2021年02月20日

2021年2月21日 主日礼拝説教「恵みに与る裏切り者」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書14章10節〜21節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書14章10節〜21節の御言葉であります。10節から11節の御言葉を改めてお読みします。「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」。
 今朝、私達は、受難節の礼拝を迎えています。主イエス・キリストの受難において、大きな役割を果たした人物。それが、イスカリオテのユダであります。このユダが、主イエス・キリストを裏切りました。そして、祭司長たちに引き渡しました。
 この裏切りは、決して、金銭目的ではありません。聖書によると、まず、ユダが、主イエス・キリストの引き渡しを、申し出たのであります。つまり、金銭目的ではなく、もっと、強い意志、積極的な意志をもって、この裏切り行為は、行われたことになるのであります。
 それでは、どうして、イスカリオテのユダは、主イエス・キリストを、裏切ったのでしょうか。答えは、一つです。「わかない」ということです。「知る必要はない」ということであります。なぜでしょうか。聖書には、明確に書かれていないからです。
 それでは、なぜ、聖書は、一番、注目すべき、裏切りの目的や理由について、記していないのでしょうか。実は、それが、今朝の御言葉のカギとなります。この問いを、心のどこかにとめながら、続きの御言葉に聴いて参りたいと思います。
 12節から17節の御言葉を改めてお読みします。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています。」すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。』弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた」。
 ここでは、「除酵祭の第一日」とあります。しかし、これは、少し間違った表現です。通常、「除酵祭」は、「過越祭」の後に行われます。正確に申し上げますと、過越祭前日の夕方までに、小羊を屠ります。ユダヤでは、午後6時に日付が変わりますので、日付が変わった段階で、屠った小羊を、祈りと賛美をもって、家族みんなで、食べます。これが、正式な手順であります。ですので、内容的に申し上げますと、この御言葉は、過越祭の前日と当日の話をしているということになります。
 当時、過越の食事は、エルサレム市内で、行われることが通例でありました。そうでありますから、遠方の巡礼者にとっては、その食事を、どこでするのか。それが、重要であったわけであります。ここで弟子たちが、食事の場所を気にしているのも、そのような通例、慣習が背景にあると言えるでありましょう。但し、このような出来事こそが、この御言葉の恵みを、ますます強調することになるのです。
 主イエス・キリストは、弟子たちを使いに出します。そして、過越の食事の準備をさせます。そして、全てが、主の言う通りに、進んでいきます。これは何を意味しているのでしょうか。
 これは、つまり、この食事のホストが、主イエス・キリストなのだ、ということなのであります。主が、全てを、備えてくださった。そのところに、十二人の弟子たちが招かれた、ということなのであります。主イエス・キリストが備え、主イエス・キリストの部屋で、主イエス・キリストを中心とした食卓に、弟子たちが招かれた、ということが、ここで強調されているのであります。
 そして、ここで最も重要なことは、この食卓に、十二人が招かれた、ということなのであります。そこには、勿論、イスカリオテのユダもいます。ユダもまた、その恵みの座に招かれていた、ということなのであります。それが、ここで、とても大切なことなのであります。
 さて、主イエス・キリストは、この食卓の席で、「弟子の裏切り」について語り始めます。18節から21節の御言葉をお読みします。「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。『十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった』」。
 ここで明確にありますように、主イエス・キリストは、既に、弟子の裏切りを知っていた、ということであります。最近、「知った」というわけではありません。
 主イエス・キリストは、既に、三度の受難予告をしてまいりました。そこで、主は、ご自身が「逮捕される」とは言いませんでした。「引き渡される」という言葉を使っていたのであります。
 つまり、もう既に、裏切られることを、最初から分かっていた、ということなのです。その上で、この食卓へと、弟子たちを招かれた、ということなのであります。
 それでは、なぜ、主イエス・キリストは、ここで、このような、とても、はっきりと、厳しい御言葉を、突然、言い出したのでしょうか。弟子たちを脅すためでしょうか。ユダを引き留める為でしょうか。
それは違います。この御言葉を受けて、弟子たちは、どうしたでしょうか。全員が、心を痛めます。そして、言うのです。「まさか、わたしのことでは」と。
 つまり、主イエス・キリストの御言葉を受けて、全員が、自分の中にある、「裏切りの心」を見たのであります。自分ではないか、という裏切りの可能性を見たのであります。
 つまり、主イエス・キリストの御言葉は、ユダだけではなく、全ての弟子たちに、裏切りの思いを意識させたことになるのであります。実は、これこそが、ここで語られた主の御言葉の、本当の目的だったのであります。
 主イエス・キリストに、罪を問われた時、そこで、誰もが、自分の罪を見ざるを得なくなるのであります。誰もが、その罪の可能性を見つめざるを得ないのであります。
 主イエス・キリストを裏切る理由。それは、みんな違います。誘惑に負ける人もいれば、方向性の違いで去って行く人もいるかもしれません。理由は、みんなバラバラなのであります。共通していることは、主イエス・キリストが、罪を問う時、そこで、誰もが、裏切りの可能性を見つめてしまう、ということなのであります。
 だからこそ、ユダが、どんな思いで、裏切ったのか。それを、聖書は、あえて記さないのであります。なぜなら、この問題は、ユダだけの問題ではなく、弟子一人ひとりの、そして、私達一人ひとりの問題だからなのであります。誰もが、ユダのような裏切り者になりえるのだ、ということなのであります。
 よくクリスチャンの間でも、「私のような罪人は…」という言葉を使うことがあるかもしれません。「私はユダのような者ですから…」という言葉も、たまに聞くことがあります。ある意味では、その人の謙虚さを表す言葉。そのようにも受け取れるかもしれません。
 しかし、本当は、そんなに軽々しく言える言葉ではありません。なぜなら、ユダのように裏切るということは、神様の前で、この自分の全人生が、否定されることを意味しているからであります。「生まれなかった方が、その者のために良かった」ということは、この私の存在、人生を全て否定されることだからであります。生きていても、死んでいるような存在になる、ということなのであります。だからこそ、これを軽々しく言うことはできません。もし、それが軽々しく言えるならば、それは、本当の罪の深刻さと神様の厳しさを知らないからなのであります。
 私達は、皆、裏切る可能性があるのです。罪を問われるならば、「それはわたしのことですか」と問い返したくなるのです。身に覚えが、もう沢山、ありまくりなのです。
 そして、それ故に、その罪のゆえに、神様の御前で、自分の存在が否定されていくしかない。そこに、罪の悲惨さの中にある、私達の現実がある。本当に、自分は救われているのか。そのような気持ちになるかもしれません。
 私達人間の力では、救われません。しかし、神様が、その救いを成し遂げて下さるのであります。生まれなかった方が良かった。そう言われるほどに、主の目に罪深く、価値を失っている。その私達が、今、主の食卓に招かれているのであります。私達の罪も弱さも知られています。しかし、それでも、主は、あなたを主の食卓へと招き、神様の家族として、価値ある者として受け止めてくださるのであります。
 そして、この食卓は、後に、主の晩餐の食卓となります。つまり、その招かれた食卓を通して、御子イエス・キリストが、私達の罪のために、身代わりとなって裁きを受けてくださる。そして、そのキリストの犠牲によって、この自分が、神様の目に、価値ある者として受け止められている。そのことを味わうことが許されているのであります。この主が、備えたもう食卓を通して、御子イエス・キリストの十字架の贖いを知り、そこで、私達は、初めて、生まれてきて良かった。自分は、本当に幸せだ。そのように、喜びと賛美の声をもって宣言することができる。その幸いが、ここから、強く示されているのです。
 ユダをはじめ、全ての弟子たちに、食事を分け与えた時、主は、一人ひとりに、「あなたのために、私は、十字架に向かっていくのだ」と語りかけながら、その恵みを分かち合ったのではないでしょうか。
私達もまた、その主の弟子の一人とされています。主の目には、罪深いものであるかもしれません。罪を問われれば、それを認めざるを得ない自分がいるかもしれません。
 しかし、主は、そのあなたの目を見つめながら、「これから、あなたのために十字架にかかり、復活するのだ。そこにあなたの本当の救いと、幸いがある。」そう語りかけながら、御言葉の恵み、聖餐の恵みを分かち合ってくださるのではないでしょうか。この幸いを深く心に留めて、感謝をもって、新しく歩み出すものでありたいと思います。

天の神様、新しい御言葉の恵みに心より感謝申し上げます。あなたから多くの恵みを頂き、あなたの民として、歩みながらも、裏切りの心を問われると、否定できないところが、私達の内にはありません。私達の力では、この罪の力に打ち勝つことはできません。どうか、主よ、今、この時、あなたの御子イエス・キリストの贖いの恵みを新たにしてください。どうか、この恵みを深く味わい、御霊の力に支えられ、また、新たに歩み出すものとしてください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:01| 日記

2021年02月19日

牧師日記K「雪」

ハレルヤ!!主の御名を賛美します!!!

昨晩、滋賀県、めちゃくちゃ冷え込みました〜(´;ω;`)

昨晩は、近江八幡市の教会で、地区の役員会がありました。

大津市は、寒かったけれど、晴れていたので・・・

クロックス(サンダル)で出張へ( ´∀` )

野洲川ぐらいからなぁ

めちゃくちゃ降ってきました雪!!

サンダル間違えたーー(笑)

もう、前方が全然見えなくて(´;ω;`)

会議中もシンシンと降って・・・

会議終了21時には、ちょっとだけ積もってました!!

いつも40分で行ける道、1時間30分かけて帰りましたわ!!

会議が終わって、先生方と雑談をしていたら、ある先生が言うてました。

「寒い日もあったけど、今日は、『冬』って感じの寒さやなぁ・・・」

私も、そんなことを感じましたね(^▽^)/

「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」(ヨハネによる福音書10章22節)

この御言葉で、一つだけ違和感ありません?

「冬であった」

いや、この情報いる?

でも、聖書には、意味のない言葉はない!!

そもそも、ここで言われている「神殿奉献記念祭」とは、別名「ハヌカ祭」と呼ばれていて、マカベア記に記されている、独立戦争の勝利を記念する日らしいです。

ギリシャによって占領されていたイスラエルは、多神教を強制させられていたようです。

けれど、マカベアという人が立ち上がり、戦争して、勝利し、神殿の回復を実現したようです。それが、12月頃のことで、この冬の期間、戦勝を祝する神殿奉献記念祭が行われたようです。

でも、「冬であった」っていります? 当時のみんな、知ってたでしょこれ?

ということは、この「冬」という言葉は、単純に、季節を意味しているわけではなくて、もしかしたら「人」の「心の中」を表していたのではないでしょうか。

ギリシャに勝利したユダヤは、その後、ローマに支配されます。

喜びもつかの間ということですね(´;ω;`)

本当に、喜びたくても喜べない現実の中で、ずっと祭りが行われていたわけです(´;ω;`)

正に、心が冷え切った時代を歩んでいたのですね((´;ω;`)ウゥゥ

そこに主イエス・キリストが来られた。

何のために?

このお話の中で、主イエス・キリストは、殺されかけます。主イエス・キリストの殺害が計画されます。

心が冷え切った人間は、そこで、主イエスを救い主と受け入れることができませんでした。

その悲しい現実の中を、主イエス。キリストは、十字架に向かって、歩み続けます。

私達の罪を背負って・・・

私達の冷え切った心を、神様の愛で温かく包むために・・・新しい春を迎えるために・・・主は人間の冬を忍耐してくださる(^▽^)/

私達を支配しているのは、人ではなく、痛みではなく、イエス様の十字架の愛。その愛は、あったかいんだからぁ〜♪

あの先生の言葉が身にしみますね。「冬ってかんじやなぁ」

今、この時代、季節とかではなくて、人間が、冷え切った心に支配されていないかなぁ私達。

人間関係も冷え切っていないかなぁ・・・(´;ω;`)

皆さんの心の中にも、イエス様が訪れて下さいます。その方の存在を、そのままで受け止めて行くとき、この私のために命を捨てて下さる方が見えてくる目

自分のために、あなたのために、命を捨ててくださる御方が来てくださり、愛されていることの温かさで、私達を包み込んでくださるのよね(^▽^)/

受難のあとに復活があるように、冬の後には春がある。

春は、新スタートの時期!!(^▽^)/

新しい心で、一緒に歩んで行きましょう(*^。^*)

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昨晩、撮っておけば良かった〜Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

【一緒に聖書を読みましょ♪】ヨハネによる福音書10章22節〜41節





posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:46| 日記

2021年02月18日

牧師日記J「レントだね」

ハレルヤ!!主の御名を賛美します。

本日、2月18日は、なんと「上杉謙信」の誕生日!!!

ごめんなさい。詳しいことはわかりません(*- -)(*_ _)ペコリ

ただ、この上杉(長尾)家から、後にクリスチャンが生まれるのです!拍手

そして、その一人、長尾先生が、伝道・牧会した教会が・・・・

実は、私が、長くお世話になった母教会「越谷教会」なんです(^▽^)/

これは、長尾先生の伝説みたいなお話ですが

昔のお話です。ある日、先生が、沢山の薪を割って、お風呂を焚いていたそうです。

沢山の薪が置いてあるので「この薪はどこから来たのですか?」って尋ねてみたら。

「これはね、近所の神社の方に頼まれて、切り倒した『ご神木」なんだよ』」って言ったらしい( ´艸`)

そりゃ、誰でも切りにくいですよね〜。

でも、長尾先生は、そんなものはお構いなしなんです( ´艸`)ワイルドだろぉ〜♪

その薪で入れたお風呂の湯加減は、どうだったでしょうか。神の国で再会したら聞いてみたいです(o^―^o)ニコ

本当に、自分に与えられた信仰を貫かれる方って、すごいなぁ。。

でも、キリスト教とかって、よく「排他的だなぁ」って言われることがあります(´;ω;`)ウゥゥ

確かに、そういう部分もあったかもしれないです!

だけど、どちらかと言えば、キリスト教は、「包括的」と言った方が良いかもしれませんね。

だって、私達の信じる神様は、みんなにとっても「神様」ですからね!!

イエス・キリストの十字架の死と復活の救いは、みんなのための救いですからねぇ(^▽^)/

聖書の中で、一番、「え!俺ですか〜?いやいや俺かよ〜泣」ってなった人を一人紹介します。

それが、「キレネ人のシモンさん」です( ´∀` )

「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」(マルコによる福音書15章21節)


シモンさんは、ユダヤ人として、過越祭に参加している最中でした。そんな時に、思いもしない無茶ぶりを経験するわけです。

でもね、シモンさんは知りませんが、このシモンさんの息子さんが、実は、ローマ教会の一人なんです。つまり、クリスチャンになった!!(^▽^)/

これってすごくないですか?だって、言うならば、全然、イエス様のこととか知らないんです。田舎の方って書いてありますから、情報もあんまりなかったかもしれない。いや、少しぐらいはあったかな。

でも、自分には何も関係のないことだった。みんな、なんか、めっちゃ罵声浴びせてるし、俺もちょっとは、みたいな気持ちはあったかもしれません。

けれど、沢山の民衆の中で、この人が選ばれ、十字架を代わりに担いだわけです。

何を思ったのかなぁ。その時は、恐らく、「十字架、重っ!!」て思ったかもしれません。

けれど、時間がたって、教会が生まれ、お話をききながら、こう思ったのではないでしょうか。

「俺の罪が重かったんだ」って。あの十字架の重さは、自分の罪の重さだと気づいた。

あの時、主イエス・キリストは、自分の罪を背負って十字架にかかったのではないんだ。そうじゃない。自分の罪の重さを担ってくれた。自分のための救いだったのだって。

だから、ユダヤ教からキリスト教へと改宗した。いや、彼はしなかったかもしれないけれど、子どもたちに、その救いを受け継いでいったのではないでしょうか。(^▽^)/

この日本には、まだまだ、キリストと出会っていない方々は、沢山います。もしかすると、他の神々を信じて、安心を得ている方もいるでしょう。

わたしは、そんな人々の信心も信仰も否定することはありません。むしろ、それぞれ信じているものを大事にしたらいいと思う。

だけど、これだけは言います。

「そんなあなたのためにも、イエス様は、十字架に架けられたんだ!」

だから、私のことは嫌いになっても、イエス様のことは、嫌いにならないでくだしゃい(´;ω;`)

2月17日から受難節・・イエス様の御苦難を覚えて、その苦難こそが、私達の救いのための苦難であったことを覚えて、歩みたいものですね♪
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【一緒に聖書を読みましょ♪】マルコによる福音書15章21節〜32節
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:54| 日記