2020年11月29日

2020年11月29日 主日礼拝説教「主イエスはあなたの救い主」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書4章27節〜42節

 本日からアドヴェントに入ります。アドヴェントとは、待降節とも言い、クリスマスまでの4週間を指します。この期間、私たちは、イエス・キリストがこの世に誕生されたクリスマスを覚えて、また、来るキリストの再臨の日を覚えて備えの時を過ごすのです。今朝は、その待降節第1主日の礼拝を守っております。
 さて、アドヴェントに入るということは、教会の暦では、新しい年が始まることを意味します。つまり、今朝はキリスト教の元旦でもあるのです。そのことを考えますと、先週は大晦日でありました。教会の暦では、先週は終末主日と呼ばれ、世の終わりの時を覚える主日であると定められています。しかし、この日は、終末主日だけではなく、もう一つの祝日もかねられているのです。それは、収穫感謝の日です。英語ではThanks giving dayと呼ばれる祭日です。その起源はもちろんキリスト教にあるのですが、今や、経済と結びついて全世界的なお祭りとなっています。例えば、最近は日本でもショッピングセンターなどに行きますと、多くの店がブラックフライデーと銘打った大々的なセールをしています。これは、収穫感謝の日の翌日からクリスマスプレゼントを購入するためにセールが行われるというアメリカの習慣に由来しています。アメリカでは、収穫感謝の日は、家族が帰省し食卓を囲み、その後はプレゼントを買いに出かけ、クリスマスツリーを飾ってツリーの下にプレゼントを置いてアドヴェントの4週間、クリスマスの日を楽しみに待つのです。
 だれもが嬉しい気持ちになる季節でありますが、すっかり商業ベースにのせられて世俗的なお祭りと化してしまいました。しかし、2000年の間、教会は、その期間の本来の意味を忘れることなく大切に過ごしてきた訳です。実は、本日与えられました御言葉、ヨハネによる福音書4:27-42は、伝統的に収穫感謝の日に礼拝で読まれてきた御言葉でありました。特に、ドイツルター派の教会では、4:31-38のイエス様と弟子たちの対話が読まれてきたそうです。主イエスが、種を蒔く人と刈り入れる人のたとえを用いて弟子たちに教えられた箇所です。私の下の娘の名前は「みのり」と言いますが、9月の末、実りの秋に生まれたことも名前の理由の一つであります。名前にふさわしく、お米や野菜や果物をよく食べるこどもです。秋の収穫、農作物の豊かな「実り」を喜び神様に感謝する、これが本来の収穫感謝の日の意味であります。そして、38節の主イエスの言葉にも、この「実り」という言葉が出てくるのです。「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
 「実りにあずかっている」この言葉をギリシア語を辞書で引きますと、「その骨折りの結果を享受する」とでてきます。これはここで語られるみ言葉の意味そのものでありましょう。しかし、もう辞書にはもう一つこんな意味が記載されていました。「入る、入り込む」「実りの中に入り込む」「実りの中に入れられている」収穫感謝礼拝では、一般的に果物や野菜を一人ひとりが持ち寄ってきて礼拝を守ります。神様から頂いた実りに対する感謝の「しるし」として収穫の一部をお献げするのです。また、これは普段の礼拝で私たちが献げる献金にも通じる心でありましょう。神様から頂いた恵への感謝の応答として自らのお金を捧げていく。ここでふと今日与えられた「あなたがたは実りの中へ入れられている」という御言葉に耳を傾ける時、私たちは信仰生活の様々な場面で、自分自身を献げていくその心とは何であるかが、今一度示されてくるのです。
 主イエスは38節においてはっきりと、実りの喜びとは、他の人々の労苦の上にあるのだと言われます。これは、自分に自信がある人、実りある人生とは、自分の努力によるものだと誇っている人には耳の痛い言葉かもしれません。しかし、「他の人々の労苦によって」ということを言い換えるならば、それは、「たとえ自分で収穫していなくても」ということなのです。頑張る必要はない、無理に自分を誇らなくてもいい、働きたいけど働けないもどかしさを感じなくても大丈夫、それでも私たちは神の畑の実りにあずかることがゆるされている、実りの喜びの中に招かれているのです。この神様の招きの深さ豊かさに本当に心を打たれます。
 私たちは、神様の招きがあって初めて、人生の実りに与り、その喜びの中に生きることがゆるされていくのです。それは、霊の生活においても肉の生活においても同じです。主イエスが与えてくださる生きる水で渇きを潤し、命のパンで飢えを満たす。私たちは、その恵で満ち溢れた中から、感謝の心があふれ出し、表現されていくのです。信仰生活において、私たちが自らを献げることとは、まず、主イエス・キリストご自身が、私たちを実りある人生に引き入れてくださっている、その喜びから出てくるものであるのです。
 ところで、この38節の御言葉「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」とは、そもそも、主イエスが弟子たちに語られた言葉でありました。つまり、弟子たちもまた、他の人々の労苦の実りにあずかる者たちであるのです。本日の箇所は、4章1節からの、サマリア人の女性と主イエスの物語の続きでありました。イエス様は、敵意を向けてくるユダヤ人から逃れるため、弟子たちと一緒にガリラヤへと旅をしていました。そして一行は、サマリアのシカルという村に立ち寄り一休みすることにしたのです。弟子たちは町へ買い物に行き、イエス様は、村のはずれの井戸端に腰掛けて、旅の疲れを癒しておられました。暑さの中で長旅を続けて来て、喉が渇いていました。しかし、深い井戸から水を汲む道具を持っておられませんでした。照りつける太陽の下でじっと耐えながら待っていたのです。そこに、一人の女性が水汲みにやってきました。聖書で、「サマリアの女」と呼ばれている人です。主イエスは彼女を見つけて「水を飲ませてください。」とお願いしたのでした。彼女は、周囲から蔑まれ、様々なしがらみに苦しんでいる人でありました。人目を避けるようにやってきた町外れのヤコブの井戸で、この人は主イエスとの出会いを果たすのです。彼女は主イエスと言葉を交すうちに、生きた水、命の水を求めるようになりました。まさに一人の人が主イエス・キリストによって救いの中に入れられていく、そのような出来事が起こったわけです。
 ちょうど主イエスと女性の話が終わろうとする頃、町へ食べ物を買いに出かけていた弟子たちが戻ってきます。ここで、興味深いことに、聖書はこう伝えます。弟子たちは「イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか。」とか、「何をこの人と話しておられるのですか。」と言う者はいなかった(27節)。」「何か御用ですか。」というのは、サマリアの女に対してでありましょう。そして、「何をこの人(直訳では彼女)と話しておられるのですか。」はイエス様への問いかけです。弟子たちは、そのどちらの問いかけもしなかった。これが聖書には、わざわざ詳細に書かれている。つまりこれは、弟子たちが、サマリアの女の救いの出来事に無関心であったということなのです。
 サマリアの女は、もう必要なくなった水がめをそこに置き、町へ戻りました。人々に主イエスのことを知らせに行くためです。嫌われ者で、人目を避けるような生き方をしてきた人です。それが、まるで水を得た魚のごとく生き生きと目を輝かせて主イエスのことを知らせに町へと急いで戻って行ったのです。
 イエス様は、きっと彼女の嬉しそうに町へ駆け出していく後ろ姿を見守っておられたことでしょう。そして、30節に「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」と、あるようにサマリアの女の言葉を聞いて、すぐに大勢の人が主の所へやって来たのです。シカルの町の救いは近い、神の畑で彼らは今か今かと刈り取られるのを待ちわびているのだ。会話を交すことで、サマリアの女に御父の御心が伝わった、それがたくさんの人々に広まろうとしている。この時の、主イエスの喜びは深かったと私は思います。
 しかし、主の一番側にいた弟子たちにはその喜びが伝わっていなかった、主の救いが今まさに目の前で起こっているにもかかわらず、無関心であったのです。弟子たちの目線の先には、町で調達してきたばかりの食べ物がありました。主イエスに美味しい物を召し上がっていただきたい。そのことばかりに気を取られていました。しかし、そのような弟子たちに主イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある(32節)」と言います。それを聞いた弟子たちは不思議に思い動揺します。主は、一体何の食べ物の話をしているのだろう。私たちが買ってきたもの以外にどこかに食べ物があるのだろうかと、互いに話し合うのです。
 ここで、今一度心にとめておきたいのは、主イエスもお腹が空くということです。きっと、弟子たちもそして主も長旅で空腹だったに違いありません。実際に、主は、井戸端で喉の渇きを覚えられていました。だからサマリアの女に「水を飲ませてください。」と声をかけたのです。主イエスは、神様の御子でありながら、私たちの同じ肉体的な弱さをも知っておられるお方でありました。たくさん歩いたら疲れ、お腹も空き、喉も渇きました。ヨハネによる福音書19:28以下は、主の十字架の上での様子を伝えています。ここで主は、サマリアの女に伝えたのと同じ「渇く」という言葉を言われました。
 本日の御言葉4:34で主は弟子たちに、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と言われます。そして、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35節)。」とも言われるのです。弟子たちが目を上げた先、主イエスの目線の先には、遠くからこちらへやってくる大勢の人々がいました。主ご自身が、サマリアの女を通して、主の元へと招いた人々です。皆、救い主に一目会おうと急いでやってきているのです。主イエスは、その様子をじっと見つめおられました。そして、いつかこの人々のために、十字架の上で、御父の御心が「成し遂げられた」と渇きのうちに叫ぶ日がくるだろうと覚悟しておられたに違いないのです。
 主イエスはその後、このシカルの町に2日間滞在した、と聖書は伝えます。その間、人々は直接主イエスと出会い言葉を交わし交わりを持ちました。そしてシカルを去った後も、主イエスの旅は続きます。その旅路の先には十字架があるのです。シカルの町の人々は、後に主の十字架の出来事が起きた時、これをどのように受け止めたのでしょう。主イエスが、御父の御心のうちに、救いの業を成し遂げてくださったと知ってどのように思ったのでしょう。
 「自分で聞いて、この方が(つまりイエス様が)本当に世の救い主であると分かった(42節)。」これは、もちろん2日間の主との交わりの中でのシカルの人々の言葉であります。しかし、同時に、これは後代のサマリア人たちの信仰告白でもあると、私は思うのです。十字架に上げられた主を見上げ、シカルの人々は、主イエス・キリストこと真の救い主であると告白するのです。あの日、主が私たちの村に2日間滞在して教えてくださった神の御心が今ここに成し遂げられたのだと確信するのです。
 彼らは、主イエスこそ「世の救い主」であると告白します。主イエス・キリストは、ユダヤ人の救い主でもなく、サマリア人の救い主でもなく、この世の救い主であった。世界の全ての人の救い主であった。そしてこの私の救い主であった。「神がその独り子を与えるほどにこの世を愛された」という愛が、私は今よく分かった。そう確信したのです。
 これから約4週間私たちは、アドヴェントの時を過ごしてまいります。御子は何のためにこの世にお生まれになったのでしょう。私たちは、その意味をしっかり噛みしめつつ、喜びのうちに心の備えをなしていくものでありたいと願います。


祈り
天の父なる神様、御言葉の恵みに感謝いたします。主イエスが私たちを神の畑の実りとしてくださり、また、その刈り入れの働き手としてくださっている恵みに感謝申し上げます。自分の思いに支配されることなく、ただひたすらに御心に仕える者としてください。御子イエス・キリストが私たちのためにその命を捧げ、あなたの愛を示してくださったことにいつも立ち帰り感謝を持って、自らを喜びのうちに献げる人生を歩ませてください。アドヴェントの時、私のために救い主がこの世に来てくださったことを覚えて心の備えをすることができますように、また、その福音がすべての人にあまねく告げ知らされますように。そのために、この石山教会を良き伝道の器として聖めて用いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:51| 日記

2020年11月28日

2020年11月29日 教会学校中止の件

新型コロナ・ウィルス感染症の影響を受けまして、11月29日の教会学校の礼拝を中止とします。ご了承ください。12月6日の礼拝は実施する方向で検討していますが、引き続き休会となる可能性もあります。ご不明な点は、石山教会までお問合せください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:06| 日記

2020年12月6日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「ヨセフへの御告げ」
聖書:マタイによる福音書1章18節〜25節a
*礼拝後、分級があります。
*感染症拡大等による、急な休会もあります。ご了承ください。

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「復活」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書12章18節〜27節
*礼拝後の行事は中止しています。

感染症対策をした上での礼拝です。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:03| 日記