2020年06月26日

2020年7月5日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
主題:「マケドニア人の幻」
聖書:使徒言行録16章6節〜10節
※礼拝後、誕生者祝福の祈りをささげます。

〇主日礼拝 10時30分〜
主題:「救い主の苦難」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書9章9節〜13節
※礼拝後、五分の集い、信仰の学びが行われます。

感染予防対策として、距離を置いて座り、換気と消毒を徹底するなどして礼拝を捧げています。ご了承ください。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
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2020年6月28日 主日礼拝「衰える者の喜び」須賀 舞伝道師

2020年6月28日 主日礼拝

前 奏

招 詞 詩編100篇1節〜3節
1  全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
2  喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。
3  知れ、主こそ神である。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その
   民主に養われる羊の群れ。

主の祈り 
天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。アーメン。

祈 り
 天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。あなたの愛に生かされ、礼拝できます幸いに、深く感謝を申し上げます。どうか、この時、初めから終わりまで、あなたが共にいてくださり、礼拝を捧げる一人一人の心を一つにし、高らかに、あなたの御名を賛美する礼拝を捧げられますようにお導きください。
 あなたの御前に罪深く、あなたを忘れ、御言葉に聞かず、祈ること少なかった私たちをどうかお赦しください。今朝、改めて御言葉を通して、あなたの御心を悟らしめ、あなたの懐に立ち帰ることができますように。
 感染症の恐怖は未だ続き、日本そして世界の教会が、安心して御堂に集って礼拝をすることに難しさを覚えております。しかしどうか、この試練の時にもあなたが聖霊の豊かな御働きをもって私たちを祝福してくださり、それぞれの群れが霊と真理をもって礼拝を捧げ、喜びと希望の言葉を聞くことができますように。
 病の内にある方々、痛みを覚えている方々を特に、あなたがかえりみてくださり、あなたの癒しの御手の内に、新たに生かしていただきますように、心より祈ります。
 過ぐる日、あなたの御許に召された、聖徒達を覚えます。どうか、今、あなたの御手の中で、真の平安を得ていることを信じるものとしてください。また、愛する者を失い、悲しみのうちにいる者を、どうか、御言葉によって慰め励ましてください。天にある民も、地にある民も、共に主の復活の希望に生かされ、高らかに、あなたを賛美することができますようにお導きください。
 感染症の脅威にさらされるこの世に、あなたの愛が示され、一人でも多くのものが信じ救われますように。 
 全てのことを感謝し、全てのことを委ねて、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン

聖 書
(新約聖書 ヨハネによる福音書3章22節〜30節)
22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
(旧約聖書 エレミヤ書9章22節〜23節)
22 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。
   力ある者は、その力を誇るな。富める者は、その富を誇るな。
23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ること。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

説 教「衰える者の喜び」須賀 舞伝道師
 本日与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書3:22-30です。話は、主イエスと洗礼者ヨハネが同じ頃、それぞれ別の場所で、人々に洗礼を授ける活動をしていた、というところから始まります。主イエスは、弟子たちを従えた後、ガリラヤ地方へ行かれ公生涯を始められました。カナの婚礼における奇跡、エルサレムの神殿境内での宮清めの出来事に始まり、主は数々の奇跡を行い、人々を教え、公の伝道活動をなされたのです。先月は、ニコデモという人物と主イエスの対話を共にお読みしました。そして、主はその後「ユダヤ地方に行って…洗礼を授けておられた。(3:22)」のでした。
 一方で、洗礼者ヨハネも同じ頃、「サリムの近くのアイノンで洗礼を授けて(3:23)」いました。25節に、ヨハネの弟子たちが出て来ます。洗礼者ヨハネが弟子を伴って活動していたことは、既に1:35に語られていました。主イエスの最初の弟子は、元々はヨハネの弟子であったアンデレと名前は記されていないもう一人の人でありました。彼らは、ヨハネの弟子でありながら、師匠であるヨハネの「見よ、神の小羊だ。(1:29)」という言葉を聞いて、主イエスの弟子になったのです。
 この出来事は、どうもヨハネの弟子たちの間でも知られたことであったようです。26節にはこうあります。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。(3:26)」1:28に、これは「ヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった」とありますから、3:26のヨハネの弟子たちが言う「ヨルダン川の向こう側で」ヨハネと主イエスが一緒にいたのは、明らかにアンデレたちが主に従ったあの場面のことであることが分かります。
 その主イエスが、今まさにヨハネと同じように洗礼を授ける活動をしている。しかも、主イエスの方が人を集めているようだ。ヨハネとは違い、弟子たちはそのことをよく思っていませんでした。彼らは慌てて、ヨハネ先生大変です!とやってきたのです。きっかけは、アンデレたちがヨハネの元を去ってイエスの弟子となったことだけではありませんでした。ある日、ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間に「清めのこと」、つまりヨハネと主イエスがそれぞれ授けていた「洗礼」についての論争が起こったのです。どのような言い争いであったのか、その具体的な内容については記されておりません。ただ、25節を読みますと、おそらくヨハネの弟子たちに何かを言ってきた人は、こういうことを言ってきたのだと思います。「あなたたちの先生より、あっちのイエスという人の方が凄い人だ。イエスの洗礼こそ本当の洗礼だ。」そこで、ヨハネの弟子と主イエスの方が良いというユダヤ人たちの間に、「洗礼」についての論じ合いが起こったのです。このことから分かることは、当時の人々が、ヨハネと主イエスとを比べて、どちらから洗礼を受けようか「比較し」「選んで」いたということです。
 少し話の本筋とはそれてしまうかもしれませんが、この福音書が書かれた背景について触れておきたいと思います。ヨハネによる福音書の成立は、紀元1世紀の終り頃であります。当時、キリスト教会はまだユダヤ教の一派とみなされている時代でした。当時のユダヤ人の中には、主イエスを神と信じ、クリスチャンとなる者がいた一方で、洗礼者ヨハネの教えを受け継ぐ弟子たちもなお存在していたのです。その人たちはユダヤ人たちの共同体の中に留まりつつ、ヨハネが授けていた悔改めの印としての洗礼を受けて、神に従う生活を築こうとしていました。しかし、クリスチャンをユダヤ教の会堂から追放するといった迫害も始まっていた頃でした。ヨハネの弟子たちはそういう状況の中で、いわば、宙ぶらりんの状態であったのです。彼らは、ユダヤ教に留まり続けるか、主イエスを信じてキリスト教会に加わるのか、という問いを突きつけられていました。このような当時のユダヤ人達へのメッセージが本日の箇所にも込められているのです。そして、どっちつかずの状態にある人々の象徴として、ユダヤ教の地位ある人物でありながら、主に教えを受けようとやってくるニコデモや、洗礼者ヨハネの弟子たちが登場してくる訳なのです。
 しかし、これはある特定の状況下にある、特定の人々に向けられたメッセージでありながら、私たちもまた、「宙ぶらりんな信仰を持ってはいないか」と、問いかけられているように思うのです。「あなたは主イエスと他の何かを比較し、自分の思いで選んだりはしていないか。」「自分の思いの中で主を見てしまってはいないか。」当時の人々は洗礼者ヨハネと主イエスを比べ、魅力的な方を選び洗礼を受けに行きました。また、自分の安心安全なエリアであるユダヤ教に留まりながら、主の教えはいい教えだからちょっと聞いて参考にしようなどと考える人もいました。そのような信仰のあり方は、私たちにも思い当たる節があるように感じます。神様から与えられた恵を自分の価値基準で選別してしまう。世の中の魅力的な言葉や考えと比較してしまう。自分の生活が中心にあり、その生活や人生をより豊かにするためのものとして御言葉を読んでしまっている。このような信仰になってしまってはいないかという問いかけが、ここには込められているのではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネは、自分が何者であるか、何のために今ここにいるかを深くわきまえた人物でした。もし、自分を慕ってきた人たちが、自分より他の人の方が素晴らしいとなる、言葉は悪いかもしれませんが、鞍替えしてしまうことがあったなら、皆さんはどう感じるでしょう。普通なら嫌な思いになると思います。しかし、ヨハネ自身はそうではなかったのです。
 ヨハネは弟子たちにこう教えます。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない(3:27)」これは、今起こっている状況が、どれも天から与えられたこと、つまり神の御心であるということです。「わたしは『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言った(3:28)」これは、ヨハネが悔い改めの洗礼を授ける活動を始めた時、「おまえは何者か」と問われて答えた言葉のことです。ヨハネはその時、メシアであることを否定し、旧約時代の預言者の言葉を引用して、自分は、『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声なのだ(1:28)と答えました。ヨハネの役割は、後から来られるメシアである、主イエスのための道備えをすることでありました。そして、これは旧約聖書マラキ書第3章の「わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」という預言の成就でもあったのです。ヨハネはそのことを熟知しわきまえていました。ですから、多くの人々が自分のもとに集まり悔い改めの洗礼を受けるが、主イエスの登場によってその人々は自分の元を去り、主イエスを信じるようになることは、神の御心であり、当然のことであったのです。そしてヨハネにとって、それはこの上ない喜びであったのです。
 更にヨハネは、自身の弟子たちにも、自分と同じ使命が与えられていると、3:28の後半で教えます。「そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」つまり、「あなた達は、主イエスの方に人が多く集まり戸惑っているようだ。だが、むしろ、私たちの悔い改めの洗礼活動が主イエスを証しし、皆が主イエスを知り、その救いにあずかることこそが、神様の御心なのだ。」と言うのです。
 ところで、3:29以下でヨハネは、主イエスと自分の関係を「花婿」と「花婿の介添え人」という譬えで語っています。婚礼の主役である花婿は、主イエスです。そして、ヨハネ自身は花婿の介添え人であると言います。介添え人はあくまでも脇役です。介添え人は、主役の花婿の登場を喜びを持って迎えるのです。主役である主イエスが栄え、介添え人である自分が栄えてはならない。むしろ自分は、主が登場したら、表舞台から消えて、見えなくなっていく存在である。衰えなければいけない存在である。そのことによって、花婿である主イエスの栄光だけが、よりはっきりと表されていくのだ、と言うのです。
 ところで、「花婿の介添え人」とは一体何者か、このことをもう少し深めて考えてまいりたいと思います。「花婿の介添え人」とは、ただの脇役なのでしょうか。どうせいつかは消えてなくなる存在であるなら、いてもいなくてもいい、そのような存在であったのでしょうか。実は、そうではないのです。
 「介添え人」とは、直訳すると「友」という意味の言葉です。そう、ヨハネは花婿である主イエスの「友」なのです。ここで私たちが心に思い浮かべる御言葉は、ヨハネによる福音書15:15でありましょう。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」主イエスは、主イエスを信じる者たちを友と呼んで下さる。私たちは、主イエスに従う者として衰えねばならない存在でありますが、それは決してどうでも良い存在ではない、むしろ、消えるべき存在である私たちを、「友」として必要な存在であると言ってくださる。更に言うなら、主イエスの「主」は主人という意味です。「主人」は「僕」を従えます。しかし、主は私たちの主人でありながら、私たちを僕ではなく、友と呼んで下さるのです。僕と友は全く違います。僕はただ命じられたことをその通りにするロボットです。しかし友は、主人とコミュニケーションをとります。主イエスの友とは、主体性を持って、主イエスの言葉を聞いて父なる神の御心を知り、主イエスと共にそれを行なっていく者なのです。
 花婿の介添え人は、「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている(3:29)」と語ります。この喜びは、主イエスの友とされた者の喜びです。ヨハネは、主イエスの語る言葉に耳を傾け、主イエスを通して神様の救いの御心をしっかりと聞いたのです。だからこそ、主イエスこそまことの救い主であられることを確信し、喜びに満たされて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(1:29)」と証ししたのです。ヨハネは、主イエスの最初の友とされ、主イエスの言葉を聞いて父なる神の救いの御心を最初に知らされた人であり、その喜びを最初に味わった人であり、その喜びに押し出されて主イエスこそ救い主であることを最初に証しした人でありました。
 そして私たちも、ヨハネに続いて、主イエスに「友」と呼んでいただいた者の一人なのです。私たちは、私たちをその傍に呼び寄せ「友」としてくださる、この主の大きな愛と憐れみを、喜びを持って深く受け止めたいと思うのです。そして主イエスは、友のために自分の命を捨ててくださるお方であります。私が私であるために、罪の苦しみから解放され自由になり、命を得て神との関係の内に本来の輝きを取り戻すことができる。そのために、主イエスご自身が死んでくださった。その大きな愛を私たちはどのように受け止め、またその愛にどう応えていくのでしょうか。
 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(3:30)」そう言ったヨハネの人生は、弟子を失い、人々から見向きもされなくなっていく、そういう人生でした。それは、人間の目、この世の評価で測ったら、衰えでしかない人生、失敗のようにしか見えない人生であるかもしれません。しかし、主の愛を知る時、私たちは、主の愛の以外に、この私の人生を満たすものは何もないと思い知らされるのです。私たちは、自分が衰えていく人生を送っていると思う時があります。失敗をした時、自分の力の限界を感じた時、そして、年を重ね弱さを覚えた時、衰える人生を私たちは悲観的に捉えてしまいます。しかし、主の愛に立ち帰る時、私たちは主の御前で主の愛のほかは何も持っていない自分を誇ることができるのです。私たちは、主の御もとに引き寄せていただき、その懐の中で自分の衰えを喜び、また「あの方が栄える」のを見て、大きな喜びに満たされる人生を送ることがゆるされているのです。

祈 り
天の父なる神様、御名を賛美いたします。主イエスは、私たちを選び、呼び寄せ「友」と
してくださいました。そして、私たちの救いのために死んでくださいました。私たちはこ
の愛のほかには何もいりません。弱さを感じる時、もうダメだと思う時、この信仰の薄い
弱き僕をどうか主の愛に立ち帰らせてください。衰えることを悲しみとぜず、喜びとする
人生を送ることができるよう私たちの信仰を守り御導きください。誇るべきは、自分では
なく、主ただお一人であることをどうか悟らせてください。私たちの人生の主であられる
お方に心から感謝いたします。いつもどんな時も絶えず喜び、祈り、主を賛美させてくだ
さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

使徒信条 21−93・4・1・A
我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、
イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポ
ンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)
にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に
坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我
は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、
永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。

献 金/黙 祷 
〜献金の祈り〜
主なる神様、私たちは今、礼拝にあずかり、賛美と祈りを捧げ、御言葉の恵みをいただきました。感謝申し上げます。今ここに献身のしるしとして献げ物をいたします。きよめてあなたの御用のためにお使いください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


posted by 日本基督教団 石山教会 at 01:37| 日記

2020年06月10日

2020年6月21日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「ペトロの回心とコルネリウスの救い」
聖書:使徒言行録10章30節〜35節
※感染症対策をした上で、礼拝を実施しています。

〇主日礼拝 10時30分〜 ※創立記念礼拝
前 奏
招 詞 詩編95篇1節〜3節
讃 栄 24
主の祈
讃美歌 21−7
祈 り
讃美歌 21−205
聖 書 (新約聖書)マルコによる福音書9章1節〜8節
    (旧約聖書)イザヤ書6章1節〜8節
説 教 「主の栄光を仰ぎ見る」須賀 工牧師
祈 り
讃美歌 21−390
使徒信条
献 金 21−65−1
頌 栄 21−29
祝 祷
後 奏
※感染症対策をした上で、会衆を入れた礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:29| 日記