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう』と言い、更に、『お前が願うなら、この国の半分でもやろう』と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、『何を願いましょうか』と言うと、母親は、『洗礼者ヨハネの首を』と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、『今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます』と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた」。
 ヘロデは、洗礼者ヨハネを殺してしまいます。殺さなくても良いのに殺してしまいます。心を痛めたのに、殺してしまうのです。なぜでしょうか。自分の保身のためです。自分の立場を守るためです。
 ヘロデは、喜んで、御言葉を聞きました。そして、自分の弱さや罪にも気付き初めていた。しかし、ただ聞いていただけでした。御言葉に聴いて、方向転換をすることはなかった。自分が、変えられることを望むよりも、自分が変わらずにいることを望んだのです。
 ただ御言葉を聞いているだけでは、本当に、その人を、新たに生かすことにはならないのです。自分の罪に気付き、救われている喜びを知り、自分自身が変えられることを望むことがなければ、何も変わらないのです。いや、それは、もう既に、神様の御言葉を殺しているのと同じなのであります。聞いているようで聞いていないのです。そして、それは、神様の御言葉に耳を塞ぎ、神様に対して背を向けていることです。そして、神様の御言葉を殺すことと同じなのです。私達は、私達の罪の姿を、ここに見なければいけないだろうと思うのであります。ただ御言葉を聞いているだけではないでしょうか。自分の思いを優先して、聞きたいことだけを聞き、聞きたくないことは聞かないようにしていないでしょうか。御言葉よりも、自分の立場や思いや思想を優先して聞いていることはないでしょうか。私達自身にも又、罪が強く問われていくのではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネが殺されました。そして、その後、主イエス・キリストの噂が広がります。14節から16節をお読みします。「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。『洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。』そのほかにも、『彼はエリアだ』と言う人もいれば、『昔の預言者のような預言者だ』と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った」。
 主イエス・キリストの名が知れ渡った時、ヘロデは何を思ったのでしょうか。自分が殺したヨハネが生き返ったと思ったのです。主イエス・キリストも又、「悔い改めて福音を信じなさい」と教えていたからだろうと思います。もう、自分と神様は、もう自分と御言葉は関係ないと思っていたと思います。もう、御言葉なんてどうでも良いと思っていたでしょう。自分は間違っていない。自分はこのままで良いんだ。自分は変わりたくない。変わるのが怖い。そう言い聞かせながら、そうやって心の扉を閉じていたかもしれません。
 しかし、今、同じ教えを聞いている。同じ御言葉を聞いている。また、自分の罪が問われている。また、悔い改めへと招かれている。かつてよりも、より一層、自分の罪が問われていると感じたかも知れません。
 洗礼者ヨハネの命を奪えても、神様の御言葉は、変わることなく、語られ続けていく。いや、洗礼者ヨハネよりも、もっとはっきりと、力強く、御言葉が前進してくる。私達が、どれだけ耳を塞いでも、神様の御言葉は、変わることなく、あなたに届けられている。それは、言い換えるならば、神様は、それほどまでに、あなたを救いたいと願っておられるのではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネも、主イエス・キリストも、この世の権力者や支配者によって殺されてしまいます。ヘロデと同じように、ポンテオ・ピラトという人もまた、自分の保身のために、主イエス・キリストを十字架に架けてしまいます。
 しかし、この二人には、決定的な違いがあります。それは、キリストは復活した、ということ。そして、罪からの救いを成し遂げてくださった、ということ。
 そのキリストは、今も、生きて、私達の一番近い所で、罪の赦しを語り続けてくださっています。私達を何度でも、新たにするために、主イエス・キリストは、変わることない救いの御言葉、赦しの御言葉を語り続けてくださいます。あなたの罪は赦されていると。どれだけ消そうとしても、どれだけ耳を塞いでも、今、キリストは、あなたの心に赦しの言葉を語り続けてくださっている。
 重荷を下ろして、何も持たずに、今、あなたに語りかけるキリストに身を委ねませんか。そして、自分の力では変えられない自分自身を、神様なら変えてくださる。神様が、この私を新たにしてくださる。神様は、この私を諦めてない。そう願いつつ、新しい日々を歩み出したいと思うのであります。
 主イエス・キリストは、今も仰せになります。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:55| 日記