2020年12月26日

2021年1月3日 礼拝予告

〇教会学校 休会 *1月10日より再開

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「私達を知っている神」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書12章38節〜44節

感染症対策をした上での礼拝です。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:07| 日記

2020年12月27日 主日礼拝説教「帰りなさい。あなたは生きる。」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書4章43節〜54節

 本日与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書4:43-54であります。先週は、主イエス・キリストの御降誕を祝う礼拝を共に守りました。そして、今朝は2020年12月最後の主日の礼拝を守っております。振り返ってみますと、特にこの2020年は、誰もが忘れられない1年であったかと思います。ちょうど去年の今頃に確認された新型コロナウイルス(COVID-19)が世界中に感染拡大し、今なおその収束の兆しは見えません。私たちが今まで普通にしてきた「あたりまえの生活」が問い直された1年でした。去年の今頃、誰がこのような1年を想像していたことでしょう。また、来年のことを思いますと、今まで以上に見通しが立たない未来に、誰もが不安を覚えていると思います。
 私たちの石山教会にとっても、思い返すと本当に大変な1年でありました。政府の緊急事態宣言を受けてイースターは無会衆礼拝をするという決断をしました。そこからペンテコステ礼拝までは、皆さんに教会に集うことを自粛していただき、無会衆での礼拝をいたしました。また、会衆を入れての礼拝を再開しても暫くは、賛美歌は歌わずに、聖餐式も取りやめておりました。様々な奉仕や集会を制限せざるを得ない、一方で、感染症予防の観点から今までしてこなかった奉仕が生まれる。正解が見えない中で世間の情勢を見極めながら、スピード感をもって信仰的な決断を下していかなければならない。
 このような未曾有の経験をするなかで、私はこの石山教会の信仰が、問い直されていった1年であったようにも思うのです。石山教会が積み重ねてきたものの全てが、たった数ヶ月の間で大転換を迫られた訳です。まさに、信仰が問われるような時であったと思います。
 この世的に申しますと、自分の人生、生活、信条などを問い直していくのは自分自身でありましょう。しかし、私たちの信仰を問い直すのは自分自身ではありません。そのお方は、神様だだお一人です。神様が、私たちに「あなたはわたしの道を歩んでいるか。わたしから離れてはいないか。」と問うておられるのです。
 本日の物語も、まさに、主イエスご自身が「信仰とは何か」を問うておられる物語であります。ここには、相反する2種類の信仰者が登場します。最初に登場するのは、43-45節に登場する、主イエスの故郷ガリラヤの人々です。彼らは端的に申しますと、神さまの御心にかなわない信仰者の代表です。そして、その人々と比較するかのように登場するのが、物語の後半46節以下に登場する、王の役人です。主が彼と出会い、この王の役人の息子をお癒しになる奇跡物語というのが本日の箇所であります。
 今日の物語は、主イエスとその一行が、長い旅の果てに、主の生まれ育ったガリラヤ地方に帰ってきたところから始まります。普通ならば、故郷に帰ると旅の疲れから解き放たれてほっとするところでありましょう。しかし、主イエスはここで、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ(44節)」と言われるのです。預言者とは主イエスご自身のことです。つまり、わたしは故郷では歓迎されないと、言っておられるのです。ところが、続く45節には「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちは、イエスを歓迎した。」とあります。人々は喜んでいる一方で、主イエスはその人々をご覧になって全く喜ばれていなかった。つまり、両者に気持ちの温度差があったのです。
 45節の続きを読みますと、「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」とあります。つまり、この箇所から、主イエスを歓迎して迎えた人々は、主イエスを以前から知っていた人々であることが分かるのです。主を歓迎する人々はいつどこで、主と出会っていたのか。それは、遡ること2:13以下で伝えられるエルサレムでの宮清めの時のことでありました。主イエスが、過越祭のためにエルサレムに行かれた時のことです。当然、祭りのためにガリラヤ地方からも多くの人がエルサレムに来ていました。そして、2:23は、このように伝えます。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」本日の物語に登場するガリラヤの人々とは、この2章の宮清めの物語の時に、主イエスの不思議なしるしを見て、信じた人々であったのです。
 ここで注目すべきは、続く2:24の言葉です。23節からもう一度続けてお読みします。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。」つまり、主イエスと再び出会えたことに歓喜するガリラヤの人々を、主は以前から信用していなかったのです。
 ある注解書は、ガリラヤの人々の信仰を「奇跡信仰」であると説明します。しるし、つまり奇跡を目撃したり体験したりすることによって信じるようになる信仰のことです。ガリラヤの人々は、エルサレムで主イエスの数々の奇跡を目にして、このイエスという人は本当に救い主、メシアかもしれないと思いました。だからこそガリラヤに来られた主イエスを迎え入れて歓迎したのです。彼らの信仰は、真の信仰とは程遠いものでありました。人々は、自分の願いが叶えられるかどうかで心がいっぱいでした。そして、自分の願いがかなわなかったら、あっさり他の救い主を求めてしまうような、神を捨ててしまうような信仰であったのです。
 ところで、しるし・奇跡とは、そもそも何でありましょう。ヨハネによる福音書では、そもそも、イエスさまがどんなお方であるかを指し示す事柄を「しるし」と呼ぶのです。主イエスがなさる「しるし」を見て、聞いて、体験して、「イエスこそ我が主、我が神」であると告白することへと導かれていく、これが本来のしるしの意味であるのです。その意味において、ガリラヤの人々は、主イエスをがっかりさせたのです。
 主はガリラヤ地方のカナという場所に行かれました。そこは、以前、結婚式の席で主イエスが水をぶどう酒に変える奇跡を行った場所です。主がまた再び奇跡を行ってくださるかもしれない。人々の期待はいよいよ高まっていました。そのような時、主イエスの前に、ある一人の人がすすみ出て、「息子が病気で死にそうです、どうか一緒に来て息子を癒してください。」と訴えました。この人は「王の役人」であったと聖書は伝えています。この人が仕える王様とは、ヘロデ王であったと考えられています。ガリラヤ地方は当時、ローマ帝国の属国でありました。その地方を納めていたのがヘロデ王です。そこに仕える役人の一人が主イエスに助けを求めたのです。王の役人ですから、地位ある権力者でありました。人々は、この人の言うことは聞かざるを得ない。王の名によって、周りに自分の言うことを聞かせることはいくらでもできたことでしょう。その人が、息子の病の前で無力さを感じている。思いのままの人生を送ってきた人が今まさに、自分の力ではどうしようもない事を経験しているのです。もう、息子を救えるのは、主イエスしかいない。この人は、きっとそのような思いでやってきたのでありましょう。
 しかし、主は、この王の役人の訴えに、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない(48節)」と答えます。この「あながたがた」とは、王の役人を含めたガリラヤの人々のことです。主イエスの周りには、たくさんの人が奇跡を求めて集まっていたのでありましょう。そこで、主は「あなたの信仰は、真の信仰であるか」と問いかけておられるのです。もちろん、王の役人もその問いかけを受けた一人でありました。
 しかし、それでもなお、王の役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください(49節)」と願います。読みようによっては、主イエスの大切な問いかけを無視しているような言葉とも取れます。王の役人は、「それでは、真の信仰とは、どのようなものですか。どうか主よ、教えて下さい。」そのように求める事はしないのです。ただひたすら、どうか救ってくださいとお願いするのです。息子の事で頭がいっぱいであったのでしょう。こんな事をしている間に、もう死んでしまっているかもしれない。主よ、死なないうちに、どうか来てください、そう願うこの父親の思いは真実であり、真剣でした。主イエスは、この願いに対して、「わたしの問いに答えなさい」などとは言われませんでした。ただ一言、こう言われるのです。「帰りなさい。あなたの息子は生きる(50節)」
 王の役人の願いは、主イエスがカファルナウムにいる息子のところまで来て、癒して下さることでした。しかし主イエスは、その彼の願い通りにはされませんでした。だだ、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というお言葉のみをお与えになったのです。しかし、その言葉を王の役人は素直に受け入れました。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った(50節)」と聖書は伝えるのです。するとその帰り道で、息子の病気が癒されたという知らせが届きました。熱が下がり、癒された時刻は、主イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃった、まさにその時刻だったことが分かったのです。
 ところで、本日お読みした旧約聖書、ダニエル書の主人公、預言者ダニエルは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神に仕える、真の信仰者でした。そして、ダニエルもまた、この王の役人の息子のように、命の危険から、神の不思議な奇跡によって救われる経験をした一人であったのです。神さまの不思議な奇跡の業を経験する前、ダニエルは絶体絶命のピンチの最中、このように言います。
 「わたしたちのお仕える神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません(ダニエル書3:17-18)。」
 この、ダニエルは、燃え盛る炉に投げ込まれそうになっても、神様が救ってくださると確信していました。しかし、もし、「そうでなくとも」、つまり燃え盛る炉から救い出されなかったとしても、わたしは他の神を信じることはないと宣言するのです。
 本日の物語は、このダニエルの「そうでなくとも」という信仰の証を思い出させます。息子をなんとか主イエスに救っていただきたい。その一心で主のところへとやってきたのです。それは、「主イエスこそ、病の息子を救うことができるお方に違いない。主イエスこそ、必ず息子を救ってくださる。」という確信が彼の中にはあったからです。
 しかし、主は彼が求めた通りにはなさいませんでした。ただ一言「帰りなさい。あなたの息子は生きる(50節)」という言葉を与えたに過ぎなかった。それをすんなり信じる方が普通は難しい話です。僕を家にやって、本当に息子が癒されていたことを確かめてから信じよう。そのようにもできたかもしれません。しかし、彼は、主イエスの言葉を疑わなかった。自分の求めとは違うことが起こっても、「たとえそうでなくとも」主イエスの言葉を素直に受け入れ信じたのです。
 主イエスが、王の役人に言われた「あなたの息子は生きる」という言葉は、他の翻訳では、「あなたの息子は助かる」や「あなたの息子は癒される」などと訳されておりました。新共同訳聖書はそれを、原文に忠実に「あなたの息子は生きる」と訳しています。それは、主イエスの癒しの業が、単に瀕死の状態から容体が持ち直して元気を取り戻していくだけでないということです。
 王の役人の息子は、主イエスの言葉を通して「死ぬ存在」から「生きる者」へと変えられたのです。聖書は、物語の最後に、王の役人もその家族もこぞって主イエスを信じたと伝えています。この家族の心の中には、主イエスが言われた言葉がずっと生き続きていたに違いありません。「帰りなさい。あなたは生きる。」その言葉によって、彼らは主のもとへと帰って行ったのです。生きるものへと生まれ変わっていったのであります。私たちも、この主の言葉を信じ、いつもどんな時も主の招きを受けて主の元へと帰ってゆく者でありたい、その喜びに生かされて歩みたいと願うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:04| 日記