2020年05月26日

2020年6月7日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「エチオピアの宦官の救い」
聖書:使徒言行録8章34節〜40節
※6月から教会学校を再開します。感染予防対策をした上で行います。
※当面の間、分級は実施しません。ご了承ください。

〇主日礼拝 10時30分〜
前奏
招詞 詩編95篇1節
讃栄 21−24
主の祈り
讃美歌 21−11
祈り
讃美歌 21−56
聖書 新約聖書 マルコによる福音書8章31節〜38節
   旧約聖書 イザヤ書55章8節〜9節
説教 「命を得るために」須賀 工牧師
祈り
讃美歌 21−303
使徒信条
献金 65−1
頌栄 21−29
祝祷
報告
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:12| 日記

2020年5月31日 主日礼拝「主イエスこそ我が救い主」須賀 工牧師

2020年5月31日 主日礼拝−ペンテコステ礼拝−
〇招詞 詩編96篇1節〜2節
1  新しい歌を主に向かって歌え。
   全地よ、主に向かって歌え。
2  主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ御救いの良い知らせを告げよ。

〇祈り
 天の神様、あなたの御名を賛美します。
 今、こうして、主の日を迎え、兄弟姉妹がたと共に心を合わせて礼拝がささげられますお恵みに心から感謝申し上げます。どうか、礼拝する者一人一人の心を導き、あなたが、私達の中心に強く臨んでくださり、高らかに、あなたの御名を賛美するものへと導いてください。
 今朝、私達は、聖霊降臨日の礼拝を捧げています。かつて、あなたが、弟子達に聖霊を与え、あなたの救いの確かさと真の信仰の目を開き、あなたの救いを宣べ伝えさせ、こうして教会を誕生させてくださいましたお恵みに深く感謝をします。どうか、今、この時代にある教会の上にも、聖霊の導きを与え、あなたの救いの確かさと信仰の目を開き、福音伝道の御業に、新たに仕えるものとしてください。どうか、世界中の教会が、心を一つにし、信仰の土台に固くたち、共に一人の救い主を崇めて、共に祈り合い、励まし合うことができますようにお守りください。
 あなたから恵みを頂き、今も、あなたによって養われていながらも、私達の心は弱く、道に迷うことの多い者であることをお赦しください。どうか、この時、聖霊によって、御言葉の恵みを悟る力を与えてくださり、その御言葉によって新たに生きるものとしてください。痛みを覚えている方々や悩みや苦しみの中にいる方がおりますならば、なお、あなたの聖霊の働きと御言葉の糧を十分に与えていただきますようお働きください。
 病の内にある方々の上にも、どうか、あなたが強く臨んでくださり、癒しの御手の中へと導いてください。特に、感染症の脅威の中で、病に冒された方々、不安を覚えている方々、愛するものを失った方々を、どうか、あなたが慰め、癒し、平安を与えてください。また、特に、医療に関わる人々や、それぞれの社会に生きる一人一人を、あなたがかえりみてくださり、支え導いてください。
 あなたが教会を、この世に与え、この教会を聖霊によって守り導いてくださいましたことを感謝すると共に、過ぐる日、あなたの御許へと召されていかれた教会員、聖徒たちを覚えます。どうか、この時もまた、あなたの御手の中で、真の平安を得、復活の希望の内に入れてください。どうか、天にある民も、地にある民も、同じ救い主の救いの光の中で、あなたの御名を賛美する礼拝を、これからも捧げることができますように、そして、陰府に下り、陰府の救い主ともなられたイエス様の救いの御支配が確かなものであると、私達が信じることができますように聖霊の導きを祈ります。また、愛する者を失ったご遺族一人一人の上にも、あなたの慰めが、これからも豊かにありますように。
 どうか、今は、礼拝堂に集まって共に礼拝を捧げることはできませんが、どこにあっても、一人一人を御言葉によって養い、新たな歩みへと、あなたが導いてください。そして、どうか、求道中の方々、初めて礼拝に触れる方々のことも、あなたが見つめてくださり、真の救いを知る心を、あなたが聖霊によって与えてください。
 この時を心より感謝します。全てのことをあなたに委ねます。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって、お捧げします。アーメン

〇聖書
(新約聖書)マルコによる福音書8章27節〜30節
27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。   その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言わ   れた。
28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と   言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言う   のか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
30 するとイエスは、御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた。

(旧約聖書)ゼカリヤ書8章1節〜9節
1  万軍の主の言葉が臨んだ。
2  「万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。
  激しい憤りをもって熱情を注ぐ。
3  主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て/エルサレムの真ん中に住まう。エ   ルサレムは信頼に値する都と呼ばれ/万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる。
4  万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には/再び、老爺、老婆が座すように   なる/それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。
5  都の広場はわらべとおとめに溢れ/彼らは広場で笑いさざめく。
6  万軍の主はこう言われる。そのときになって/この民の残りの者が見て驚くことを   /わたしも見て驚くであろうかと/万軍の主は言われる。
7  万軍の主はこう言われる。見よ、日が昇る国からも、日の沈む国からも/わたしは   わが民を救い出し
8  彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる。こうして、彼らはわたしの民となり   /わたしは真実と正義に基づいて/彼らの神となる。
9  万軍の主はこう言われる。
    勇気を出せ。
あなたたちは、近ごろこれらの言葉を
預言者の口から、度々聞いているではないか。
万軍の主の家である神殿の基礎が置かれ
再建が始まった日から。

〇子どもたちへのメッセージ
 今日は、教会の誕生日です。石山教会の誕生日ではありません。今日は、この世界に教会が誕生したことを記念する日なのです。
 教会は、どのようにして誕生したのでしょうか。誰かが、集まって、教会を建てる計画をしたのでしょうか。それとも、大工さんが、突然、教会堂を建てたのでしょうか。それは違います。
 教会は、聖書が示すことによると、「聖霊」によって誕生しました。お弟子さんたちが、一緒にお祈りをしていると、不思議な風が吹いて、聖霊に満たされたのです。そして、お弟子さんたちは、世界中の言葉を語り出したとも言われています。とても、不思議な出来事によって教会は、誕生したのです。それは、言い方を変えるならば、教会は、人間の考えとか、計画とか、建築によって誕生したのではなくて、正に、神様の力によって誕生したということなのです。
 聖霊を受けた、お弟子さんたちは、世界中の言葉を話すようになりました。けれど、別々のお話をしたわけではないようです。聖書によると、そこにいた外国人が、みんな、違う言語で、同じ、神様の救いのお話を聞いたのです。
 これが大切なことです。教会は、世界中にあります。そこで語られている言葉は違います。しかし、そこで語られている御言葉は、みんな同じ救いの御言葉なのです。つまり、外国の人であろうとなかろうと、教会に連なるということは、同じ御言葉を聞き、同じ心で神様を信じて、礼拝ができる、ということなのです。
 これは何を意味しているかというと、世界の全ての人が、神様の救いに支配されている、ということなのです。この人は、神様の子どもで、あの人は神様の子どもではない、ということはありえないのです。なぜなら、世界中が、神様の救いの御言葉に溢れているのだから。神様は、こうして、世界の人たちに、イエス様の救いや愛を届けるために、教会を与えてくださったのです。この愛からこぼれ落ちる人は、もうこの世界にはいないのです。 この愛や救いは、教会を通して、国を超え、時代を越えて、今、私達にも与えられています。そうです。今、そこにいるあなたもまた、神様の救いの御支配の中へと招かれているのです。どうか、教会を通して、与えられる、この大きな恵みを覚えて、教会に来て、一緒に、同じ心をもって礼拝をささげましょう。感染症の脅威はまだあるけれど、これが終息し、また、みんなと一緒に礼拝できる日を待ち望んでいます。

〇お祈り
 天の神様、御言葉の恵みに感謝します。私達に、イエス様の救いを届けるために、教会を、この世界に与えてくださいましたことに感謝します。どうか、私達一人一人を、導いてくださり、教会を通して与えられる恵みを、自分の恵みとして受け取ることができますようにお守りお導きください。どうか、子ども達が、これからも祝福されて、心と身体の健康が守られて、安全と安心の中で、ますます成長することができますようにお守りください。もし、悲しみのうちにある、子ども達がいますならば、あなたが慰めてください。このお祈りを主イエス・キリストの御名によって、お捧げします。アーメン

〇説教「主イエスこそ我が救い主」須賀 工牧師
 今朝の礼拝は、「ペンテコステ」−聖霊降臨日−の礼拝です。ペンテコステとは、端的に申し上げるならば、「教会の誕生日」であります。
 それでは、教会は、どのようにして誕生したのでしょうか。教会は、「聖霊」の力によって誕生しました。人間の知恵とか知識によるのではありません。神様の霊的な力によってのみ、教会は誕生したのであります。
 もう少し詳細に申し上げるならば、主イエス・キリストの弟子たちに聖霊が降り、神様の救いの御業を語り出した。そのところから、教会は誕生したのであります。
 即ち、教会は、人間の知恵や知識、あるいは立派な会堂が建てられることによって誕生したのではなく、神様の霊−聖霊−によって、弟子たちが福音−救いの御言葉−を宣べ伝えたことで、この歴史の中に、誕生したのであります。そして、教会は、そのような存在として、今も立ち続けているのであります。
 少し、厳しい見方をするならば、どれだけ立派な礼拝堂が建っていたとしても、そこで、神様の救いの御業が、正しく宣べ伝えられていなければ、そこに教会は、あってないようなものなのだと、言えるのかもしれません。あるいは、教会が、どれだけ、優れた活動をしていたとしても、そこで、神様の救いが正しく宣べ伝えられていなければ、もはや、それは、教会の働きではない。そのようにも言えるかもしれないのであります。
 さて、どのような建物であっても、土台がなければ、立ち続けることはできません。教会にもまた、そのような土台があります。
 それでは、教会の土台とは何でしょうか。それが、「信仰告白」であります。どのような教会であっても、信仰なくして、教会は教会として成り立ちません。
 では、教会の信仰とは何でしょうか。それは、「主イエスを救い主と信じる」ことです。私達の教会は、主イエスを救い主と信じ、告白します。主イエス・キリスト以外のものを「救い主」とは信じていません。この信仰が、教会の大切な土台となります。この土台がずれてしまうと、あるいは、他の土台を敷いてしまうと、そこで、神様の救いが、正しく語られることもなくなり、教会が、真の教会では、なくなってしまう。いや、もはやキリスト教とも言えなくなってしまう。そういうこともあるのです。
 繰り返しになりますが、教会は、「主イエスを救い主と信じる」信仰を土台としています。それは、違う見方で申し上げるならば、主イエス・キリスト以外は、私の救いにはならない、と告白することでもあるのです。それ以上の救いは、この世には、ありえないということ。そのことを明確に受け止めることになるのであります。
 しかし、人間は、決して、強い存在ではありません。弱さがあります。躓くことがあります。主イエス・キリスト以外のものに、心が奪われてしまうことがあります。それもまた私達の現実であります。
 私達の取り巻く環境も、決して、信仰上安全であるとは言い切れないものです。私達の信仰を動揺させてしまう程の魅力ある教えや活動もあるのです。そのような現実の中で、私達自身が、他のものに救いを求めることもあるのです。それが、私達の生きる現実なのであります。
 しかし、そのような、現実の中にあってこそ、私達も又、弟子たちと同様に、主イエス・キリストから問われているのであります。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。「あなたがたはわたしをどのような存在として受け止めているのか」と。このような不安定な世界、不確かな自分に対して、主イエス・キリストは、改めて、主イエス・キリストとの関係を、教会のよるべく信仰を、問い直してくださるのだろうと思うのであります。
 今朝の御言葉は、マルコによる福音書で言うところの、折り返し地点、もしくは、中間地点であります。即ち、ガリラヤでの活動が終わり、いよいよ、主イエス・キリストと弟子たちは、中心都市であるエルサレムに向かって歩んでいくことになります。
 しかし、今朝の御言葉は、「フィリポ・カイサリア地方」の話しをしています。フィリポ・カイサリア地方は、イスラエルの地図で言うところの北端に位置しています。ガリラヤ地方を活動の拠点と考えるならば、エルサレムとは、全く逆に位置した土地なのであります。この全く逆に位置した土地の中で、今朝の御言葉が語られていくのであります。
 しかし、実は、この土地が、とても重要なのであります。このフィリポ・カイサリア地方には、かつて、ギリシヤの神を礼拝する神殿や像が建てられていました。そして、この地方には、ヘロデの神殿も建てられていた。その神殿の中には、当時の支配者ローマ皇帝の像も建てられていたようです。
 そもそも、「カイサリア」の語源は、「カエサル」であります。「カエサル」とは、「皇帝」のことであります。フィリポは、ヘロデの兄弟の名前であります。つまり、フィリポ・カイサリア地方とは、「皇帝によって、ヘロデ家に与えられた土地」ということになります。そして、その皇帝に敬意を示すために、皇帝の像を建て、皇帝崇拝の牙城を造りあげたのであります。これが、フィリポ・カイサリアの現実なのであります。
 言うならば、フィリポ・カイサリアは、政治的な欲望や圧力が横行し、異教が、そこで土着化した土地でもありましょう。そのような土地の只中で、主イエス・キリストは、弟子たちに問いかけるのです。もしかしたら、この神々の像の前で問いかけたのかもしれない。「あなたがたは、わたしをどう受け止めているのか」と。
 私は、主の弟子たちが、この主の問いかけを、後に、何度も鮮明に思い返しただろうと思います。聖霊によって、教会が誕生し、弟子たちが、世界中に、神様の救いを宣べ伝え、救い主の存在を証ししました。その彼らの目の前に広がる世界は、正に、こういう世界だったのであります。教会の目の前に広がる世界とは、いつでも、こういう世界だった。その世界の只中で、彼らは、この主の問いかけを何度も聞いただろうと思うのであります。そして、その問いかけは、今、私達にも問われているのではないかと思うのであります。
 聖書によれば、主の弟子たちを代表して、ペテロが答えました。「あなたはメシアである」と。「主イエスこそ救い主だ」と告白をした。この信仰告白が、教会の土台となり、宣教の内容になったのであります。沢山のものに囲まれた世界の中で、「あなた以外には救いはない。あなたが私の救い主なのだ」と、主イエスを受け止めた弟子たち。その弟子たちの信仰告白が、教会の土台となるのであります。そして、今、私達もまた、このように、主イエスを受け止めていくことで、教会に連なっているのであります。
 しかし、人間は、決して、強い存在ではありません。弱さがある。汚れがある。罪がある。主イエス・キリスト以外のものに、依り頼んでしまうことがある。それが人間の現実であります。弟子たちも恐らく、この出来事を思い出した時、この主の問いかけを思い起こした時、自分の無知や弱さも思い出しただろうと思います。「あのとき、あんなことを言ってたけど、俺たち何も分かってなかったようなぁ」と苦笑しながら思い出していたかもしれない。そして、同時に、自分の弱さよりも、もっともっと大きな、神様の憐れみを思い起こしたことでありましょう。
 弟子たちも、これから失敗をするのです。間違いを犯すのです。主イエス・キリストのことを知っていながらも、関係を否定してしまうのです。主イエス・キリストを裏切り、逃げてしまうのであります。それが弟子たちの現実なのであります。
 その意味で、この時、彼らの信仰の告白は、言葉だけの不確かなものだったのであります。だからこそ、主イエス・キリストもまた、このことを口止めされたのだろうと思うのであります。彼らの弱さを知っていたからであります。彼らの裏切りを知っていたからであります。
 しかし、そのような弟子たちのために、主イエス・キリストは、これから、十字架にむかって歩みを始められるのであります。彼らを罪から救い、死の縄目から解放し、神様のものとするために。主イエス・キリストは、彼らの罪を背負って、エルサレムに向かって歩み出されるのであります。
 そして、主イエス・キリストは、十字架の死と復活の後、彼らの罪を赦し、彼らと和解し、彼らを再び、主の弟子へと招いてくださった。そして、神様は、この彼らに聖霊を与えて、彼らの信仰を確かにしてくださった。そして、あの信仰告白を土台として教会を立てられたのであります。何も分かっていなかった弟子たちに、聖霊を与え、主イエスが救い主であること、主イエス・キリストこそが、救いの全てであること。その信仰を確かにしてくださったのであります。
 信仰とは、その意味で、神様の聖霊による導きなくしては、確かなものとは成らないのかもしれません。神様の力に支えられて、初めて、主イエスが真の救い主であることを知り、それを私の救い主と信じて告白できるのでありましょう。
 私達の信仰の告白もまた、もしかすると、言葉だけのことで、主の目には確かなものではないかもしれません。
 しかし、弟子たちのために十字架を負い、その弟子たちに聖霊を与え、彼らの信仰を確かなものへと導き、救いを確かにしてくださった。その神様は、今、私達の内にも、十字架の死と復活の救いを指し示し、聖霊の御業を成し遂げ、私達の信仰を確かなものとし、本当の救いを知るものとしてくださるのであります。私達も又、どのような現実を目の当たりにしようとも、教会を通して、聖霊の働きを通して、「主イエスが私の救い主」であること、「これ以上の救いはない」ということ。そのことの本当の幸いを味わいながら、日々、歩み続けることができるのです。その幸いを改めて心に留めて、教会が、この世に与えられたことを本当に感謝しつつ、共に新たな日々を歩み出したいと思うのです。
 主イエスこそが、私の救い主であります。そして、主イエスこそが、あなたの救い主であります。このお方だけが、私達を救いの光で支配してくださるお方であります。今や、私達は罪と死に支配されているのではないのです。救い主に支配されているのです。その恵みを信じ、その信仰を土台にし、この土台の上にとどまりつつ、共に歩みを進めて参りましょう。

〇祈り
 天の神様、新しい御言葉の恵みに心から感謝します。あなたが、私達の救いのために、教会を与え、教会を通して、私達に救い主を指し示し、その救いの恵みに生かしてくださいましたお恵みに深く感謝します。どうか、私達一人一人が、この恵みと信仰に固くとどまり、真の救いを仰ぎ見つつ、信仰生活の歩みをなしていくことができますようにお守りとお導きを与えてください。どうか、まだ、救いを知らずにいる一人一人が、この恵みを味わいつつ、この時も歩むことができますように聖霊の導きを与えてください。

〇日本基督教団信仰告白
 我らは信じかつ告白す。
 旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。
 主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。
 神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業(みわざ)を成就(じゃうじゅ)したまふ。
 教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。
 我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。
 我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。

〇主の祈り
天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:03| 日記

2020年05月18日

2020年5月31日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜 ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日礼拝)
※礼拝堂に集まっての礼拝を自粛しています。10時20分よりYouTubeで礼拝をライブ配信しています。

前 奏
招 詞 詩編96篇1節〜2節
讃美歌 21−16
祈 り
聖 書 (新約)マルコによる福音書8章27節〜30節
    (旧約)ゼカリヤ書8章1節〜9節
子どもたちへのメッセージ
祈 り
讃美歌 21−351
説 教 「主イエスこそ我が救い主」須賀 工牧師
祈 り
讃美歌 21−343
主の祈
頌 栄 21−29
祝 祷

ペンテコステ(聖霊降臨日)は、主の弟子たちに聖霊が降り、世界中の人々に神様の偉大な救いを語り始めた日、すなわち、教会の誕生を記念する礼拝です。この世に、神様が教会を与え、そのことを通して、世界中の人々に福音、救いが届けられたことを覚えて礼拝をささげたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:41| 日記