2020年12月31日

2020年1月10日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「天にましますわれらの父よ」
聖書:マタイによる福音書6章5節〜13節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「耐え忍ぶ者は救われる」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書13章1節〜13節

感染症予防をした上での礼拝です。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:02| 日記

2021年1月3日 主日礼拝説教「私達を知っている神」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書12章38節〜44節

 2021年、最初の主日礼拝を迎えました。今年が、どのような年になるのか。それは、誰にも分かりません。しかし、どのような、年になろうとも、変わることのない、主の恵みを憶えて、祈りをもって、前へ、歩み続けたいと思います。
 私達にとって、人生における真の慰めとは、何でしょうか。それは、「生きるにしても、死ぬにしても」「食べるにしても、食べないにしても」「起きるにしても、寝るにしても」、「良い時でも、悪い時でも」、私達が、「主のものである」ということであります。言い方を変えるならば、この私の人生が、主のものであるということ。これが、真の慰めなのであります。
 どれだけ、経済的に豊かであっても。どれだけ、人から評価を得ていても。どれだけ、この世から称賛を得ていたとしても。神様が共にいない人生に、本当の幸いはないのであります。
 逆に、この人生が、たとえ、苦難に満ちた人生であろうとも。この人生が、たとえ、何も利益のうまない人生であろうとも。この人生が、たとえ、人から評価を得られないような人生であろうとも。何も成果もない、何も功績もない、誰にも尊重されない人生であったとしても。それでも、神様が、「あなたは、わたしのものだ」「あなたの人生の主人なのだ」と言って下さる。この私の存在や人生に価値を生み出して下さる。それが、人生における、真の慰めなのであります。
 それ故に、私達は、人の評価や成果に、縛られる必要はありません。結果が出せなくても、期待に応えられなくても、それでも、この私が、主のものとされている。主に価値を生み出して頂いている。それで、十分なのであります。この節目の時、その幸いを、深く噛み締めながら、今朝の御言葉に聴いてまいりたいと思います。
 今朝の御言葉によれば、当時の「律法学者たち」は、「人の評価・評判」を気にして生きていたようです。いや、むしろ、人に評価され、称賛され、褒められ、尊敬されることを求めていたようであります。それは、言い方を変えるならば、彼らの語る御言葉も、祈りも、慈善活動も、自分たちの称賛を得るための「道具」でしかなかった、ということになります。
 彼らは、人からの評価を気にします。人からの評価を得るためならば、何でもよいことをします。逆に、人からの評価を得るためであるならば、人の「あらさがし」をし、批判し、攻撃もします。彼らが、主イエス・キリストに対して、執拗に、攻撃を加えたのは、そのためでありましょう。即ち、自分たちの株を上げるために他なりません。
 しかし、主イエス・キリストは、この世で、成果や評価を求める、その彼らの姿に対して「裁きの御言葉」を語ります。なぜでしょうか。彼らが、「人」しか見ていないからです。あるいは、「自分自身」しか見ていないからであります。神の方を向いているようで、自分に心を向けている。主イエス・キリストは、その彼らの本質を見抜かれるのであります。
彼らは、この世においては、人一倍、称賛されるかもしれません。しかし、神様を見ていない。神様を思っていない。神様を愛していない。自分の人生を主のものとするのではなく、自分のものにしている。神を輝かせるべき人生で、自分が輝くことだけ求めている。そのためであれば、神すら、信仰すらも、自分を輝かせるための道具にしてしまっている。それ故に、神様に対しては、人一倍、重い裁きを受けることになる。その人生には、本当の慰めがない。そのように、主イエス・キリストは、厳しく、仰せになるのであります。
この厳しい御言葉は、「律法学者」に向けて語られた御言葉ではありません。この御言葉は、その「教えの中」で語られたと記されています。つまり、この御言葉は、ここで、喜んで御言葉に聴いている、会衆に向けて語られているのであります。それは、言い換えるならば、今、私達に向けても語られている。そういう御言葉なのであります。つまり、私達の事柄として、この御言葉は、重く、受け止めていかなければいけないのであります。
さて、それに対して、「やもめの女性」は、どうでしょうか。彼女が、捧げた献金は、一日の労働賃金の約60分の1程度のものでありました。およそ150円程度の献金であります。
当時、賽銭箱の横には、祭司がいました。その祭司が、献金の額を記録し、大声で、会衆に報告をしていたとも言われています。お金持ちにとっては、気持ちの良い制度です。
しかし、貧しい者にとっては、自分の恥をさらけ出すようなものでありましょう。軽蔑されに行くようなものであります。この女性も恐らく、祭司たちや周りの人たちから、軽蔑の視線、冷たい視線を向けられたであろうと思います。もし、この女性が、人の評価や評判を気にする人であるならば、恐らく、この場には来なかっただろうと思います。
つまり、この女性は、はなから、人の視線を気にしていなかった、ということが、ここで分かります。人からの評価とか、尊敬とか、そういうものを求めていたわけではない、ということも、ここで分かるのです。それは、少し、言い換えるならば、彼女は、人から出る何かではなく、他の何かに、強くとらえられていた、ということになるのであります。
彼女は、最愛の夫を亡くした「やもめ」です。恐らく、殆ど、財産を残さずに亡くなったのでありましょう。
いや、もしかすると、律法学者に食い物にされた被害者の一人かもしれない。当時、亡くなった夫の財産のほとんどが、律法学者の指導のもと、慈善献金として捧げられたと言われています。そうすることで、「やもめ」も「律法学者」も称賛を得ることができた、ということであります。つまり、この女性は、愛する夫を失っただけではない。愛する者が、残してくれたものまでも失ったのかもしれません。いずれにせよ、この女性には、今、何もない。何も残っていないのであります。その事実だけは変わりません。
しかし、そのような悲惨さの中で、彼女は、全財産を献金しました。なぜでしょうか。人生を諦めたのでしょうか。生きることを投げ出したのでしょうか。
もし、そうであるならば、この女性が、ここで、主イエス・キリストによって、取り上げられることはなかったかもしれません。ここで、主イエス・キリストは、弟子たちを呼びよせて、弟子たちに、この女性の姿を見せるのであります。
つまり、律法学者たちのような生き方では、決して、得ることのできない、本当の慰めが何であるか。信仰を通して、与えられる本当の幸いとは何か。そのことを、主イエス・キリストは、この女性の姿を通して、主の弟子たちに示された、ということになるのであります。
彼女は、全財産を献金しました。全財産を献金することが、重要なのでしょうか。収入の何パーセントをささげた、ということが重要なのでしょうか。もし、そうであるならば、律法学者と何も変わらないかもしれません。
しかし、主イエス・キリストは、この女性を取り上げ、主の弟子たちに対して、慰めの証し人として、この人を立てられたのであります。つまり、信仰者に与えられる、真の幸いが何であるか。そのことを、この女性を通して示されたのであります。
この女性は、大事なものを、沢山、なくしてきました。人の評価から言えば、決して幸いであるとは言えません。慰めがあるとは、到底、言えません。
しかし、その自分の人生に、残るものがあった。決して、奪えないものがあった。自分の人生において、残り続けるものがあった。そこに神様がいることを知ったのであります。この悲惨な現実の中で、全てを失い、貧しさの極みに立たされていく、その中で、それでも、神様だけは、この私を見ていてくださる。その幸いを知ったのであります。その慰めを知ったのであります。
人の評価や評判が悪くても、何も称賛や尊敬を得られなくても、たとえ、自分にできることが小さくても、それでも、神様だけが、この自分の痛みを知り、自分の弱さを知り、自分の貧しさを知り、それでも、この自分を見つめ続けてくださる。その幸いを知ったのであります。その慰めを知ったのであります。
つまり、彼女を強く捉えていたものとは、正に、絶対、断固として見捨てることのない、神様の眼差しだった、ということなのであります。
本当に、この私を支配しているのは、この悲惨な現実ではない。人々の軽蔑した視線ではない。人からの評価ではない。この私の全生涯と生活を支配しているのは、神様の慈しみに満ちた眼差ししかないのだと。ここで、この女性は、受け止めたのであります。そこに深い慰めがある。この悲惨さの中でも、それでも、私は、主の子どもとして数えられている。ここに慰めがある。
彼女にとって、自分の人生の主人は、もう神様しかいないのであります。だからこそ、神様に、全生活を委ねるようにして、自分の全てを捧げつくしたのであります。「神様に委ねる」ということは、この私の人生の主人として、神様を迎え入れる、ということ。そして、そこに真の平安と慰めがある。その大事なことを、主イエス・キリストは、この女性の姿を通して、強く指し示して下さるのであります。
主イエス・キリストは、このやもめが、レプトン銅貨二枚をささげる姿を、じっと見つめられます。その眼差しは、慈しみと、愛と恵に溢れた眼差しであっただろうと思います。それと同じ眼差しをもって、主は、今、私達の歩みを、私達の信仰と奉仕、そして、ささげものを見つめてくださいます。
その主イエス・キリストは、私達の罪を背負い、十字架に架けられ、身代わりとなって罪の赦しを実現してくださった、真の救い主です。その主イエス・キリストは、私達の行いを採点したり、ランク付けをしたりするようなお方ではありません。
十字架の死と復活を通して、罪人である、この私達を喜んで受け入れ、用いてくださる御方であります。人からどう見られていても、それでも、あなたには価値がある。それでも、あなたは大切な存在なのだ。十字架の主の眼差しは、そのような、恵みと救いに満ちた眼差しなのであります。
私達は、神様の目から見れば、小さなものであり、弱さに満ちて、不完全です。しかし、そのような、私達のために、御子を十字架に架け、罪を贖い、私達の内に、価値を生み出してくださいました。それが、私達の信じる、キリストの父なる神様なのであります。その慈しみに満ちた、神様の眼差しの中で、その恵みを憶えながら、私達の人生と生活とを、自分のものとするだけではなく、主のものとして捧げる。そのようなものでありたいと思うのです。
新しい年が始まりました。どのような一年になるかは、分かりません。苦しいこともあるかもしれません。失敗や間違いを犯すこともあるかもしれません。人の目から見れば、十分な成果や結果が残せない時もあるでしょう。
しかし、それでも、私達は、神様の恵みに満ちた眼差しの中に入れられています。誰もが、神様の眼差しの中に入れられています。そのことを深く、心に刻み付けて、自分に与えられた歩みを、お互いに認め合いながら、歩んで行くものでありたいと思うのです。

天の神様、新しい御言葉を、与えてくださり、また、私達を真の慰めへと導いてくださいました幸いに、深く、感謝を申し上げます。私達は、あなたの目には小さく、弱いものであります。しかし、それでも、私達を価値あるものとして受け止め、私達のなすことを、慈しみをもって見つめていてくださいます。その憐れみに、深く感謝を申し上げます。新しい年の歩みの中で、様々なことがあるでしょう。しかし、あなたは、私達の全てを知っていてくださる御方であります。どうか、私達の生活の主として、いつでも、私達と共に歩み、必要な恵みを、私達に備えてください。どうか、今、この時代、様々な不安が支配する世界の中で、あなただけが、私達の真の主として、私達の内に生きてください。そして、どうか、いつでも、その恵みを憶え、真の平安と慰めを得るものとしてください。全てを感謝し、全てを委ねて、このお祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 12:56| 日記

2020年12月26日

2021年1月3日 礼拝予告

〇教会学校 休会 *1月10日より再開

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「私達を知っている神」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書12章38節〜44節

感染症対策をした上での礼拝です。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:07| 日記