2020年08月29日

2020年9月6日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マタイによる福音書7章7節〜11節
説教:「全能の父なる神」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:マルコによる福音書10章23節〜31節
説教:「不可能の可能性」須賀 工牧師
礼拝後、五分の集い、信仰の学びを行います。

感染症予防対策をした上で、礼拝を実施しています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:14| 日記

2020年8月30日 主日礼拝説教「天に富を積む」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書10章17節〜22節

 今朝、私達に、与えられた御言葉は、マルコによる福音書10章17節〜22節の御言葉であります。17節の御言葉をお読みします。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか』」。
 ここで、まず、大切なことは、主イエス・キリストが、「旅に出ようとされた」ということであります。「旅に出る」という言葉。これは、決して、今、はやりの「Go to トラベル」という意味ではありません。
 「旅に出る」という言葉は、「道に出る」という意味です。口語訳聖書では、そのように訳していました。その訳の方が、原文に近いです。つまり、主イエス・キリストは、ただ、旅に出たわけではないのです。敷かれている道を歩み出した、ということであります。 それでは、この道は、どこに、繋がっているのでしょうか。それが、十字架の死と復活であります。つまり、今朝の御言葉は、十字架に繋がる道の上で、語られた。そのような御言葉なのであります。ここでは、まず、そのことを踏まえておくことが大切なのであります。
 さて、そのような、歩みの中で、一人の人に出会います。この人は、このように語ります。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。
 この人は、ひざまずいて、このように、問いかけます。そこに、この人の真剣な思いが、込められている。そのように言えるでしょう。
 そもそも、「永遠の命」とは、何でしょうか。それは、肉体が、永続することではありません。「永遠」とは、神様御自身を表しています。つまり、肉体の死を越えて、神様と共の生きる。そのような命のことです。もっと短絡的に申し上げるならば、「死を越えるほどの救い」とも言えるかもしれません。
 そのような、測り知ることのできない救いを求めて、この人は、主イエス・キリストの元に訪れたのであります。但し、ここで、大事なことがあります。この人は、このように、ここで、言うのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいか」と。この人は、「永遠の命」あるいは、「神様の救い」は、自分が、何かをすれば、得られるものだと、考えたわけなのであります。
 恐らく、この人は、神様の救いを得るために、これまで、一生懸命、聖書の教えに、生きてきたのかもしれません。しかし、自分が、本当に救われているのか。それが、実感できなかったのだろうと思うのです。自分は、本当に、死を越えるほどの救いを、得られているのか。こんなに、頑張って生きているのに、それが、分からない。だから、善い行いを教えてほしい。どのような、善い行いをすれば、「永遠の命」が、「神様の救い」が、得られるのだろうか。それを確信できるのか。善い先生に、教えてほしい。そのような、この人の真剣な気持ちが、ここで強く表されているのであります。
 しかし、これに対して、主イエス・キリストは、次のように、答えます。18節から20節をお読みします。「『なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ』。すると彼は、『先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました』と言った」。
 ここで、主イエス・キリストは、大切なことを、この人に示しています。この人は、ここで、善い行いを求めています。善い導き手を求めています。しかし、主イエス・キリストは、次のように、言うのです。「神だけが善い御方だ」と。
 恐らく、彼は、人間だけを見ていたのかもしれません。大事なことは、神様を見上げることなのだ、ということです。なぜなら、神様の救いは、自分の力で、得られるものではないからであります。ただ、神様を見上げ、神様に思いを向け直していく時、そこで、神様によって、その救いは、与えられるものなのだ、ということが、ここで、強く示されているのであります。言い方を変えて申し上げるならば、あなたを救いへと導く、真の善い導き手は、神様しかいないのだ、ということなのであります。それが、ここで強調されているのです。
 主イエス・キリストは、ここで、十戒を示されました。正確に言えば、十戒の後半部分を示されたことになります。十戒の後半部分は、主に、人間関係における戒めです。前半部分は、神様と人との関係を戒めています。なぜ、後半部分だけなのでしょうか。
 恐らく、主イエス・キリストは、この人が、神様を、見上げていない。そのことをよくご存じなのではないでしょうか。だから、敢えて、前半部分ではなく、人間関係について戒める、後半部分だけを示されたのではないでしょうか。あなたのしていることは、後半部分だけではないか。神様との関係が、忘れられていないか?そのように、問われているようにも思うのであります。十戒の後半部分を知っているだろ?それでも、まだ、救いが分からないのか。ならば、十戒全体を本当に、理解していると言えるのか?そのような問いかけが、ここで強くなされているのであります。
 そもそも、この人間関係の戒めも、神様の救いの中でこそ、はじめて本当に意味を持つのであります。神様に愛されている、救われている。その恵みの中で、健全な人間関係が生まれてくるのであります。神様との健全な関係があるからこそ、初めて、この行いに生きられるのであります。前半部分の戒めがあるからこそ、後半に生きられるのであります。その意味で、この人は、善い行いに生きているようで、神様との関係を失っている以上、真の善い行いには生きていなかった、ということであります。だから、救いが見えないのです。
 しかし、この人は、それを理解していないのであります。それは、既に、自分でしてきたことだと思っている。自分がやってきたことだと。だけど、救いが見えない。それ以上の善いことを教えてほしい。そのように食い下がるのであります。
 そのような、彼に対して、語られた言葉が、20節から21節の御言葉であります。改めてお読みします。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』」。
 これを、このまま読むならば、慈善活動を行うことが、奨められているように思います。自分の財産を、貧しい人に施すようにと言われているからです。
 そして、私達は、このように思うのであります。財産を捨てることは、そんなに容易なことではないと。全てを放棄することなど到底出来ない。そのように思うこともあるのです。
 しかし、ここで、主イエス・キリストは、慈善活動を行うことが、永遠の命を受け継ぐ道だと、そのように、仰せになっているのでしょうか。あるいは、財産を放棄することが、救いの道であると言っているのでしょうか。もし、そうであるならば、結局、主イエス・キリストも、人間の行為を、重んじていることになるのではないでしょうか。
 ここで、大事なことは、財産を放棄することではありません。慈善活動をすることではありません。ここで大事なことは、そもそも「神様の救いとは何か」ということであります。それは、何かを、沢山もっていれば得られるものなのでしょうか。財産だけではありません。知識や知恵や経験や善行もです。そのようなものを沢山、積み上げることで、永遠の命は得られるのか、ということであります。
 そうではないと思います。ここで言われていることは、「永遠の命」を受け継ぐために、必要なことは、何も持たないことなのだ、ということなのであります。言い方を変えるならば、何も持っていなくても良い、ということであります。
 なぜでしょうか。神様の救いは、一方的に、無償で与えられる。そのような恵みだからであります。そこに、私達は、自分の生活や存在の全てを委ねたらよいのであります。
 このように、「永遠の命」は、神様の一方的な恵みによって与えられるものなのであります。それでは、「天に富を積む」という事は、どういう意味でしょうか。この「富」という言葉は、「恵み」という意味もあります。
 つまり、何も持たなくて良いのです。何かを成し遂げる必要も無いのです。無力で、無能で、無知で良いのです。ただ、神様の恵みだけを受けて、その恵みに生かされていることが大切なのであります。つまり、神様の恵みに寄りすがり、神様の恵みを積んで生活をすることが大事なのであります。その時、永遠の命の本当の喜びが、分かってくるのでありましょう。
 そして、最後に、主イエス・キリストは、「私に従いなさい」と言われます。これが一番大切です。ここにいるのは、何も分かっていない人です。信仰について、救いについても、何も理解していない人です。その人を、深く見つめ、慈しみをもって、従うようにと、奨められます。
 なぜでしょうか。主イエス・キリストに従って行く、その道の先に、彼の求めている本当の救いがあるからであります。「永遠の命」があるからであります。何も持たずに、ただ、主にしたがって良いのです。その先に、十字架の死と復活がある。そこに、私達の赦しと永遠の命がある。その幸いが、ここから示されているのです。
 この人は、悲しみながら、主イエス・キリストのもとを去って行きます。沢山の財産があったからであると言われています。主イエス・キリストは、決して、財産を放棄しなさい、ということを、ここで語られたわけではありません。
 しかし、この人は、そのように、受け取ったのであります。その言葉の奥にあるメッセージに耳を傾けることができなかった。なぜでしょうか。彼は、自分が、積み上げたものに固執していたからであります。自分の行いに固執してきたからであります。だから、正しく、イエスの言葉に耳を傾けることができなかった。
 それでは、彼は、救われないのでしょうか。私は、そのようには思いません。彼を見つめて、慈しみをもって語られた主は、同じように、立ち去る彼の背中を、そのような愛情をもって、見つめておられただろうと思います。信仰が分からず、救いが分からず、教会を去って行く仲間や家族がいます。あるいは、教会にいても、神様の救いがわからず、痛みを負いながら、ここに座る人もいるかもしれない。納得が出来ない、という気持ちで、ここにいる人もいるかもしれない。
 しかし、その一人一人も、決して、見捨てられているわけではないでありましょう。その去りゆく背中を、主は、慈しみの目をもって、見つめてくださる。
 そして、あなたのために、私は、この十字架の道に行くのだと。主は語り続けているのではないかと思うのです。あなたの求めている道を、私が、あなたの代わりに行くのだと。 次週の話になりますが、この人は、自分の積み上げたものに固執しました。だから、救いがわからなくなった。そうであるならば、この人は、救われないのか。それは違います。主イエス・キリストは、この後で、仰せになります。「人に出来ないことでも、神にはできるのだ」と。この人も又、神様の救いの光の中を歩む者として、強く捉えられているのであります。
 私達もまた、同じであります。道を逸れてしまうことがある。救いが見えにくくなることがある。その時、自分自身を振り返るならば、自分の積み上げたものに縛られている、そのような自分自身を見るかも知れません。
 しかし、主は、今、私達を、神様のもとへと視線を変えるようにと、促しておられるのではないでしょうか。その招きに、私達も応えて、日々、新たに、恵みを積み上げていきながら、永遠の命の喜びに生きるものでありたいと思います。

天の神様、新しい御言葉の恵みに心より感謝を申し上げます。あなたから多くの恵みを頂いて、今を生かされていながらも、私達は、私達だけしか見ることが出来ません。そのような私達を、改めて、慈しみをもって見つめて下さり、あなたの御子イエス・キリストの救いに新たに生きるものとしてください。どうか、日々、私達に真の恵みを与え続けて下さり、私達の行いではなく、あなたの恵みによって、永遠の命を頂いている幸いを信じるものとしてください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:10| 日記

2020年08月21日

2020年8月30日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「天に富を積む」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書10章17節〜22節

感染症予防対策をした礼拝です。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:18| 日記