2021年01月30日

2021年2月7日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「われらが赦すごとく、われらの罪も赦したまえ」
聖書:マタイによる福音書18章21節〜35節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「目を覚まして生きる」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書13章32節〜37節

感染症対策をした上での礼拝です。皆様のご来会を心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:50| 日記

2021年1月31日 主日礼拝説教「復活の希望に生きる」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書5章1節〜9節a

祈り
 天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。今朝、あなたに命与えられ今日を生きよと命じられました。そして礼拝に私たちを招いてくださり、あなたを賛美できます幸いに、深く感謝を申し上げます。どうか、この時、初めから終わりまで、あなたが共にいてくださり、礼拝を捧げる一人一人の心を一つにし、高らかに、あなたの御名を賛美する礼拝を捧げられますようにお導きください。
 あなたを信じます。あなたの御名をあがめます祈りながら、私たちは同じ口で隣人をさばいてしまいます。罪の虜となり、あなたとの関係に背を向け、自分を愛するように隣人を愛することができないわたしたちであることを、今御前に告白いたします。どうか、今朝、改めて御言葉を通して、あなたがわたしたちを捉えてくださり、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しに立ち帰ってゆくことができますように。
 新型コロナウイルスの感染は、世界中で拡大の一途をたどり、私たちは今もなお、安心して御堂に集って礼拝をすることに難しさを覚えております。しかしどうか、この試練の時にもあなたが聖霊の豊かな御働きをもって私たちを祝福してくださり、それぞれの群れがこの朝、霊と真理をもって礼拝を捧げ、あなたから与えられる喜びと希望の御言葉を通して信仰を確かにしてゆくことができますように。
 石山教会は、今、牧師館の新築に向けて歩みを進めております。どうかその歩みが人の思いではなく、全てあなたの御心によってなされますようにお導きください。この牧師館の建て替えの計画一つ一つを通して、あなたの栄光があらわされますように。また私たちは今、そのためのささげものをしております。どうか、主イエス・キリストが十字架によって命をささげてくださったことをまず心に留め、わたしたちひとりひとりがささげものをなしてくことができますように。
 病の内にある兄弟姉妹、心痛みを覚えている方々を特に、あなたがかえりみてくださり、あなたの癒しの御手の内に、新たに生かしていただきますように、心より祈ります。
 過ぐる日、あなたの御許に召された、聖徒達を覚えます。どうか、今、あなたの御手の中で、真の平安を得ていることを信じるものとしてください。また、愛する者を失い、悲しみのうちにいる者を、どうか、御言葉によって慰め励ましてください。天にある民も、地にある民も、共に主の復活の希望に生かされ、高らかに、あなたを賛美することができますようにお導きください。
 全てのことを感謝し、全てのことを委ねて、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン

説教「復活の希望に生きる」

 本日与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書5:1-9aであります。主イエスが行われた3つ目の「しるし」を伝える物語です。主イエスとその一行は、祭りのためにエルサレムへと行かれました。エルサレムの神殿近くに「ベトザタ」と呼ばれる池があり、その池には5つの回廊がありました。そこには大勢の病人がいて、本日の物語は、その中のひとりの人が、主イエスと出会い、病を癒されるという話であります。
 聖書は、この人を、「38年も病気で苦しんでいる人(5節)」と伝えます。38年という年月は、一人の人生において、とてつもなく長い年月でありましょう。この人が何歳であったかは、分かりません。しかし、人生の半分、もしくはそれ以上の時間を病の内に過ごしてきたのであります。38年という年月は、この人に、人生の諦めと絶望を与えるに十分であったことでしょう。ただ、彼には一筋の希望が残されていました。それが、目の前のベトザタの池であったのです。
 この「ベドザタ」の池の回廊とは、いわゆる宗教的な療養施設でありました。宗教的な施設といっても、真の神さまを崇めていた訳ではありません。異教の神々を奉る場所でありました。少し調べてみたところ、この「ベトザタ」の池の回廊は、どうやら実在の場所だったことが証明されているようです。この「ベトザタ」の池は、自然のものではなく、2つの四角い人工池でありました。そして、その人工池を取り囲むように、4つの回廊、また、2つの池の境界線に1つの回廊、合わせて5つの回廊があったようです。古代ローマ帝国の時代、つまり新約聖書の時代には、ギリシヤ神話の医学の守護神を祀る、宗教的な治療所が各地に建てられていました。このベトザタの池の回廊もその一つと考えられているのです。
 もしかしたら、様々な手立てをしつくしても、良くならず、神さまにすがるしかない、という人も多かったかもしれません。しかし、彼らが信じていたのは、真の神さまによる救いではなく、異教の神々でありました。少し補足をいたしますと、本日の聖書箇所には4節3b-4節が欠けています。ヨハネによる福音書の巻末(p212)にそれが記されております。聖書とは、オリジナルの原典というものは既に存在せず、後代の様々な写本(原典を手書きで写したもの)が残されているだけです。写本によって少々の違いがあり、今からお読みする4節3b-4節は、写本によっては記されていたりいなかったりする文章であります。そこにはこうあります。

「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」

 この回廊にいた人々は、38年間ただひたすら、目の前の池の水面が動く瞬間を待っていたのです。真っ先に水に入る人だけが癒された、とありますから、その瞬間を見逃して他の人に先をこされる訳にはいきません。ここに集う人々は、お互いを思いやるばかりか、どこか競い合ったり排他的になったりしていたのかもしれません。このような方法で本当に治った人がいたのかは分かりません。むしろ、ある意味、これは、異教の迷信のようなものであったと言えるでしょう。しかし、皆、そこに希望をかけていた、いや、そこにしか希望がなかった、これ以外病を治すすべがなかったという方が正しいのかもしれません。
 しかし7節には、この病を癒された人の嘆きの言葉が記されています。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」おそらく、彼の病は手足が麻痺して動かないような病気であったのでしょう。誰かの助けを借りて運んでもらわないと水の中へ入ることはできなかった。後からきたものにどんどん先を越されていったのでしょう。この人は、目の前の一握りの希望さえ、手を伸ばすことも叶わず、ただ眺めるだけでありました。自分の力ではどうしようもなく床にしばられ、這い上がることもできず、ただ死を待つしかない、そのような絶望の淵にいたのです。
 ところで、この物語は冒頭で「ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた(5:1)。」と記しています。ユダヤ教には、過越祭、仮庵祭、五旬節の三つの大きなお祭りがあり、その時々に、各地からエルサレム神殿へ巡礼をする習慣がありました。その習慣に倣って、主イエスとその一行も、エルサレムへと上っていかれたのです。この回廊の人々も、その祭りの賑わいの音を聞いていたことでしょう。自分たちも行きたいと思っていたかもしれません。しかし、こんな体では無理だろう、自分には無関係の場所だろう。そのような悲しみがあったと思います。
 また、異教の迷信を信じるような人々でしたから、当時のユダヤ人からは偶像崇拝だとして、律法を守らない不届き者、救われる価値もない不信仰な者たちだ、と見なされていたのです。まわりの人から蔑まれ、見放され、無視され、当時の価値観・常識から見れば、救われる価値のない、弱くてちっぽけな存在であった人。様々な、悲しみ苦しみを抱える小さな存在であった人。しかし、このような人のもとを、主イエスは、訪れてくださったのです。
 この人がいる場所、そこは普通、ユダヤ人が絶対に立ち入らない場所でありましょう。しかも、加えて申し上げるなら、この病の人は、異教の迷信を信じていたくらいでありますから、彼の方から、主に助けを求めて願っていた訳でもありませんでした。しかし、今ここにこそ、救わねばならない人がいる。そう主イエスは彼の存在を心に留めて、ただ一方的な御意思によって、主の方からこの人を訪ねてくださったのです。
 主イエスは、その人をすぐさま見つけて、その人を見るなりその苦しみの全てを「知って」くださいました。そして彼に「良くなりたいか(6節)」と尋ねます。この「良くなりたいか」という問いかけは、原文を読みますと、「健康になりたいか」と直訳できます。病の癒しと聞くと、医療を受ける以外に、病気は治らないだろうと思うかもしれません。もしくは、「病は気から」などという言葉があるように、励ましの言葉などによって気持ちが上向いたことで、病それ自体は完治してはいなくとも心が元気になるということも考えられるかもしれません。もしかしたら、彼が信じる迷信もそのような類のものであったかもしれません。しかし、主イエスの癒しの業は、「健康になりたいか」という言葉通り、病の体だった人が、健康な体になるということを意味していました。それは医学や、迷信による癒しとは根本的に別の事柄であったのです。神さましかなし得ない業を、今ここで、主イエスは執り行われたのでありました。
 ところが、長年求めてきたものが、今まさに目の前に与えられようとしているにもかかわらず、彼には、それが見えていませんでした。「健康になりたいか」という問いかけに、彼は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。(7節)」と答えます。彼の目には、目の前にいるお方がどのように映っていたのでしょうか。ああ、もしかしてこの人は私を水の中に運び入れようとしてくれているのだろうか、と思ったのかもしれません。もしくは、久しぶりに誰かに話しかけられて、自分が求めているものはもうずっと与えられないのです、と言ってみたのかもしれない。いずれにせよ、彼には、目の前のお方が、この自分を救うただお一人のお方、救い主であることが分かっていなかったのです。
 主イエスは、彼のその言葉を聞いた上で、「起き上がりなさい(8節)。」とお命じになりました。そしてその人はすぐに良くなりました、健康になりました、主の癒しの業が行われたのです。ここで、注目すべきは、主が、この人に向けて言われた言葉であります。主イエスは、「起き上がりなさい。」という言葉に続けて、「床を担いで歩きなさい。」と言われます。「床」とは、この人が病に伏せっていたその寝床のことでありました。普通に考えますと、「起き上がりなさい」という言葉だけで十分ではないかと感じます。しかしなぜ主は、「床を担いで歩きなさい」とあえて命じられたのでしょう。
 そもそも「床」とは、この癒された人にとって、38年間縛り付けられていた苦しみの象徴でありました。常識的に考えても、健康な体を取り戻して新しい歩みを始めようとする人には、床はもはや必要ないものであったはずです。しかし、主イエスはあえてその床を担いで歩き出せと言われる。私は、この主イエスの一見、普通では理解しがたいご命令にこそ、私たちに語られる深い慰めのメッセージがあるように思うのです。
 本日お読みした、詩編30編は、イースターによく読まれる箇所で、死からの復活について記されています。「主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ墓穴に下ることを免れさせわたしに命を得させてくださいました(4節)。」「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。わたしが死んで墓に下ることに何の益があるでしょう。(9-10節b)」という言葉が、主イエス・キリストの福音の光の中で、私たち信じる者に与えられる永遠の命の預言として読まれてきたのです。詳しくは触れませんが、この詩は、イスラエルの王ヒゼキヤが死の病を患った時に神さまに祈り、その祈りがきかれて寿命が伸ばされたという物語が背景にあります。ですから、「主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなくわたしを引き上げてくださいました(2節)。」の「敵」とは、「死」のことであります。
 主イエス・キリストは、十字架で死んだ後、3日目に蘇りました。主の御復活は、まさに、全ての人の「敵」である「死」に、主が打ち勝った、勝利された出来事であります。主イエスの御復活を指し示す言葉が聖書の中には度々記されますが、その中に「死者の中から復活された」という言葉があります(ヨハネ3:22)。この「復活された」という言葉は丁寧に翻訳しますと「死者の中から起き上がらせられた」となります。まさに、本日の物語で主イエスが、病の人にかけた「起き上がりなさい」と同じ言葉なのです。
 つまり、主イエスは、病の人の癒しという「しるし」を通して、何よりもこれから起こる御自身の甦りの出来事を指し示しておられたのです。これから後、主イエスの十字架の死と復活によって全てのことが成し遂げられた時、弟子たちも、そしてこの病から癒された人も全てを理解したことでしょう。主イエスが神によって死から起き上がらせられた時、この病の人は、こう思ったに違いありません。あの時、わたしも病が癒された時、主は私に「起き上がりなさい」と言ってくださった。あれはわたしの甦りであったのだ。
 そしてもう一つ、主イエスは、「床を担いで歩きなさい」と言われた。主によって甦らされた私の人生は、床を担ぐ人生なのだ。死の象徴である床を、もう二度と見たくもないという床を、担いで歩み出す人生。普通ならばすすんでしたくはない歩みのようにも思えます。なぜどうして主はそのように命じられたのかとも問いたくなるかもしれません。有名な古代教父アウグスティヌスは、この箇所の説教で、「床」は私たちの「隣人」であると言いました。主から病癒され命をいただき、そのことによって隣人を愛する力を得て、隣人のために生きてゆく人生、それを、「床を担ぐ」ということで言い表したのだということです。私は、これを読んでもっと言うならば、「床」とは自分の「敵」ではないかと感じました。隣人を愛することは、そう簡単にできないこともあります。全ての隣人が、自分にとって良い人だとは限らないからです。到底愛せないと思うような人もいます。また、嫌なこと、悲しいことを受け入れていくことも、そう簡単にはできません。そのような、人生の中で、自分を苦しめるもの、受け入れがたい人、また、私たちが決して逃れることはできない「死」それらの「敵」を、主は愛せと言われた。それが、この「床を担いで歩きなさい」という言葉の根底にあるのではないかと私は思わされたのです。
 床を担いで歩む人生は、自分自身の力では歩みきれない人生かもしれません。しかし主イエスは、「起き上がりなさい」「床を担いて歩きなさい」という言葉を通して、その人生を歩むことを可能としてくださっているのではないでしょうか。主に生きよと命じられている、あなたを救いたい、あなたを愛していると教えられている。そのような神さまの愛を、私たちが素直な心で受け入れ信じる時、私たちは自分では困難と思える人生を、主が共に担い、歩んでくださっているということを知るのです。
 主イエスは、ここに集う私たちにも、「起き上がりなさい」「床を担いで歩きなさい」と言われています。その言葉を素直に受け入れ、主イエスの御復活を思い起こし、主イエスの御言葉に生かされて歩み出して参りたいと願います。

祈り
 天の父なる神さま。新しい御言葉の恵みを感謝します。私たちは、自分の人生が自分のものであるかのように振る舞い生きてきました。しかし、あなたが起き上がりなさいと言ってくださらなければ、床を担いで歩きなさいと言ってくださらなければ、私たちは起き上がることも、困難を受け入れ歩みを進めることもできません。2000年前、あなたが主イエス・キリストの十字架によって成就してくださった救いの恵みに固く立ち、ただひたすらに自分を明け渡し、あなたのものとして恵みに満たされて生きることができますように、わたしたちをどうかお導きください。この喜びの福音が全ての人の心に届きますように、私たちを聖めて用いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:45| 日記

2021年01月25日

牧師日記@

ハレルヤ!
主の御名を賛美します!!

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 教会の方から譲っていただいたカメラで初めて写真を撮りました。まだまだ、未熟ですね( ´∀` )
 講壇の左を見て頂ければわかりますように、説教壇にアクリル板が設置されました。ご奉仕いただきましたことを心より感謝です。
 それにしても、こんな時代が来るなんて、思いもよりませんでしたね。礼拝も制限され、愛餐(会食?)も行えません( ノД`)シクシク…
 ウィルスによって、沢山の人々が傷ついている、その一人ひとりの上に、神様の慰めと平安とをお祈りしています。

「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」(詩編23:5)

 会食はできないけれど、神様は、私達を食卓に招き、御言葉と聖餐の恵みを整えてくださいます。目に見える糧も良いけれど、目に見えない糧を共に分かち合いたいものです。

 皆様の上に、神様にお守りを心より、お祈り申し上げます。


posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:40| 日記