2020年12月05日

2020年12月6日 主日礼拝説教「復活」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書12章18節〜27節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書12章18節から27節の御言葉であります。今朝の御言葉のテーマは、「復活」であります。
 使徒信条でも告白をしますように、私達は、「キリストの復活」を信じ、「身体のよみがえり」を信じます。
 しかし、この「よみがえり」「復活」という事柄が、一番、分かりにくいのであります。主イエス・キリストの教えや、その働きは、理解しやすいかもしれません。あるいは、受け入れやすいかもしれません。
 しかし、それに対して、「主イエス・キリストの復活」「身体のよみがえり」は、よくわからない。あるいは、受け入れにくい。そのように、考える人も少なくはないだろうと思うのです。
 実は、主イエス・キリストの時代にも、「復活」を受け入れられない人々がいました。それが、「サドカイ派」と呼ばれる人々であります。
 当時、ユダヤの国では、「サドカイ派」と「ファリサイ派」という二つの流派、あるいは、教派のようなものがありました。聖書によると、「サドカイ派」は、「復活」を否定し、「ファリサイ派」は「復活」を肯定していました。このように、両者は、「復活」を巡って、信仰的な対立をしていたとも言われています。
 それでは、そもそも、なぜ、「サドカイ派」は、「復活」を認めなかったのでしょうか。表向きの理由としては、「聖書」(私達でいう旧約聖書)に「復活」の記述がなかったからであります。もう少し、詳細に、申し上げるならば、「モーセ五書」に、「復活」の記述がなかったからであります。
 「モーセ五書」とは、私達でいう旧約聖書の最初の五つを指しています。「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」のことです。これらは、当時、モーセが書いたと言われていました。「サドカイ派」は、この五つこそが、聖書の中心であり、正典であると信じていました。そして、この五つには、「復活」の記述がないのだと、彼らは主張していた。だから、「復活」を否定する立場に立っているのです。
 それに対して、ファリサイ派の人々は、モーセ五書だけではなく、その後の歴史書、預言書、諸書、つまり、モーセ五書以外も含めて、信仰の基準であり、正典であると信じました。そして、預言書などを読みますと、「復活」についての記述がある。だから、「復活」は、あるのだと考えたのであります。
 つまり、聖書の捉え方、読み方の違いが、このような、「復活」を巡る、両者の対立構造を作り出してしまったのであります。
 しかし、これはあくまでも「表向きの理由」であります。つまり、「裏向きの理由」もあるのです。実は、「サドカイ派」という教派は、「祭儀や儀式」を重んじ、「祭司階級」を重んじる「超保守派」の集団でもあったのです。つまり、彼らは、「祭司」として与えられた特権階級や権威や力を重んじる集団であった、ということなのであります。彼らにとって、一番の関心事は、自分たちの権威を守ることであり、自分たちの地位や名誉を守ることであり、現状維持を守ることなのであります。
 そのような、彼らにとっては「死後の復活」よりも、「現世の生活」こそが、大事になるのです。彼らが「復活」を否定するのは、聖書に書かれていないから、というよりも、彼らの関心が、現在の生活にあって、死後の復活にはない、ということによるのであります。「復活による新しい命」は、現世の地位や立場や生活を守るためには、特に、関係のない、信じる価値のないものとして考えられていたのです。
 彼らの問題は、何でしょうか。それは、彼らが、どこまでも、現世の幸福だけを求めている、ということです。この世の幸福だけを求めている、ということであります。今、幸せであれば、それで良い。「復活」を信じても、今、幸せになるわけではない。だから、復活など信じない、ということなのであります。
 このように、彼らは、あくまでも、現世主義、現状維持主義を貫きます。その上で、「復活」に関する矛盾を突いた質問を、主イエス・キリストに投げかけてくるのです。18節から23節の御言葉をお読みします。「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。『先生、モーセはわたしたちのために書いています。「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです』」。
 一人の女性が、七回、結婚と死別を繰り返した。復活の時、彼女の夫は、誰に当たるのか、という問いかけです。配偶者と死別し、再婚する人は、今の時代にもいます。その場合、復活したら、誰が自分の妻、あるいは夫になるのか、両方なのか。そのようなことを考えていくと、やはり、復活という教えには、無理がないだろうか。そのような主張であると言えるかもしれません。
 しかし、このような主張をする所にこそ、サドカイ派の現世主義が、はっきりと現れているのではないでしょうか。彼らは、復活もまた、現世の延長線と考えているのです。だから、復活したら誰と誰が夫婦なのか、という問いが生まれるのです。あくまでも、今のこの世のことを基準にして、「復活」を考えてしまうから、このような疑問が起こるのであります。
 このような問いかけに対して、主イエス・キリストは、次のようにお答えになりました。24節〜25節の御言葉です。「イエスは言われた。『あなたたいは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ』」。
 「復活」においては、「めとることも嫁ぐこともない」。これを、どう受け止めるか。それは、人それぞれであるかもしれません。ある人にとっては、寂しいことであると言えるかもしれません。また、あるいは、ある人にとっては、喜ばしいことであるかもしれません。私は、勿論、寂しい気持ちになりました…。あるいは、様々な事情の下で、独身である方にとっても、その受け取り方は、色々あるだろうと思うのです。
 しかし、いずれにせよ、そのような気持ちを抱いている地点で、「復活」を、この人生の延長でしか見ていないということになります。むしろ、この御言葉で重要なポイントは、その後に示されている「天使のようになる」という言葉なのであります。
 「復活」をする、ということは、「天使のようになる」ということなのです。これは、決して、背中から羽が生えて、白い服着て、金髪のパーマになる、ということではありません。もともと、「天使」という言葉は、「天にいる御使い」という意味です。
 つまり、大切なことは、復活の時、私達は、「天にいる」ということなのです。「天にいる」とは、空を飛んでいる、ということではありません。神様の御手の中にいる、ということです。復活の時、私達は、一人ひとりが、神様の御手の中に抱かれている。そのことを、はっきりと知ることができる、ということなのであります。
 神様の大きな御腕に抱かれながら、「めとることもなければ、嫁ぐこともない」ということなのです。つまり、もう少し違う仕方でいうならば、復活において、神様の御手に置かれる。そのことによって、私達のあらゆる人間関係が、新たにされ、完成される、ということなのであります。「必要はない」とは、「完成した状態」を意味しているのです。
 この地上における人間関係は、決して、完成されたものではありません。なぜなら、「死」が、人間関係を切り裂いてしまうからであります。しかし、死後、復活の時、神様の御腕に抱かれた、私達は、その時、初めて、祝福された、死も切り離すことのできない、真の、完全な関係を得ることができる、ということなのであります。
 良い夫婦関係であれば、今以上の完成された関係に生きられる。悪い夫婦関係であるならば、その問題や罪から解放された、新しい関係に生きられる。夫婦関係だけではありません。良い人間関係であろうと、悪い人間関係であろうと、私達の関係は、復活において、神様の御手に抱かれることによって、あらゆる障壁を超えて、完成していく。それが、復活の出来事において、起きることなのだ、ということなのであります。
 さて、最後に、主イエス・キリストは、「復活」について、サドカイ派が拠り所にしている、モーセ五書の一節を引用して、お語りになりました。26節から27節の御言葉をお読みします。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
 ここで、大事なことは、神は「生きている者の神」なのだ、ということであります。つまり、神様が、「わたしはアブラハムの神である」と仰せになるならば、アブラハムは、神様の御前で「生きている者となる」ということなのであります。神様が、名前を呼んで、「私は、この人の神だ」と言って下さるなら、その人は、神様の御手の中で、神様のものとして生きるのだ、ということなのであります。神に名前を呼ばれた人々は、肉体の死によって滅びてしまうことはなく、いつか必ず復活して、新しい命や体を得るのだ、ということなのであります。神様が、あなたの名前を呼んで、「わたしはあなたの神だ」と言ってくださるなら、あなたは死を超えて生かされ、そして、復活する。「神が生きているものの神である」とは、正に、そのような意味なのであります。
 さて、その証拠に、私達の復活の先駆けとなった方がいます。それが、主イエス・キリストであります。主イエス・キリストは、この地上で、洗礼を受けられた時、次のような言葉を聞くのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。逆に言うならば、「わたしは、あなたの父だ」ということでもあります。神様が、そのようにキリストを呼ばれた時、もうすでに、死の力も、キリストに打ち勝つことができない。そのことが明白となったのであります。
 その証拠に、肉体の死が、主イエス・キリストを、一時は捕らえました。しかし、生きている者の神が、その死を打ち破り、永遠の命を生きる新しい体を、主イエスに与えられたのであります。キリストの復活とは、そのような出来事であり、それは、私達の復活の先駆け、保証でもあるのです。キリストにして下さったことを、私達にもして下さるのです。神様は、私達の名を呼び、復活の命を与えるのです。
 キリストを復活させた御方は、今、私達一人ひとりの名を呼んで、「私はあなたの神だ」と宣言してくださいます。いや、もうすでに、洗礼を受けた時から、神は、私達の名を呼んでくださり、私達の神でいて下さった。この神様が、私達の名を呼んで下さるならば、肉体の死も、打ち勝つことはできない。その深い恵みを、何度でも、思い起こすために、私達は、主の復活を記念する日曜日に、礼拝を捧げているのです。この恵みを覚え、感謝と喜びと希望をもって、新しい歩みを進めて参りたいと思います。

天の神様、新しい御言葉の恵みに、心から感謝します。キリストを通して、私達を罪から清め、復活の命を約束してくださいますお恵みに心から感謝します。この世において、本当に小さな、私達です。しかし、その私達を強くとらえてくださり、名を憶えてくださり、その名を呼んで、死に打ち勝つ命を与えてくださる。その幸いに深く感謝を申し上げます。どうか、この恵みをいつも、心に留めて歩むことができますように、私達の内に、先駆けとなったキリストの復活の恵みを、指し示し続けてください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:27| 日記