2020年12月26日

2020年12月27日 主日礼拝説教「帰りなさい。あなたは生きる。」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書4章43節〜54節

 本日与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書4:43-54であります。先週は、主イエス・キリストの御降誕を祝う礼拝を共に守りました。そして、今朝は2020年12月最後の主日の礼拝を守っております。振り返ってみますと、特にこの2020年は、誰もが忘れられない1年であったかと思います。ちょうど去年の今頃に確認された新型コロナウイルス(COVID-19)が世界中に感染拡大し、今なおその収束の兆しは見えません。私たちが今まで普通にしてきた「あたりまえの生活」が問い直された1年でした。去年の今頃、誰がこのような1年を想像していたことでしょう。また、来年のことを思いますと、今まで以上に見通しが立たない未来に、誰もが不安を覚えていると思います。
 私たちの石山教会にとっても、思い返すと本当に大変な1年でありました。政府の緊急事態宣言を受けてイースターは無会衆礼拝をするという決断をしました。そこからペンテコステ礼拝までは、皆さんに教会に集うことを自粛していただき、無会衆での礼拝をいたしました。また、会衆を入れての礼拝を再開しても暫くは、賛美歌は歌わずに、聖餐式も取りやめておりました。様々な奉仕や集会を制限せざるを得ない、一方で、感染症予防の観点から今までしてこなかった奉仕が生まれる。正解が見えない中で世間の情勢を見極めながら、スピード感をもって信仰的な決断を下していかなければならない。
 このような未曾有の経験をするなかで、私はこの石山教会の信仰が、問い直されていった1年であったようにも思うのです。石山教会が積み重ねてきたものの全てが、たった数ヶ月の間で大転換を迫られた訳です。まさに、信仰が問われるような時であったと思います。
 この世的に申しますと、自分の人生、生活、信条などを問い直していくのは自分自身でありましょう。しかし、私たちの信仰を問い直すのは自分自身ではありません。そのお方は、神様だだお一人です。神様が、私たちに「あなたはわたしの道を歩んでいるか。わたしから離れてはいないか。」と問うておられるのです。
 本日の物語も、まさに、主イエスご自身が「信仰とは何か」を問うておられる物語であります。ここには、相反する2種類の信仰者が登場します。最初に登場するのは、43-45節に登場する、主イエスの故郷ガリラヤの人々です。彼らは端的に申しますと、神さまの御心にかなわない信仰者の代表です。そして、その人々と比較するかのように登場するのが、物語の後半46節以下に登場する、王の役人です。主が彼と出会い、この王の役人の息子をお癒しになる奇跡物語というのが本日の箇所であります。
 今日の物語は、主イエスとその一行が、長い旅の果てに、主の生まれ育ったガリラヤ地方に帰ってきたところから始まります。普通ならば、故郷に帰ると旅の疲れから解き放たれてほっとするところでありましょう。しかし、主イエスはここで、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ(44節)」と言われるのです。預言者とは主イエスご自身のことです。つまり、わたしは故郷では歓迎されないと、言っておられるのです。ところが、続く45節には「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちは、イエスを歓迎した。」とあります。人々は喜んでいる一方で、主イエスはその人々をご覧になって全く喜ばれていなかった。つまり、両者に気持ちの温度差があったのです。
 45節の続きを読みますと、「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」とあります。つまり、この箇所から、主イエスを歓迎して迎えた人々は、主イエスを以前から知っていた人々であることが分かるのです。主を歓迎する人々はいつどこで、主と出会っていたのか。それは、遡ること2:13以下で伝えられるエルサレムでの宮清めの時のことでありました。主イエスが、過越祭のためにエルサレムに行かれた時のことです。当然、祭りのためにガリラヤ地方からも多くの人がエルサレムに来ていました。そして、2:23は、このように伝えます。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」本日の物語に登場するガリラヤの人々とは、この2章の宮清めの物語の時に、主イエスの不思議なしるしを見て、信じた人々であったのです。
 ここで注目すべきは、続く2:24の言葉です。23節からもう一度続けてお読みします。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。」つまり、主イエスと再び出会えたことに歓喜するガリラヤの人々を、主は以前から信用していなかったのです。
 ある注解書は、ガリラヤの人々の信仰を「奇跡信仰」であると説明します。しるし、つまり奇跡を目撃したり体験したりすることによって信じるようになる信仰のことです。ガリラヤの人々は、エルサレムで主イエスの数々の奇跡を目にして、このイエスという人は本当に救い主、メシアかもしれないと思いました。だからこそガリラヤに来られた主イエスを迎え入れて歓迎したのです。彼らの信仰は、真の信仰とは程遠いものでありました。人々は、自分の願いが叶えられるかどうかで心がいっぱいでした。そして、自分の願いがかなわなかったら、あっさり他の救い主を求めてしまうような、神を捨ててしまうような信仰であったのです。
 ところで、しるし・奇跡とは、そもそも何でありましょう。ヨハネによる福音書では、そもそも、イエスさまがどんなお方であるかを指し示す事柄を「しるし」と呼ぶのです。主イエスがなさる「しるし」を見て、聞いて、体験して、「イエスこそ我が主、我が神」であると告白することへと導かれていく、これが本来のしるしの意味であるのです。その意味において、ガリラヤの人々は、主イエスをがっかりさせたのです。
 主はガリラヤ地方のカナという場所に行かれました。そこは、以前、結婚式の席で主イエスが水をぶどう酒に変える奇跡を行った場所です。主がまた再び奇跡を行ってくださるかもしれない。人々の期待はいよいよ高まっていました。そのような時、主イエスの前に、ある一人の人がすすみ出て、「息子が病気で死にそうです、どうか一緒に来て息子を癒してください。」と訴えました。この人は「王の役人」であったと聖書は伝えています。この人が仕える王様とは、ヘロデ王であったと考えられています。ガリラヤ地方は当時、ローマ帝国の属国でありました。その地方を納めていたのがヘロデ王です。そこに仕える役人の一人が主イエスに助けを求めたのです。王の役人ですから、地位ある権力者でありました。人々は、この人の言うことは聞かざるを得ない。王の名によって、周りに自分の言うことを聞かせることはいくらでもできたことでしょう。その人が、息子の病の前で無力さを感じている。思いのままの人生を送ってきた人が今まさに、自分の力ではどうしようもない事を経験しているのです。もう、息子を救えるのは、主イエスしかいない。この人は、きっとそのような思いでやってきたのでありましょう。
 しかし、主は、この王の役人の訴えに、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない(48節)」と答えます。この「あながたがた」とは、王の役人を含めたガリラヤの人々のことです。主イエスの周りには、たくさんの人が奇跡を求めて集まっていたのでありましょう。そこで、主は「あなたの信仰は、真の信仰であるか」と問いかけておられるのです。もちろん、王の役人もその問いかけを受けた一人でありました。
 しかし、それでもなお、王の役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください(49節)」と願います。読みようによっては、主イエスの大切な問いかけを無視しているような言葉とも取れます。王の役人は、「それでは、真の信仰とは、どのようなものですか。どうか主よ、教えて下さい。」そのように求める事はしないのです。ただひたすら、どうか救ってくださいとお願いするのです。息子の事で頭がいっぱいであったのでしょう。こんな事をしている間に、もう死んでしまっているかもしれない。主よ、死なないうちに、どうか来てください、そう願うこの父親の思いは真実であり、真剣でした。主イエスは、この願いに対して、「わたしの問いに答えなさい」などとは言われませんでした。ただ一言、こう言われるのです。「帰りなさい。あなたの息子は生きる(50節)」
 王の役人の願いは、主イエスがカファルナウムにいる息子のところまで来て、癒して下さることでした。しかし主イエスは、その彼の願い通りにはされませんでした。だだ、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というお言葉のみをお与えになったのです。しかし、その言葉を王の役人は素直に受け入れました。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った(50節)」と聖書は伝えるのです。するとその帰り道で、息子の病気が癒されたという知らせが届きました。熱が下がり、癒された時刻は、主イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃった、まさにその時刻だったことが分かったのです。
 ところで、本日お読みした旧約聖書、ダニエル書の主人公、預言者ダニエルは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神に仕える、真の信仰者でした。そして、ダニエルもまた、この王の役人の息子のように、命の危険から、神の不思議な奇跡によって救われる経験をした一人であったのです。神さまの不思議な奇跡の業を経験する前、ダニエルは絶体絶命のピンチの最中、このように言います。
 「わたしたちのお仕える神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません(ダニエル書3:17-18)。」
 この、ダニエルは、燃え盛る炉に投げ込まれそうになっても、神様が救ってくださると確信していました。しかし、もし、「そうでなくとも」、つまり燃え盛る炉から救い出されなかったとしても、わたしは他の神を信じることはないと宣言するのです。
 本日の物語は、このダニエルの「そうでなくとも」という信仰の証を思い出させます。息子をなんとか主イエスに救っていただきたい。その一心で主のところへとやってきたのです。それは、「主イエスこそ、病の息子を救うことができるお方に違いない。主イエスこそ、必ず息子を救ってくださる。」という確信が彼の中にはあったからです。
 しかし、主は彼が求めた通りにはなさいませんでした。ただ一言「帰りなさい。あなたの息子は生きる(50節)」という言葉を与えたに過ぎなかった。それをすんなり信じる方が普通は難しい話です。僕を家にやって、本当に息子が癒されていたことを確かめてから信じよう。そのようにもできたかもしれません。しかし、彼は、主イエスの言葉を疑わなかった。自分の求めとは違うことが起こっても、「たとえそうでなくとも」主イエスの言葉を素直に受け入れ信じたのです。
 主イエスが、王の役人に言われた「あなたの息子は生きる」という言葉は、他の翻訳では、「あなたの息子は助かる」や「あなたの息子は癒される」などと訳されておりました。新共同訳聖書はそれを、原文に忠実に「あなたの息子は生きる」と訳しています。それは、主イエスの癒しの業が、単に瀕死の状態から容体が持ち直して元気を取り戻していくだけでないということです。
 王の役人の息子は、主イエスの言葉を通して「死ぬ存在」から「生きる者」へと変えられたのです。聖書は、物語の最後に、王の役人もその家族もこぞって主イエスを信じたと伝えています。この家族の心の中には、主イエスが言われた言葉がずっと生き続きていたに違いありません。「帰りなさい。あなたは生きる。」その言葉によって、彼らは主のもとへと帰って行ったのです。生きるものへと生まれ変わっていったのであります。私たちも、この主の言葉を信じ、いつもどんな時も主の招きを受けて主の元へと帰ってゆく者でありたい、その喜びに生かされて歩みたいと願うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:04| 日記

2020年12月18日

2020年12月27日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「帰りなさい。あなたは生きる。」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書4章43節〜54節

感染予防対策をした上での礼拝です。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:35| 日記

2020年12月20日 クリスマス礼拝説教「主なるキリスト」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書12章35節〜37節

 今朝、私達は、石山教会のクリスマス礼拝をささげています。コロナ・ウィルスの影響を受け、少々、制限されていますが、殆ど、例年と変わることなく、皆様と共に、クリスマスの日を、迎えることが、出来ました。そのことを、神様に、改めて、深く感謝をするものであります。
今年は、本当に、「新型コロナ・ウィルスの年」となりました。それは、正に、「コロナ・ウィルス」に支配された年。あるいは、「不安」に支配された年。そのようにも、言えるかもしれません。
 しかし、このような絶望の一年の中であるからこそ、私達は、「私達の真の支配者」が、一体、何であり、誰であるのか。そのことに、再び、思いを、巡らしていきたい。そのように、心から思うのであります。
 そもそも、「クリスマス」とは、どのような出来事なのでしょうか。一言で申し上げるならば、「救い主の誕生を記念する日」です。間違えては、いけないのは、「救い主の誕生日」ではない、ということです。聖書には、12月25日に、救い主が、生まれたとは、一言も書かれていません。それ故に、12月25日は、「救い主の誕生を記念する日」ということになるのです。
 それでは、救い主の誕生は、どのようにして起きたのでしょうか。私達が告白する「使徒信条」によると、「聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ」たと、言われています。これが、救い主である、主イエスの誕生を表しています。
 まず、救い主である主イエスは、聖霊によって、宿りました。聖霊は、神様ご自身です。つまり、救い主である主イエスは、神様の御業によって、神様として、この世に宿られた、ということであります。
 しかし、ただ、神様として、この世に宿られたわけではありません。同時に「処女(おとめ)マリアから生まれた」とも言われています。つまり、「罪がないと」いうこと以外では、私達と、全く同じ、人間として、この世にお生まれになった、ということであります。
 こうして、私達の救い主は、真の神であり、真の人として、この世に臨んでくださった。神様は、どこか遠くに座しておられるのではなく、正に、私達の歴史の中に、私達の生活の只中に、救い主・キリストとして、生きてくださった。そして、その身をささげて、私達に仕えてくださった。この世を見捨てるのではなく、再び、この世に来られることを約束してくださった。これが、主イエス・キリストの誕生の意味であり、そして、クリスマスの喜びでもあるのです。
 救い主は、聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれしました。私達は、この恵みを、当たり前のこととして信じるものとされています。
 しかし、当時の人々にとっては、どうでしょうか。当時の人々にとって、それは、当たり前のことではありませんでした。むしろ、信じられないこと、受け止められないこと、認められないことであっただろうと思います。
 それ故に、当時は、主イエスの出世について、良からぬ噂が、律法学者たちの間で立つようになったとも、一説では言われています。昔も、今も、人間は、スキャンダルが好きなのかもしれません。
 マリアは、ヨセフとの婚約期間中に、妊娠が発覚します。当時、婚約中に、妊娠をすることは、律法で禁じられていました。ヨセフは、真面目な性格で知られていましたから、間違えを犯すことはない。つまり、当時の人々は、マリアが、許嫁のヨセフを裏切り、他人との間に、子どもを授かった、という理解になってしまうのです。
少し、言い方を変えるならば、人々から見たら「イエスの本当の父親は不明」ということになるわけです。聖書では、度々、イエスは、「ヨセフの子」ではなく、「マリアの子」と呼ばれることもあるほどであります。残念なことではありますが、聖霊によって宿ったという信仰は、この時はなく、律法学者たちは皆、このような「噂」「人間の勘違い」を、信じたのであります。
 そして、それ故に、主イエスは、「真の救い主」ではない。このように、律法学者たちは主張していたようであります。なぜなら、律法学者たちは、「メシア」(救い主・キリスト)は、「ダビデの子」「ダビデの子孫」であると、信じていました。実際に、旧約聖書の預言書には、そのように書かれています。
 ダビデは、イスラエル王国の土台を築いた、最も偉大な王です。イスラエルの王の位は、このダビデの子孫が、代々、受け継いできました。そうでありますから、「真の救い主」が生まれるとするならば、「ダビデの子孫」「ダビデの後継者」でいなければいけなかった、ということなのであります。
 そのことを踏まえた上で、律法学者たちは、「イエスは救い主ではない」と判定を下すのです。父親も不明であり、出生も不明だからです。ダビデの子孫であるかどうかも分からないのです。だから、イエスは、救い主に相応しくないのです。律法学者たちは、このように、主イエス・キリストの価値を判断し、否定的な判定を下しているのです。
 実は、このような、律法学者の判定に対して、主イエスがお答えになった。それが、今朝の御言葉なのであります。今朝の御言葉の小見出しには、「問答」と書かれています。しかし、問いが書かれていない。答えだけが書かれている。この問いこそが、その律法学者の判定のことなのであります。
 さて、主イエス・キリストは、ここで、詩編110編1節の御言葉を引用して、お答えになられました。これは、ダビデによる詩であると言われています。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで』」。
 ここで言われている「わたし」とは、詩人ダビデのことです。最初の「主」は、神様のことです。「わたしの主」とは、「救い主」を指していると信じられていました。つまり、「ダビデの主なるキリスト」に対して、主なる神様が、御言葉を語られた、ということであります。そのような、場面に、ダビデが立ち会っている、という様子が、ここで記されています。
 神様は、救い主に対して、何を語られているのでしょうか。簡単に言うならば、「勝利と支配の確立」について、語っています。救い主を通して、勝利が実現する。神様の支配が確立する。そのような時が、必ず来る。このように、神様は、救い主に対して、語り掛けているのであります。
 このように、ダビデ自身が、救い主を「わたしの主」と呼んでいるのです。そうであるならば、救い主は、「ダビデの子」ではなく、「ダビデの主人」ではないのか。あの偉大なダビデ王ですら、救い主を「わたしの主人」と呼んでいるではないか、ということなのであります。
 しかし、改めて、考えてみましょう。旧約聖書も新約聖書においてさえも、度々、「救い主がダビデの子」である。このように、記していないでしょうか。つまり、主イエス・キリストは、ここで、そのような伝統的な信仰を、否定しているのでしょうか。
 実は、そうではないのです。主イエス・キリストにとって、救い主が、「ダビデの子」なのか、あるいは、「ダビデの主」なのか。それは、あまり、大きな問題ではない、ということです。
むしろ、ここでの問題は、何でしょうか。それは、偉大なダビデ王ですら、救い主を、「私の主」と呼んでいる、ということであります。イスラエル史上、一番、偉大であると呼ばれた、あのダビデ王ですら、救い主を「私の主」と呼び、「私の真の支配者」として、迎えているではないか、ということなのであります。
 律法学者たちは、聖書に基づいて「救い主は、ダビデの子孫」でなければいけない、と考えました。そして、その基準に従って、主イエスの救い主としての適性を、彼ら自身が、判定しているのであります。つまり、ここで、彼らは、自分たちにとって都合の良い、聖書の預言だけを切り取って、彼らが、救い主の判定人になってしまっている、ということなのであります。
 ここで、主イエス・キリストが、本当に問題としているのは、「人間が、救い主の価値を判定している」という現実なのであります。あのダビデ王ですら、「救い主を私の主」と呼んでいるにも関わらず、救い主の判定を、人間がするなんて、どうなのか、ということなのであります。
 律法学者たちは、自分たちにとって都合の良い御言葉だけを切り取り、救い主の判定をしています。しかし、そこで何が起きているのでしょうか。救い主よりも、自分たちを上に見ている、ということであります。自分自身が「主」になっている、ということでありましょう。
 それ故に、主イエス・キリストは、ここで、ダビデ王の信仰者としての態度を示すことで、「あなたが救い主の主人」になるのではなく、真の救い主を、「あなたの主人」として迎える。その心を持つようにと示しておられるのであります。
 この問題は、決して、私達と無関係ではないかもしれません。私達もまた、自分の思いや考え、願いや期待を基準に、主イエスを、救い主として、受け止めたり、受け止めなかったりすることがあるかもしれません。
 しかし、そこで何が起きているのでしょうか、この私が、主イエス・キリストの主人になり、主イエスを従属させている。そういうことになるわけであります。
そして、その時、私は、真の救い主を、見出すことが出来なくなっている。近くに、真の救い主が、いてくださることを見失ってしまう。だから、希望を見失ってしまう。そういうことが起きてしまうのであります。
なぜでしょうか。人間が、人間の思いで作り上げた、救い主の像には、必ず限界があるからです。その救い主は、人間の限界を超えていくことができないからであります。だから、希望を失ってしまうのであります。
 では、ダビデ王のように、「救い主を、わたしの主」と信じ、礼拝をすることで、何が示されるのでしょうか。それは、ダビデのように、私達もまた、「勝利と支配」の御言葉に聴くことが許されるのであります。
 詩編110編で言われている「敵」とは何でしょうか。私達にとって、最大の敵は、「罪と死」です。人間は、人間の力で、これらに打ち勝つことはできません。勿論、私達が、作り上げた、理想的な「救い主の像」もまた、これらに打ち勝つことはできません。だからこそ、自分の思いや願いによって、救い主を判定している間は、罪や死に勝利する。その幸いを知ることはできません。人間の思いで作り上げた救い主は、人間の限界を超えることができないからであります。
しかし、一旦、人の思いを捨て、ただ、ひたすらに、御子イエス・キリストを、わたしの主として受けるとき、私達は、何を聞くことが出来るのか。そこで、キリストによって実現する「罪と死への勝利の御言葉」に聴くことができる。
その意味で、私達の人生を支配するのは、もはや、罪や死ではない。病やケガではない。コロナでもない。私達は、その全てから、キリストによって自由にされ、解放されている。その御言葉に聴くことができる。たとえ、体が衰え、不自由になろうとも、私達は、真の勝利の中に生き、真の自由と平安が、支配する世界に生きられる。そのことを知ることができる。
その深い恵みを、心から味わい知れるのは、私達が、私の主としてイエス・キリストを迎え入れる。そのところから始まるのです。私達の主は、ただ一人。キリストだけであります。この御方こそが、この私の人生の支配者であります。
しかし、その真の支配者である、救い主は、どこか遠くにいるわけではありません。この支配者は、飼い葉桶に眠るのであります。動物の匂いや汚さの中にいるのであります。それは、まるで、私達の本当の姿を象徴するかのようです。
しかし、汚れた飼い葉桶で眠るのが、私達の救い主なのであります。この御方こそ、私達の汚れや罪の只中に、私達の心の飼い葉桶の中に、来てくださる救い主なのであります。
そして、そのお方を、真の神と信じ、真の主としてお迎えをするとき、罪や死、痛みや絶望から、本当に、解放してくださる。その幸いを、味わい知るものとされるのです。

〇祈り
天の神様、2020年、主の御降誕を記念する礼拝が与えられ、その中で、新しい御言葉の恵みが与えられました幸いに、心から感謝もうしあげます。2020年は、本当に不安ばかりの年となりました。しかし、このクリスマスの時、私達は、改めて、私達の生活の真の支配者が、あなたであり、御子であることを知りました。そして、その御子を通して、私達の内には、真の自由と平安が約束されている幸いを知ることが出来ました。心から感謝申し上げます。どうか、どのような時代であろうとも、この恵みを深く、心に刻み付け、感謝と喜びをもって、歩み続けるものとしてください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:33| 日記