2020年12月12日

2020年12月20日 石山教会クリスマス礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書2章1節〜7節
説教:「主イエスの御降誕」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:マルコによる福音書12章35節〜37節
説教:「主なるキリスト」須賀 工牧師

感染症予防をした上での礼拝です。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:11| 日記

2020年12月13日 主日礼拝説教「どんないけにえよりも」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書12章28節〜34節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書12章28節から34節の御言葉であります。主イエス・キリストは、ここで、一人の律法学者に向かって、次のように、仰せになりました。「あなたは、神の国から遠くない」。
聖書によると、この律法学者が、適切な答えをしたからであると記されています。それでは、私達は、この律法学者の姿を、どのような思いで受け止めるでしょうか。
この律法学者の立派さをみるでしょうか。そのような方が、多いかもしれません。それも間違いではありません。しかし、ここで、本当に、注目すべきことは、実は、この主イエス・キリストの御言葉なのであります。
この御言葉を、そのまま読むならば、主イエス・キリストが、ここで、この律法学者を褒めている。そのように、読むことができるのではないかと思います。確かに、それも間違いではありません。
しかし、真実は、果たして、どうでしょうか。ここで、主イエス・キリストは、この律法学者に対して、この人の「欠けた部分」について指摘している。そのようにも言えないでしょうか。
主イエス・キリストは、ここで、はっきりと、「あなたは、神の国から遠くない」と仰せになりました。「遠くないのだ」と仰せになったのであります。
それは、言い方を変えるならば、「あなたは、まだ、神の国に到達していないのだ」と言われている。そういうことにならないでしょうか。更に、言い方を変えるならば、「あなたの答えは正しい。しかし、あなたは、それでもまだ、神の国には、到達していない。」そのようにも言えるかもしれません。
どれだけ、立派な回答をしていたとしても、どれだけ、模範回答をしたとしても、どれだけ、知恵や知識が備わっていようとも。それでも、「あなたは、まだ神の国に到達していない。」「神の国の中にいるわけではない。」そのような視点で、この御言葉に聴くことができるのではないでしょうか。そして、そのように、改めて、この箇所を、読み直していくならば、この箇所には、新しいメッセージが込められている。そのようにも言えるのであります。それでは、主イエス・キリストは、この律法学者に対して、どのような回答を求めたのでしょうか。
そもそも、「律法学者」たちは、律法を大切にします。そして、ユダヤの民にも、律法を守るようにと命じます。そして、そのことによって、神の民であることの自覚と誇りをもって生きる。そのことを大切にしました。
つまり、律法を守ることで、自分たちが、神の民であること、神の国に生きるものであること。そのことを、明確に、証してきたのであります。
ローマ帝国に支配された現実の中で、「律法を守ること」こそが、自分たちのアイデンティティーを守ることでありました。あるいは、律法を守ることで、自分たちが、真の神の民である。そのことを自覚することが出来たのであります。
 しかし、「律法」を守るためには、一つの大きな課題がありました。十戒に基づく、「律法」は、全部で600以上の掟で成り立っているのです。つまり、全てを暗記し、暗記させて生活をすることは、決して、簡単なことではなかったのであります。
そこで、この律法学者は、主イエス・キリストに対して、「律法の中で一番大切なこと」、すなわち、「律法の要」が、一体何であるか。そのことを尋ねたのであります。その「要」を学ぶことで、この大きな課題をクリアしようと考えたのであります。
この律法学者の問いに対して、主イエス・キリストは、二つの答えを出されました。「第一の掟は何か」。そのように、ここでは、尋ねられたのに、ここで、主は、二つの答えを出された。つまり、この二つの答えは、常に、切り離すことができず、常に、つながっているということであります。
さて、主イエス・キリストは、ここで、まず、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いをつくし、力をつくして、あなたの神である主を愛しなさい」。このように示されました。
これは、申命記6章の御言葉です。この御言葉は、「シェマー」と呼ばれています。「シェマー」とは、「聞け」という意味です。ユダヤ人なら誰もが、知っている最古の信仰告白であります。
因みに、この御言葉は、「他宗教を批判している」と受け取られることがあります。しかし、ここで重要なことは、「わたしたちの神」と言われていることであります。つまり、他人が、どう言おうと、「あなたにとって、神は、一人なのだ」ということなのです。私達が、信じ、愛し、礼拝する神は、一人の神しかいない。そして、その神様と私達は、愛の交わりでつながっているのだ、ということなのであります。他の宗教が、あるとかないとか、そういう話ではないのであります。
さて、ここでは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いをつくし、力をつくして、神様を愛する」ようにと言われています。これは、要するに、あなたの全存在で、主を愛する。そのことが大事なのだということであります。
自分の一部で、主を愛するのではないのです。自分の生活の一部で、主を愛するのではないのです。自分の全存在と全生活をもって、主を愛する。そのような信仰生活が求められるのであります。
しかし、私達の信仰生活の現実を深く見つめてみるならば、どうでしょうか。そのような生活に生きられているでしょうか。自分の一部だけで、主を愛し、まるで、自分の生活の一部、あるいは都合の良い部分だけで、主を愛していないでしょうか。自分の願いや、自分の思いを優先し、自分の一部分だけで、主を礼拝していないでしょうか。神様以外に、他に頼れるものがあれば、頼るような生活をしていないでしょうか。自分自身の生活を省みてみるならば、いかに、自分が中心であったか、そして、神を、信仰生活の一部分にしてしまったか。そのことを深く考えさせられていくのであります。
自分が中心になるところでは、神様は、信仰生活の一部分だけになってしまいます。それでは、本当に、神様を、全存在で、愛していることにはならないでありましょう。むしろ、自分の都合のよい存在としてだけ、神様を愛している、ということでしかないのであります。自分を省みてみるならば、そういう自分の姿が見えてくるかもしれません。
さて、主イエス・キリストは、二つ目に大切な掟を示されました。それは、「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。これは、レビ記からの引用であると言われています。やはり、ユダヤ人には、よく知られた聖句の一つであります。
ここで重要な用語は、「愛」という言葉です。ここで使われている「愛」とは、「アガペー」です。「神様の愛」という意味です。
そして、礼拝でも何度もお伝えをしましたが、この「アガペー」という言葉は「価値を生み出す」というニュアンスがあります。「価値を生み出す」わけでありますから、元々は、「価値がない」ということになります。価値のないものに、価値を生み出していく。これが、「アガペー・愛」なのであります。
つまり、ここで、「隣人を愛する」ということは、自分にとって都合の良い存在を愛しなさい、ということではありません。自分にとって、価値がないようなものに、自分を嫌う存在に価値を生み出しなさい、という教えなのであります。
そう考えると、ここで「自分のように愛する」という言葉も、重要です。私達は、誰もが、弱さをかかえています。駄目な部分があります。人には見せられない穢れがあります。それも含めて、あなたは、あなた自身に価値を生み出す、ということが大事なのであります。自分のいやな部分も、自分の価値として見出す。それと同じように隣人にも価値を生み出していきなさい。それが、ここで言われている掟の意味なのであります。
このこともまた、自らを省みるとどうでしょうか。自分と対立している存在、自分にとって価値が見いだせない存在。そのような存在に、価値を生み出しているだろうか。いや、何よりもまず、自分自身を正しく愛せているだろうか。自分にとって都合の良い部分だけを愛していないか。自分にとって都合のよい存在だけを大事にしていないだろうか。
つまり、第一の掟と同じことが、ここで起きているのです。神様を、自分の生活の一部でしか愛せない時、自分にとって都合のよい部分だけしか愛せない時、私達は、隣人に対しても、あるいは、自分に対しても、一部分でしか愛せない現実がある。そのことを、改めて、ここで問われているのではないかと思うのであります。
この律法学者は、この教えに感銘を受けます。そして、この掟こそが、どんな、ささげものよりも、信仰生活において、尊いのだ、と主張します。主イエス・キリストもまた、その答えを認められます。
しかし、主イエス・キリストは、そんな「あなたは、神の国から遠くない」と仰せになるのであります。まだ、神の国には、到達していない、というのです。まだ、欠けていることがある。まだ、神の国の中にはいない。そのように仰せになるのであります。
ここで主イエス・キリストが、望んでおられる答えとは何だったのでしょうか。それは、「自分には出来ない」ということなのであります。自分は、この掟に生きる力がない、ということであります。自分では、この律法を満たす力はない。自分の側には、神の国に至るほどの力はない。これが大切なのであります。
彼には、知識はあるのです。掟の要を知っているのです。これが大事なことも、知っているのであります。
しかし、本当に、大切なことは、それでも、自分の力では救われない。それが、正しい答えなのであります。そして、その答えこそが、神の国に至る道なのであります。
なぜでしょうか。そのような人間を、あるいは、そのような人間の無力さや弱さや穢れを背負うために、主がいて下さるからであります。自分には出来ない。神にしか、私を救えない。「イエス様、あなたしか、私を神の国へと連れて行くことができない。」主に対する、そのような信仰と信頼が、重要なのであります。
もし、この律法学者が、このままで、神の国に入れるとするならば、もう、彼には、神様すら必要なくなるのであります。救い主が必要ではなくなるのです。主は、彼に、もっと、自分のことを信じてほしい。助けを求めてほしい。救いを素直に、受け取ってほしい。そのように願っているのであります。
聖書によると、主イエス・キリストは、「律法の完成者」であると言われています。このキリストと結ばれている。そのところでこそ、私達もまた、神様の御心に適った完成者にされるのであります。
私達は、全存在で、神様を愛することはできません。しかし、その私達を全存在で愛してくれる御方がいる。
私達は、自分を正しく愛することが出来ません。それ故に、隣人を愛し抜けない者です。しかし、その私を、全存在をかけて愛して下さる人がいる。その私に価値を生み出し、「あなたは大切だ」と言ってくれる御方がいる。
私達が、神の国に至るのは、徹頭徹尾、キリストによって、背負っていただく。そのことによってのみ、実現するのであります。どのようないけにえよりも、一番大事なことは、主が、私達のためにいけにえになってくださった、という救いなのであります。
大事なことは、自分のすべてを、主に明け渡すことであります。それで良いのです。一生懸命に、一人で、厳しい山を登る必要はないのです。主が背負って下さる。そして、厳しく、きつい、この人生という名の山を登り切り、頂上へと、つまり、神の国、天へと至らしめてくださる。私達の信仰生活は、そこでこそ、はじめて完成するのであります。
私達は、自分の信仰生活を、自分で輝かそうとしていないでしょうか。具体的に、あれやこれをしなければいけない。こういう成果を出さなければいけない。そう考えていないでしょうか。
でも、人間には、限界がある。歳をとります。病気になります。あれもこれもできなくなります。その時、自分の信仰は、もう駄目だって思う必要はないのです。何もできなくていいのです。良い成績や成果を出す必要はありません。一番、主が望んでおられることは、あなたが、ただ、主に信頼を置き、主に全てを委ね、主に背負っていただきながら、先に進むことなのであります。そして、その無力さのなかでこそ、ただ一人の神を愛し、隣人を自分のように愛する生活が、形作られていくのであります。

天の神様、新しい御言葉の恵みに、心から感謝します。私達は、自分の力で、自分の思いで、信仰生活を輝かそうとしてしまうことがあります。しかし、その時、私達は、神様を、自分を輝かせるための一部分の協力者であるかのように考えてしまうことがあります。しかし、そのような私達を、それでも愛し、受け止め、価値を生み出して下さる、あなたの愛の深さを、改めて、ここで示されました。どうか、自分の手の業を止め、ただひたすらに、あなたに背負っていただきながら、それぞれの人生の道のりを、前に進めていくものとしてください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:06| 日記

2020年12月05日

2020年12月13日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「洗礼者ヨハネの誕生」
聖書:ルカによる福音書1章57節〜66節
*礼拝後の分級はありません。

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「どんないけにえよりも」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書12章28節〜34節
*礼拝後の行事はありません。

感染症対策をした上での礼拝となります。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:32| 日記