2020年12月18日

2020年12月27日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「帰りなさい。あなたは生きる。」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書4章43節〜54節

感染予防対策をした上での礼拝です。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:35| 日記

2020年12月20日 クリスマス礼拝説教「主なるキリスト」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書12章35節〜37節

 今朝、私達は、石山教会のクリスマス礼拝をささげています。コロナ・ウィルスの影響を受け、少々、制限されていますが、殆ど、例年と変わることなく、皆様と共に、クリスマスの日を、迎えることが、出来ました。そのことを、神様に、改めて、深く感謝をするものであります。
今年は、本当に、「新型コロナ・ウィルスの年」となりました。それは、正に、「コロナ・ウィルス」に支配された年。あるいは、「不安」に支配された年。そのようにも、言えるかもしれません。
 しかし、このような絶望の一年の中であるからこそ、私達は、「私達の真の支配者」が、一体、何であり、誰であるのか。そのことに、再び、思いを、巡らしていきたい。そのように、心から思うのであります。
 そもそも、「クリスマス」とは、どのような出来事なのでしょうか。一言で申し上げるならば、「救い主の誕生を記念する日」です。間違えては、いけないのは、「救い主の誕生日」ではない、ということです。聖書には、12月25日に、救い主が、生まれたとは、一言も書かれていません。それ故に、12月25日は、「救い主の誕生を記念する日」ということになるのです。
 それでは、救い主の誕生は、どのようにして起きたのでしょうか。私達が告白する「使徒信条」によると、「聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ」たと、言われています。これが、救い主である、主イエスの誕生を表しています。
 まず、救い主である主イエスは、聖霊によって、宿りました。聖霊は、神様ご自身です。つまり、救い主である主イエスは、神様の御業によって、神様として、この世に宿られた、ということであります。
 しかし、ただ、神様として、この世に宿られたわけではありません。同時に「処女(おとめ)マリアから生まれた」とも言われています。つまり、「罪がないと」いうこと以外では、私達と、全く同じ、人間として、この世にお生まれになった、ということであります。
 こうして、私達の救い主は、真の神であり、真の人として、この世に臨んでくださった。神様は、どこか遠くに座しておられるのではなく、正に、私達の歴史の中に、私達の生活の只中に、救い主・キリストとして、生きてくださった。そして、その身をささげて、私達に仕えてくださった。この世を見捨てるのではなく、再び、この世に来られることを約束してくださった。これが、主イエス・キリストの誕生の意味であり、そして、クリスマスの喜びでもあるのです。
 救い主は、聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれしました。私達は、この恵みを、当たり前のこととして信じるものとされています。
 しかし、当時の人々にとっては、どうでしょうか。当時の人々にとって、それは、当たり前のことではありませんでした。むしろ、信じられないこと、受け止められないこと、認められないことであっただろうと思います。
 それ故に、当時は、主イエスの出世について、良からぬ噂が、律法学者たちの間で立つようになったとも、一説では言われています。昔も、今も、人間は、スキャンダルが好きなのかもしれません。
 マリアは、ヨセフとの婚約期間中に、妊娠が発覚します。当時、婚約中に、妊娠をすることは、律法で禁じられていました。ヨセフは、真面目な性格で知られていましたから、間違えを犯すことはない。つまり、当時の人々は、マリアが、許嫁のヨセフを裏切り、他人との間に、子どもを授かった、という理解になってしまうのです。
少し、言い方を変えるならば、人々から見たら「イエスの本当の父親は不明」ということになるわけです。聖書では、度々、イエスは、「ヨセフの子」ではなく、「マリアの子」と呼ばれることもあるほどであります。残念なことではありますが、聖霊によって宿ったという信仰は、この時はなく、律法学者たちは皆、このような「噂」「人間の勘違い」を、信じたのであります。
 そして、それ故に、主イエスは、「真の救い主」ではない。このように、律法学者たちは主張していたようであります。なぜなら、律法学者たちは、「メシア」(救い主・キリスト)は、「ダビデの子」「ダビデの子孫」であると、信じていました。実際に、旧約聖書の預言書には、そのように書かれています。
 ダビデは、イスラエル王国の土台を築いた、最も偉大な王です。イスラエルの王の位は、このダビデの子孫が、代々、受け継いできました。そうでありますから、「真の救い主」が生まれるとするならば、「ダビデの子孫」「ダビデの後継者」でいなければいけなかった、ということなのであります。
 そのことを踏まえた上で、律法学者たちは、「イエスは救い主ではない」と判定を下すのです。父親も不明であり、出生も不明だからです。ダビデの子孫であるかどうかも分からないのです。だから、イエスは、救い主に相応しくないのです。律法学者たちは、このように、主イエス・キリストの価値を判断し、否定的な判定を下しているのです。
 実は、このような、律法学者の判定に対して、主イエスがお答えになった。それが、今朝の御言葉なのであります。今朝の御言葉の小見出しには、「問答」と書かれています。しかし、問いが書かれていない。答えだけが書かれている。この問いこそが、その律法学者の判定のことなのであります。
 さて、主イエス・キリストは、ここで、詩編110編1節の御言葉を引用して、お答えになられました。これは、ダビデによる詩であると言われています。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで』」。
 ここで言われている「わたし」とは、詩人ダビデのことです。最初の「主」は、神様のことです。「わたしの主」とは、「救い主」を指していると信じられていました。つまり、「ダビデの主なるキリスト」に対して、主なる神様が、御言葉を語られた、ということであります。そのような、場面に、ダビデが立ち会っている、という様子が、ここで記されています。
 神様は、救い主に対して、何を語られているのでしょうか。簡単に言うならば、「勝利と支配の確立」について、語っています。救い主を通して、勝利が実現する。神様の支配が確立する。そのような時が、必ず来る。このように、神様は、救い主に対して、語り掛けているのであります。
 このように、ダビデ自身が、救い主を「わたしの主」と呼んでいるのです。そうであるならば、救い主は、「ダビデの子」ではなく、「ダビデの主人」ではないのか。あの偉大なダビデ王ですら、救い主を「わたしの主人」と呼んでいるではないか、ということなのであります。
 しかし、改めて、考えてみましょう。旧約聖書も新約聖書においてさえも、度々、「救い主がダビデの子」である。このように、記していないでしょうか。つまり、主イエス・キリストは、ここで、そのような伝統的な信仰を、否定しているのでしょうか。
 実は、そうではないのです。主イエス・キリストにとって、救い主が、「ダビデの子」なのか、あるいは、「ダビデの主」なのか。それは、あまり、大きな問題ではない、ということです。
むしろ、ここでの問題は、何でしょうか。それは、偉大なダビデ王ですら、救い主を、「私の主」と呼んでいる、ということであります。イスラエル史上、一番、偉大であると呼ばれた、あのダビデ王ですら、救い主を「私の主」と呼び、「私の真の支配者」として、迎えているではないか、ということなのであります。
 律法学者たちは、聖書に基づいて「救い主は、ダビデの子孫」でなければいけない、と考えました。そして、その基準に従って、主イエスの救い主としての適性を、彼ら自身が、判定しているのであります。つまり、ここで、彼らは、自分たちにとって都合の良い、聖書の預言だけを切り取って、彼らが、救い主の判定人になってしまっている、ということなのであります。
 ここで、主イエス・キリストが、本当に問題としているのは、「人間が、救い主の価値を判定している」という現実なのであります。あのダビデ王ですら、「救い主を私の主」と呼んでいるにも関わらず、救い主の判定を、人間がするなんて、どうなのか、ということなのであります。
 律法学者たちは、自分たちにとって都合の良い御言葉だけを切り取り、救い主の判定をしています。しかし、そこで何が起きているのでしょうか。救い主よりも、自分たちを上に見ている、ということであります。自分自身が「主」になっている、ということでありましょう。
 それ故に、主イエス・キリストは、ここで、ダビデ王の信仰者としての態度を示すことで、「あなたが救い主の主人」になるのではなく、真の救い主を、「あなたの主人」として迎える。その心を持つようにと示しておられるのであります。
 この問題は、決して、私達と無関係ではないかもしれません。私達もまた、自分の思いや考え、願いや期待を基準に、主イエスを、救い主として、受け止めたり、受け止めなかったりすることがあるかもしれません。
 しかし、そこで何が起きているのでしょうか、この私が、主イエス・キリストの主人になり、主イエスを従属させている。そういうことになるわけであります。
そして、その時、私は、真の救い主を、見出すことが出来なくなっている。近くに、真の救い主が、いてくださることを見失ってしまう。だから、希望を見失ってしまう。そういうことが起きてしまうのであります。
なぜでしょうか。人間が、人間の思いで作り上げた、救い主の像には、必ず限界があるからです。その救い主は、人間の限界を超えていくことができないからであります。だから、希望を失ってしまうのであります。
 では、ダビデ王のように、「救い主を、わたしの主」と信じ、礼拝をすることで、何が示されるのでしょうか。それは、ダビデのように、私達もまた、「勝利と支配」の御言葉に聴くことが許されるのであります。
 詩編110編で言われている「敵」とは何でしょうか。私達にとって、最大の敵は、「罪と死」です。人間は、人間の力で、これらに打ち勝つことはできません。勿論、私達が、作り上げた、理想的な「救い主の像」もまた、これらに打ち勝つことはできません。だからこそ、自分の思いや願いによって、救い主を判定している間は、罪や死に勝利する。その幸いを知ることはできません。人間の思いで作り上げた救い主は、人間の限界を超えることができないからであります。
しかし、一旦、人の思いを捨て、ただ、ひたすらに、御子イエス・キリストを、わたしの主として受けるとき、私達は、何を聞くことが出来るのか。そこで、キリストによって実現する「罪と死への勝利の御言葉」に聴くことができる。
その意味で、私達の人生を支配するのは、もはや、罪や死ではない。病やケガではない。コロナでもない。私達は、その全てから、キリストによって自由にされ、解放されている。その御言葉に聴くことができる。たとえ、体が衰え、不自由になろうとも、私達は、真の勝利の中に生き、真の自由と平安が、支配する世界に生きられる。そのことを知ることができる。
その深い恵みを、心から味わい知れるのは、私達が、私の主としてイエス・キリストを迎え入れる。そのところから始まるのです。私達の主は、ただ一人。キリストだけであります。この御方こそが、この私の人生の支配者であります。
しかし、その真の支配者である、救い主は、どこか遠くにいるわけではありません。この支配者は、飼い葉桶に眠るのであります。動物の匂いや汚さの中にいるのであります。それは、まるで、私達の本当の姿を象徴するかのようです。
しかし、汚れた飼い葉桶で眠るのが、私達の救い主なのであります。この御方こそ、私達の汚れや罪の只中に、私達の心の飼い葉桶の中に、来てくださる救い主なのであります。
そして、そのお方を、真の神と信じ、真の主としてお迎えをするとき、罪や死、痛みや絶望から、本当に、解放してくださる。その幸いを、味わい知るものとされるのです。

〇祈り
天の神様、2020年、主の御降誕を記念する礼拝が与えられ、その中で、新しい御言葉の恵みが与えられました幸いに、心から感謝もうしあげます。2020年は、本当に不安ばかりの年となりました。しかし、このクリスマスの時、私達は、改めて、私達の生活の真の支配者が、あなたであり、御子であることを知りました。そして、その御子を通して、私達の内には、真の自由と平安が約束されている幸いを知ることが出来ました。心から感謝申し上げます。どうか、どのような時代であろうとも、この恵みを深く、心に刻み付け、感謝と喜びをもって、歩み続けるものとしてください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:33| 日記