2020年04月28日

2020年5月10日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜 礼拝堂に集まっての礼拝は自粛します。代わりにYouTube配信をします。
前 奏
招 詞 詩編91篇1節〜2節
讃美歌 6
祈 り
聖 書 新約聖書 マルコによる福音書8章1節〜21節
    旧約聖書 列王記下4章42節〜44節
子どもたちへのメッセージ
祈 り
讃美歌 507
説 教 「恵みにを思い出す」須賀 工牧師
祈 り
讃美歌 518
主の祈
頌 栄 29
祝 祷  
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2020年5月3日 主日礼拝「救い主の御業」須賀 工牧師

〇招詞 詩編47篇2節〜3節
 すべての民よ、手を打ち鳴らせ。
 神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
 主はいと高き神、畏るべき方
 全地に君臨される偉大な王

〇祈り
 天の神様、あなたの御名を賛美申し上げます。今、こうして、あなたの御前で、思いを一つにして礼拝をささげられますお恵みに心より感謝を申し上げます。どうか、礼拝する者一人一人の心を導き、高らかにあなたの御名を賛美するものとしてください。
 過ぐる日、あなたから生かされていながらも、あなたの御心から遠く離れて歩んできましたことを覚え、あなたの御前で懺悔申し上げます。どうか、私達一人一人を憐れんでくださり、この時も、御言葉によって、私達の内に救いと平安とを確かにしてくださいますように、聖霊の働きを願います。
 どうか、教会に連なる一つ一つの枝々が、この時も、御言葉によって養われ、喜びと希望の内に、信仰生活を歩むことができますように。そして、求道者の方々が、聖霊によって心の目と耳が開かれ、あなたの御子イエス・キリストの救いへの招きに応えることができますように。神様、あなたの導きを心よりお願い申し上げます。
 今、感染症による影響で、いつも通りの礼拝を会堂で捧げることはできませんが、どうか、この礼拝の中心にも、あなたが強く臨んでくださり、この礼拝もまた、あなたの御心に適ったものとしてください。そして、どうか、一日も早く、この脅威から解放され、再び、この御堂に集い、あなたを礼拝することができますようお導きください。何よりも、今、この感染症によって、痛みを覚えている、すべての人々の上に、あなたの慰めと励ましと平安とを与えてください。そして、どうか、この脅威の中で働く、医療従事者や諸関係の方々の上に、あなたの励ましを与えて下さい。
 この礼拝を捧げつつ、今、過ぐる日、主の御許へと召された聖徒達を覚えます。どうか、天にある民も、地にある民も、心を一つにして、あなたに賛美を捧げ、御言葉によって死を越える復活の希望の光の中で平安を得ることができますよう、お守りください。愛する者を失い、深く悲しみの中にいる方々がおりますならば、ますます、あなたが共にいてくださり、慰めと励ましてください。
 この時を心より感謝し、全てのことをあなたに委ねつつ、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげ致します。

〇聖書
新約聖書 マルコによる福音書7章31節〜37節
31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り  抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるよう  にと願った。
33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、そ  れから唾をつけてその舌に触れられた。
34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。  これは、「開け」という意味である。
35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようにな  った。
36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、  イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳  の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

旧約聖書 イザヤ書35章1節〜10節
1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
2 花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
3 弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
4 心おののく人々に言え。
 「雄々しくあれ、恐れるな。
  見よ、あなたたちの神を。
  敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
  神は来て、あなたたちを救われる。」
5 そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
6 そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
7 熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。
8 そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ
愚かな者がそこに迷い入ることはない。
9 そこに、獅子はおらず
  獣が上って来て襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み
10 主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。

〇子どもたちへのメッセージ
 イエス様が大切にしているものがあります。それは何でしょうか。それは、「端っこにいる人たち」です。端っこにいる人たちは、目立ちません。けれど、イエス様は、その目立たない人を見て下さいます。イエス様は、端っこに生きる人たちも、かけがえのない宝物のように見つめてくださいます。端っこに生きていて「私のことを見て」と叫んでいる人と出会ってくださり、その人の痛みを知ってくださり、そして、その人を神様の子どもとして、迎え入れてくださいます。
 イエス様は、どこか遠くにいて、私達を見守っていてくださるお方でしょうか。確かに、そうかもしれません。しかし、実は、イエス様は、私達の一番近くにいてくださって、私達と出会ってくださいます。イエス様は、今、目には見えませんが、私達の一番近くで、私達一人一人のことを知っていてくださり、あなたに必要な救いの光を当ててくださいます。
 しかし、イエス様は、ただ、私達と共にいるだけではありません。私達の心の痛みや呻きや苦しみを、御自身の痛みとして受け止め、神様のもとへと、私達を導いてくださいます。
 今、読んだ聖書の御言葉には、「耳が聞こえず舌の回らない人」が出てきます。この人は、自分の力で、イエス様に救いを求めることが出来ない人でした。けれど、それは私達の姿でもあります。苦しくて、悲しくて、辛くて、だけど、誰も見てくれず、助けてって言えないことがあるものです。
 しかし、この人には、イエス様のもとに連れてきてくれる友達がいました。一緒に、イエス様の所に行ってくれる仲間や家族がいた。私は、この話しを見た時、自分も、この友達のようになれたら良いなと思った。それと同じように、この自分をイエス様のもとに連れてきてくれた、仲間や家族のことを思い出しました。神様は、ちゃんと、そうやって導いてくれる人を与えてくださるのだろうと思います。皆さんの近くにも、実は、そういう人がいてくれるかもしれません。
 こうして、イエス様のもとに連れて来られた人を、イエス様は受け止めてくださいます。そして、その人の心の中にある痛みや苦しみや呻きを全部知ってくださり、その痛みを御自身の痛みとして受け止め、その人を神様の子どもとして迎え入れてくださる。こうして、耳が聞こえず、舌の回らなかった人が、神様の御言葉を聞き、神様を賛美する口が与えられるのです。
 イエス様は、この人と同じように、私達にも関わってくださいます。神様が見出せない、救いが見出せない、そんな端っこで、辛くて悲しい、私達の心を、ちゃんと御自身の痛みとして身に受けてくださり、その私達と神様との絆を新たにしてくださるのです。このお恵みを一緒に覚えつつ、新しい日々を歩みたいと思います。

〇祈り
 天の神様、新しい御言葉の恵みに感謝します。私達の心は、決して強くありません。神様の救いが見えない時があります。神様の声が聞こえないことがあります。神様を賛美する言葉を失うことがあります。しかし、それでも、あなたは、私達を見捨てることなく、一番近い所で、救いの御業をしてくださいます。心から感謝します。どうか、私達をこれからも、あなたの救いの御業によって支え、導いてください。このお祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン

〇説教「救い主の御業」
 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書7章31節から37節の御言葉であります。今朝の御言葉で大切なことは、「救い主の救いとは何か」ということであります。
 もしかすると、私達は、救い主に、沢山のことを、望んでいるかもしれません。しかし、救い主御自身が、あなたの為に、成し遂げてくださった救いとは、本来、何であったのでしょうか。そのことに思いを馳せながら、今朝の御言葉に聴いて参りたいと思います。
 改めて、31節から32節の御言葉をお読みします。「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」。
 まず、今朝の御言葉は、主イエス・キリストの歩みついて記しています。この歩みは、見方によっては、とても不自然です。主イエス・キリストは、明らかに遠回りをしています。更に、主イエス・キリストは、敢えて、異邦人の土地を通って歩んでおります。そのような遠回りの歩みの中で、「耳が聞こえず舌の回らない人」と出会うのであります。
 これは何を表しているのでしょうか。これは、神様の救いの光が、一見届かないような所にも、救い主を通して、救いの光が、当てられている、ということなのであります。違う言い方で申し上げるならば、主イエス・キリストを通して、神様の救いが、届かない所など、もうないのだ、ということを表しているのであります。
 ユダヤ人にとって、異邦人は、救われる価値のない人々でありました。しかし、そこにも救い主は、来て下さるのであります。「耳が聞こえず舌の回らない人」は、誰かの力を借りなければ、救いを求めることが出来ませんでした。違う言い方で申し上げるならば、自分の力では、救いを求めることすら出来なかった人であります。つまり、この人もまた、神様の救いから遠く隔てられていた、ということであります。
 しかし、そこにも主イエス・キリストがいてくださる。出会ってくださるのであります。救いから遠く隔てられた人にも、救いを諦めかけた人にも、救われる価値がないと思われていた人にも、確かに、救い主の救いの光が、当てられているのであります。
 皆様の中にも、救いを見出せない人がいるかもしれません。自分は、本当に救われているのだろうか。自分は、本当に愛されているのだろうか。自分は、本当に、神様に受け入れられているのだろうか。そのように不安になる方々もいるかもしれません。
 しかし、救いから隔てられている。そのような現実や不安の中にこそ、実は、主イエス・キリストは歩んで下さっている。実は、その只中で、あなたと出会うことを望んでいて下さるのであります。ここにまず、救い主の救いの在り方が示されているのであります。即ち、救い主の救いとは、あらゆる隔たりや苦難を越えて、私達に与えられる恵みの出来事なのであります。
 さて、続けて33節から35節の御言葉をお読みします。「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」。
 主イエス・キリストの救いの御業は、まず、この人を、群衆の中から、連れ出す所から始まります。つまり、主イエス・キリストの救いの御業は、群衆に向けて、与えられるものではないのです。そこにいる、あなた一人と主が向き合って下さり、あなた一人に対して、与えられるものなのであります。群衆の中の一人としてではなく、そこにいるあなたと主イエス・キリストとの間で、神様の救いが成し遂げられていくのであります。
 それでは、この救いの御業は、どのような仕方でなされているのでしょうか。主イエス・キリストは、「指をその両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられた」のだと記されています。これは何を意味しているのでしょうか。
 これは、この人の一番、辛く苦しい所に、主が触れられた、ということを表しているのであります。主イエス・キリストの救いの御業は、どこか遠くから、魔法のように成し遂げられるわけではないのです。そこにいる、あなたの一番近い所で、あなたの抱える一番の辛さや痛みに触れ、それを主御自身もまた、共に知ってくださるのであります。
 しかし、主イエス・キリストの救いの御業は、ただ「痛みの共有」で終わるものではありません。主イエス・キリストは、「天を仰いで、深く息をつかれた」のだと書かれています。
 この「天を仰ぐ」という言葉は、「祈りの姿」を表しています。そして、「深く息をつく」という言葉は、「呻き」や「苦しみ」という意味もあります。つまり、主イエス・キリストは、ただ、この人の痛みを知っただけではないのです。この人の痛みや呻きを、御自身の痛みとして、御自身の呻きとして受け止め、この人の身代わりとなって、神様に執り成しをして下さった、ということなのであります。自分で救いを求める力もなかった、この人の痛みや呻きを、御自身の苦しみとして受け止め、この人に代わって、神様に救いを求めるのであります。ここに、救い主の救いの御業があるであります。
 しかし、この救いの出来事は、単なる肉体の癒しの出来事ではありません。聖書には、「耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった」と記されています。この言葉だけを読むならば、肉体的な癒しの出来事として読めるかもしれません。
 しかし、ここで「耳」という言葉は、単なる「体の器官としての耳」ではないのです。この言葉は、「聞くこと」という意味も含んでいます。つまり、「聞くことが開かれた」、「聞くことが聞けた」ということが、ここで起きたのです。耳が癒されたという話しではなく、「聞くことが聞けた」ということ。「語られている言葉を聞くことが聞けた」とも言えるかもしれません。もう少し砕いて言うならば、「聞くべきことが聞けた」とも言えるかもしれません。
 更に、ここで「はっきりと話すことができた」という言葉も、単に「呂律が回るようになった」という意味ではないのです。「正しく語ることができた」という意味なのです。聞くべきことが聞けて、語るべきことを、正しく語ることができた、という出来事が、この奇跡の出来事なのであります。
 このように、ここで起きている出来事は、本来的には、肉体の癒しではないのです。何よりも、たとえ、体が健康であったとしても、聞くべきことが聞けず、語るべき言葉が語れないことが、誰にでもありえることであります。その意味で、この癒しの出来事は、今、そこにいるあなたにも、起こった出来事、あるいは、起こりえる出来事でもあり、それ故に、この出来事は、単なる肉体の癒しではないのであります。
 私たちが聞くべき言葉とは何でしょうか。それは、神様の御言葉であります。語るべき言葉とは何でしょうか。それは、神様を賛美する言葉であります。つまり、この人は、ただ肉体の回復を得たのではなく、神様との関係の回復を得たのであります。
 そして、ここにこそ、救い主の救いの出来事の本来の姿があるのであります。私たちもまた、神様の御言葉に聴くことができないことがあります。私たちもまた、主を賛美できない時がある。聞けない、ということは、語れない、ということでもありましょう。神様の御言葉に聴けない自分がいるからこそ、正しく、主を賛美することも、正しく隣人に愛を語ることもできない。そのような自分がいるのではないかと思うのです。
 どちらにせよ、神様の御言葉に聴けず、神様を賛美する言葉も語れない時、私たちを支配するものは、罪と死なのであります。そして、それらは、私達と神様の救いを隔てるものなのであります。
 しかし、その隔たりを越えて、主イエス・キリストが、あなたのもとへ来て下さるのであります。そして、そこにいるあなたと、一対一で向き合ってくださる。そして、罪と死の支配の中にある呻きを知り、それをご自身の痛みとして担い、神様との関係を再び取り戻して下さる。ここにこそ、私達一人ひとりに与えられた神様の救いの出来事があるのです。そして、実は、ここにこそ、肉体の癒しを超えるほどの真の奇跡があるのであります。
 救い主が、私達に、そして、この人に成し遂げてくださる救いとは、キリストが、私達の呻きを担い、神様との関係を取り戻してくださる。そのところにこそ、本当の意味があるのであります。
 そのことを踏まえたうえで、改めて、36節から37節をお読みします。「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにしてくださる」。
 主イエス・キリストの救いに触れた多くの人々が驚きます。この人々の言葉は、先ほども読みました、イザヤ書35章の御言葉を彷彿とさせるものです。因みに「舌の回らない」という表現は、ギリシア語の旧約聖書・新約聖書を合わせても、二回しか使われていないそうです。一つは、この箇所です。もう一つが、イザヤ書35章であります。
 つまり、今朝の御言葉は、明らかに、イザヤ書35章を意識している、ということでありましょう。イザヤ書35章は、救い主の預言であります。即ち、今朝の御言葉が、最も強調したいことは、主イエスこそ、真の救い主なのだということであります。
 但し、マルコによる福音書は、この真の救い主による救いの出来事を、福音書の中盤に記しています。即ち、主イエス・キリストの旅は、ここから更に続くのであります。
 では、どこに終着点があるのでしょうか。十字架の死と復活にあるのであります。言うならば、この救いの出来事は、その十字架の死と復活の前触れなのであります。
 だからこそ、まだ、誰にも話してはいけない、ということなのであります。救いの出来事は、まだ、完成ではないからであります。あの十字架の出来事のうちにこそ、私達の痛みを背負い、呻き、苦しまれるキリストがいるのです。あの十字架の出来事にこそ、私と神様との関係回復があるのです。主イエスの救い主としての御業は、全てそこに向かって行く。今朝の御言葉は、その真の救いの出来事を象徴する出来事として記されているのです。
 私達は、今、既に、その十字架の死と復活の救いの光の中で、神様との和解を得て、罪と死の支配から、解放されています。「開かれる」という言葉には、そのような意味も込められているのであります。主は、今、あなたと向かい合い、あなたの痛みを背負い、私達の身代わりとなって呻きつつ、神様と私達の間を執り成してくださるのであります。この恵みの中でこそ、私達は、初めて、本当の喜びを知り、「主のなさることは美しい」「主のなさることは全て素晴らしい」と声高らかに賛美するものへと導かれているのではないでしょうか。

〇祈り
天の父なる神様、新しい御言葉の恵みに心から感謝もうしあげます。あなたから多くの恵みを頂き、生かされていながらも、あなたの御前で弱さに満ち、汚れに満ちた私達を憐れんでください。今、こうして、御言葉を通して、御子の贖いの意味を確かめ、新たに生かされている幸いに深く感謝を申し上げます。どうか、この恵みに生かされて、あなたを見上げつつ、新しい歩みをなすものとしてください。

〇主の祈り
天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。


posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:27| 日記

2020年04月22日

2020年5月3日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜 YouTube配信

前 奏
招 詞 詩編47篇2節〜3節
讃美歌 17
祈 り
聖 書 新約 マルコによる福音書7章31節〜37節
    旧約 イザヤ35章1節〜10節
子どもへのメッセージ
祈 り
讃美歌 205
説 教 「救い主の御業」須賀 工牧師
祈 り
讃美歌 358
主の祈
頌 栄 29
祝 祷

※5月中も集まっての礼拝を自粛します。 
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:18| 日記