2020年10月30日

2020年11月8日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「聖霊を信ず」
聖書:ヨハネによる福音書14章15節〜17節
*礼拝後、子どもたちの祝福を祈ります。

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「主の権威とは」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書11章27節〜33節、エレミヤ書23章33節〜40節
*礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

感染症対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:59| 日記

2020年11月1日 主日礼拝説教「新たに生かされる」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書11章20節〜26節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書11章20節〜26節の御言葉であります。20節の御言葉を、改めてお読みいたします。「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。『先生、御覧ください。あんたが呪われたいちじくの木が、枯れています』」。
「あのいちじくの木」とは、どの「いちじくの木」のことでしょうか。この「いちじくの木」については、既に、マルコによる福音書11章12節以下に示されています。
この「いちじくの木」は、遠くから見れば、立派な葉っぱを付けていました。しかし、近くで見ると、実がなっていなかった。それ故に、主イエス・キリストによって、厳しく裁かれた「いちじくの木」であります。
その外見は、とても素晴らしいのです。立派に見えるのです。しかし、その中身は、何もない。そこに、主を喜ばすものがなにもない。主イエス・キリストは、ここで、この「いちじくの木」を通して、当時のエルサレム神殿の現実を見つめているのであります。いや、そこで、主イエス・キリストは、私達人間の罪の現実を見つめているのだと言えるかもしれません。
私達人間は、罪から逃れることはできません。そして、誰も、主イエス・キリストから、自分の罪を覆い隠すことはできません。どれだけ、綺麗に飾り立てていても、どれだけ、正しさを纏っていても、主イエス・キリストは、その内側にある、人間の本質―罪や穢れ―を見逃すことはない。そして、それ故に、主の裁きから逃れることはできない。滅びから逃れることはできないのであります。
私達も又、主イエス・キリストの御前にあって、この「いちじくの木」と同じように、存在の根本から枯れていくしかないのかもしれません。あるいは、存在が滅びるしか道はないのであります。その厳しい現実こそが、ここで、強く指し示されているのであります。
それでは、私達には、本当に、救われる余地はないのでしょうか。はっきりと申し上げます。私達の側にはありません。しかし、神様には、それが出来る。神様だけが、あなたを救うことが出来る。私達にとって不可能であることが、神様には可能なのであります。カール・バルトの言葉を引用するならば、「不可能の可能性」ということなのであります。
 実は、この大きな幸いこそが、今朝の御言葉の重要なポイントなのであります。22節の御言葉を、改めてお読みします。「そこで、イエスは言われた。『神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、〈立ち上がって、海に飛び込め〉と言い、少しでも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる』」。
 「少しでも疑わず、信じて祈れば、何でも手に入る」と、ここでは読めるかもしれません。勿論、そのような意味に読んでも、大きな間違いではありません。しかし、そのような意味でしか読めないのであるならば、この言葉には、魔術的な要素も含んでしまうかもしれません。
 先ほども、お伝えをしましたように、ここで大切なことは、この文脈が、私達の「罪の赦し」や「神様の救い」を主題としている、ということです。即ち、私達の救いが、どのようにして得られるのか。この視点なくして、この文脈は、本当の意味で、正しく聞くことはできないのであります。つまり、ここで、信じて、祈って与えられるものとは、私達が願っていること以上のこと、それ即ち、「神様の罪からの救い」そのものなのであります。
 この大きな救いをいただいてこそ、初めて、日々の生活の必要に思いを向けることができるのではないでしょうか。何よりもまず、神様が、罪から救ってくださる。救いを与えて下さる。神様が、私達を、罪から解放し、神様の子どものように受け止めて下さっている。この深い恵みが、まず、与えられるからこそ、日々の糧や自分の思いを信頼して願うことができるのではないかと思うのです。この順序が、逆になってしまうと、大変です。ただただ、自分の自己満足だけの信仰になってしまうのであります。
 だからこそ、大切なことは、何よりもまず、神様を通して、罪の赦しを願う。神様の御支配に入れて頂くことを願う。その恵みを味わってこそ、生活の必要を祈ることができるのであります。
さて、私達人間は、私達自身の力で、神様の救いを勝ち取ることは不可能なのであります。それは正に、山を動かすほどに不可能なのであります。いや、もしかすると、山を動かすこと以上に不可能であると言えるかもしれません。そのような人間の「不可能性」が、ここでまず示されているのであります。
しかし、私達が、その不可能性に立って、それでも神様を信じ、神様に向きを変え、ただ、一心に、神様に思いを向け直していく時。その時、実は、もう、神様によって、救いが与えられている。そのような自分を見つめることができるのだ、ということなのであります。正に、私達を苦しめる障害物のような山は、もう既に、神様によって、取り去られている。そのことを見出すことができる。
 その意味で、ここで言われている「祈り」とは、正に、既に、この自分が、神様によって救われていることを見出すための、ある意味で、悔い改めの行為なのであります。悔い改めることは、決して、反省をすることではありません。涙を流して、自分の悪い行いを数えることではありません。救われていることを見出し、喜びをもって、神に向きを変えることなのであります。それが、ここで言われていることの祈りの意味なのであります。
つまり、「祈る」から救われるわけではない。「祈る」から神様が、聞いてくださるのではないのです。私達が祈るのは、私達が救いを必要とするからであり、私達が、そこで既に救いを見出しているからなのであります。
繰り返しになりますが、私達が、私達の力で、神様の救いを得ることはできません。しかし、神様を信頼して、神様の方へと向きを変えていく時、そこで、既に救われている自分と出会うことができるのです。
ここで記されている「疑わず」という言葉は、「二心を持たない」という意味でもあります。日々の御言葉を通して、神様から一方的に恵みをいただいても、救われた実感が、得られないことがあるかもしれません。自分も何かをしなければいけないのではないか。自分には何が足りないのだろうか。このまま、本当に救われていくのだろうか。そのように、色々な思いや心に支配されてしまうこともあるかもしれません。
しかし、その必要はないのです。何もできなくてもよいのです。不可能性の山や壁の前に立っていて良いのであります。頑張って、強がらなくて良いのです。良い子のふりをする必要はないのです。ただ、神様の方を、ありのままの姿で向けば良いのです。その時、その所で、不可能を可能へと新たに造りかえる、神様がいてくださる。その深い幸いこそが、ここで強く指し示されているのであります。
自分は、本当の救われているのだろうか。赦されているのだろうか。そのように、自分の中で、不安になることがある。どれだけ祈っても、赦されている実感がわかない。救いが分からない。そのような時は、誰にでも起こりえることです。
 そして、そのような時だからこそ、人間は、同時に、「誰かのことを赦せない」ということも経験するかもしれません。愛せないのは、愛された経験がないから。赦せないのは、赦されたことを実感できないから。経験や実感がないと、そのように生きられない、ということは、誰にでも起こりえることです。逆に言うならば、自分が、自分を恨む人間を、赦せないのは、そこで、あなたが赦されていることを見失っているからであるとも言えるかもしれません。そのような心は、私自身の内にも、時にあるものであります。
だから、大切なことは、自分が、赦されている経験や実感を、もう一度取り戻すことであります。
聖書によれば、「誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」とあります。主の祈りにも、似ている言葉があります。「我らが罪を赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と。  
私達は、このような言葉に躓きを覚えます。自分は、恨んでいる人を赦せない。だから、自分は本当に赦されるのだろうかと。逆のパターンもあるかもしれません。あの人は、この私を赦してくれない。あの人は、赦されないのではないかと。このようなパターンもあるかもしれません。
しかし、どうでしょうか、私達は、赦しを得るために、赦しを祈るのでしょうか。もし、そうであるならば、それは、自分の利益のためだけに、赦しを祈ることになります。それは、本当に、その人を赦したことにはなりません。赦しを得るために、利用しているに過ぎないのです。
では、ここで大事なことは何でしょうか。今朝の御言葉を振り返っていけば、答えは簡単です。「まず、立って祈る」のです。「祈り」をするのです。先ほども申し上げましたが、「祈る」とは、「悔い改め」であります。自分が、そこで赦されていることを見出すことです。既に救われていることを見つけることです。何よりもまず、自分が赦されている。愛されている。救われている。その深い恵みの中で、目の前の隣人と向き合うのです。自分を赦して下さった神様の恵みの中で、その恵みを味わいながら、その人の赦しを願うのであります。
自分の力では、到底、救われることはできないのです。呪われ、滅ぼされて、当然の自分が、既に、救いの中に入れられているのです。こんな自分ですら赦されている。この深い恵みの中で、私達は、初めて、隣人のために祈ることができる。そして、その深い恵みの中でこそ、隣人と向き合って、赦しを願うことへと歩み出すことができる。その時、私達は、改めて、自分が、赦されていることの、神様の豊かな憐れみを、ますます、味わい知る者とされるのであります。「我らが罪を赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」というのは、赦された恵みの中で、他者を赦す時、もう一度、この自分が赦されていることを、深く味わう者としてください、という意味の祈りなのであります。
何度も繰り返しになりますが、人間は、自分の力で、罪から逃れることはできません。それは、山を動かすことよりも難しいことかもしれない。
しかし、神様は、それをして下さる。私達を新たに生かして下さる。神様は、どのようにして、それを成し遂げられるのでしょうか。
主イエス・キリストは、今、エルサレムに向かって歩み出します。そこには、一体、何があるのでしょうか。十字架の死と復活があるのです。私達の裁きを、私達の呪いを、私達の罪を、キリストご自身が背負ってくださるのです。そのことによって、私達が救われるのです。新たにされるのです。
私達が、一心に祈り、向き合を変えて、見える先には、キリストの十字架の救いがある。私達は、自分たちが願うよりも、先に、既に、この救いの光の中に入れられていることを知ることができる。ここまでして、私達のために働かれる神様が、今、私達の神様でいてくださるのです。その深い恵みの中でこそ、私達は、私達の必要のために祈り、隣人のために祈ることができるのです。この計り知れない、神様の大きな恵みが、ここで強く表されているのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:55| 日記

2020年10月23日

2020年11月1日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マタイによる福音書25章1節〜13節
説教:「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審き」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:マルコによる福音書11章20節〜26節
   エレミヤ書18章1節〜6節
説教:「新たに生かされる」須賀 工牧師

礼拝後、五分の集い、信仰の学びがあります。

感染症予防対策を行って礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:09| 日記