2021年02月13日

2021年2月21日 主日礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「国と力と栄えとは/限りなく汝のものなればなり」
聖書:ヨハネの黙示録19章1節〜4節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「恵みに与る裏切り者」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書14章10節〜21節

感染予防対策を行って礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:47| 日記

2021年2月14日 主日礼拝説教「優先してすべきこと」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書14章1節〜9節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書14章1節から9節の御言葉であります。1節から2節の御言葉をお読みします。「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、『民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」。
マルコによる福音書14章から、いよいよ、主イエス・キリストの受難物語、そのクライマックスが始まります。主イエス・キリストが、今、正に、十字架に向かって歩み出していく。そのような具体的な状況が、ここから示されていくのであります。
聖書によると、「過越祭と除酵祭の二日前」とあります。主イエス・キリストが、十字架に架けられたのが、過越祭の最中です。そうでありますから、正に、二日後に、主イエス・キリストは、十字架で死んでいかれるのであります。キリストの受難の意味、その恵みの重さを覚えつつ、今朝の御言葉に共に聞いて参りたいと思います。
 さて、今朝の御言葉によりますと、祭司長たちや律法学者たちは、主イエス・キリストを殺す計画を立てます。但し、「民衆が騒ぎ出すといけない」。だから、祭りの間に、実行するのは、やめておこう。そのように考えたようです。
 しかし、様々な事情が重なり、結果的に、祭りの最中に、主イエス・キリストは、十字架に架けられ、死んでいかれます。これは、一体、何を意味しているのでしょうか。
 十字架の出来事は、確かに、人間の計略によるものです。しかし、その背後において、人間の計画や思いを越えた、神様の御計画があるのだ、ということを意味しているのであります。言い方を変えて申し上げるならば、過越祭の中で、救い主は、十字架にかかる。その必要があった。いや、神様が、それを望まれたのだ、ということなのであります。
 過越祭も除酵祭も、過去に起きたエジプト脱出を記念するお祭りです。かつて、神様が、イスラエルを、エジプトの奴隷状態から解放してくださった。その神様の救いを記念する。そのような祭りです。
 しかし、この神様の救いを記念する、喜ばしい、お祭りの最中に、主イエス・キリストは、十字架に架けられたのであります。いや、先ほども申し上げましたように、そこで、神様が、その日を、御心に留められたのであります。
エジプトからの解放の時、一体、そこで、何が、決定的に起きたのでしょうか。簡単に申し上げるならば、そこで、小羊が犠牲となって殺されます。そして、その羊の血を戸口に塗ります。その血が付いた家を、主が通り過ぎます。主が通り過ぎた家は、主の裁きから救われます。こういうことが起きたのです。つまり、イスラエルは、小羊が犠牲となって殺され、小羊が血を流したことによって、救われた、ということなのです。
 そして、それと同じことが、いや、それよりも、偉大で、決定的なことが、主イエス・キリストによって実現するのだ、ということが、ここで強調されているのです。
主イエス・キリストが、私達の罪を、全て背負って十字架にかかり、犠牲となって死んでくださった。このキリストの犠牲によって、このキリストの流された血によって、私達は、罪の奴隷から解放された。神の民として、新たに生きることが許された。神の国に入ることが許された。裁きを免れ、神様のものとされたのであります。かつて起きた救いの出来事が、今、キリストを通して、更なる恵みとして、実現しようとしている。だからこそ、この日でなければいけなかったのだ、ということが、ここで強調されているのです。
この恵みを受けて、私達は、神の民として、神様にお仕えします。神様に、仕えることによって救われるのではないのです。主が、御子を捨て、御子が命を捨ててくださった。だからこそ、私達は、その主に従うのです。それが、私達、キリスト者の、新しい生き方なのであります。
しかし、果たして、私達は、完全に仕えることなど、本当に可能なのでしょうか。御子が命を捨てられたように、奉仕をし、仕えることなど、本当に可能なのでしょうか。まだ、どこかで、あの人と自分、自分とあの人を比べ、どちらの奉仕が良いとか悪いとか。気にしていませんか?そのことを問いながら、先の御言葉に聴いて参りたいと思います。
3節から5節の御言葉をお読みします。「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた」。
シモンの家で、食事の席に着いたとき、主イエスのところに、一人の女性が、訪れます。そして、主イエス・キリストの頭に、ナルドの香油を注いだ。
聖書によると、「石膏を壊した」とあります。つまり、全ての香油を、主イエスの頭に、注ぎかけた、ということでありましょう。そして、また、その価値は、三百デナリオンであったとも記されています。一デナリオンは、一日の労働賃金と言われています。つまり、一年分の労働賃金に値するものを、主のために献げたのであります。
彼女は、なぜ、このようなことをしたのでしょうか。実は、明確な理由は、彼女からは語られていません。主イエス・キリストの仰せになるように、彼女が、主の死を予知していた。そうとも思えません。
つまり、ここには、明確な理由は書かれていない。では、なぜでしょうか。単純ことです。彼女が、主を、心から愛していたからです。主イエス・キリストのために、何かをしたい。そう純粋に思ったからです。今、自分が、主イエスのためにできることは何か。それを一生懸命に考え、その末に、自分にとって、一番の宝を献げ、キリストへの献身の思いを表現したのです。それは、言い換えるならば、彼女が、それほど、主に仕えることを優先していた。主を愛することを、何よりも優先していた、ということでもあると思うのであります。
しかし、そこにいた人たちは、憤慨します。無駄なことをするなと怒ります。ただ、この人々の発言は、はっきりと申しまして、「正論」です。間違ってはいません。それは、認められても良いでありましょう。
その上で、主イエス・キリストは、次のように語ります。6節から9節の御言葉をお読みします。「イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう』」。
「貧しい人は、いつもあなたがたと一緒にいる」。「したいときに良いことはできる」。「その気になれば、できるではないか」ということです。
しかし、果たして、私達は、一番の宝物を、全て投げ出してでも、貧しい人に施すことなどできるのでしょうか。彼女のように、一番の宝物を、全て投げ出して、主イエス・キリストに献げることなどできるのでしょうか。恐らく、弟子たちにはできなかったでありましょう。私も無理だと思います。
では、なぜ、ここの人々は、彼女に対して、こんなにも怒るのでしょうか。理由は、自分に出来ないことを、彼女がしたからです。彼女の純粋な、愛と献身を見たからです。
けれど、自分には、こんな真似はできない。自分が、この人よりも、劣ってみえる。だから、ケチをつけた。批判をした。その奉仕は、十分ではない。配慮が欠けている。そう批判したくなった。つまり、彼女の株を下げることで、今、何もできていない、その自分たちに安心を得ようとしたのです。
私達の心の中にもあるかもしれません。誰かと自分を比べ、自分はこれしかできていない。自分は劣っているのか。そう思ってしまう心はないでしょうか。
誰かと自分を比べ、自分には、出来ないことをしている人を、批判したくなることはないでしょうか。その奉仕は、完璧ではない。欠けている。意味がない。無駄遣いだ。そうやって、批判をすることで、自分自身は、教会に貢献している。教会のために奉仕をしている。そう安心していないでしょうか。
そのような、批判は、時に、正論です。人の耳からすれば、正論に聞こえます。しかし、その正論は、主のためではなく、自分を安心させるための正論なのかもしれません。私達の内にも、そのような思いが潜んでいるのではないでしょうか。
この御言葉で、大切なポイントは、何でしょうか。それは、主イエス・キリストが、この彼女の献身を、「完璧だ」とは、決して、言わなかった、ということです。「困らせないで」と、主は仰せになられたのです。
彼女がした献身は、見方によっては、確かに、不完全です。欠けた部分があります。しかし、ただ、一心に、主のために全てをささげた。自分ができる最大限のことをした。そのような人を、困らせてはいけない。批判してはいけない。共に喜び人になってほしい。ここに主イエス・キリストの御心があるのです。人の目には、小さなことかもしれない奉仕。人の目には、配慮の足りない奉仕。しかし、心をこめて、主のために何かをしたい。そう思ってしたことを、共に喜んでほしい。そこに主の思いがあるのです。
彼女は、何よりもまず、主イエス・キリストのために、自分の出来る限りをしました。それは、もしかすると、ある人の目には、欠けた献身であったかもしれません。足りなかった部分、配慮がない部分もあったかもしれません。
しかし、主イエス・キリストは、その彼女の献身を「良いもの」として受け止め、喜んでくださいます。
それだけではありません。彼女の献身を、十字架の死と結びつけてくださったのであります。これが大切なことなのです。つまり、いかなる、私達の奉仕も、主は、十字架の救いへの応答として、受け止めてくださるのだ、ということなのです。
主イエス・キリストご自身が、誰よりも、私達のために、その身をささげられたのです。命を捨てられたのです。私達を救うためにです。罪から解放するためにです。そのために、その身をささげられたのであります。
先ほども、申し上げましたが、その主の犠牲に応答して生きることが、主の弟子である、私達の務めです。しかし、現実問題、私達のしている奉仕は、小さいことかもしれない。それに、完璧に、答えることができないかもしれない。十字架の愛に、比べれば、私達が、主にできる献身は、真に小さいことかもしれない。足りないかもしれない。不完全かもしれない。
しかし、主イエス・キリストは、その一つ一つの働きを、分け隔てなく「良いもの」として受け止め、十字架の愛への応答として、受け止めてくださる。喜んでくださるのであります。
そして、最後の御言葉にも示されていますように、彼女同様に、私達の一つ一つの奉仕に対しても、私達自身が、思ってもみなかった、大きな意味を、そこに付けてくださるのであります。
キリストの体なる教会のために、キリストのために、神様のために、私達ができることは、とても小さいかもしれません。それは、人の目には、愚かに映るかもしれません。
しかし、あなたの、その心と、手の業を、主は、十字架の愛に対する、確かな応答として、主ご自身が喜んで受け入れてくださいます。自分が思ってもいないほどの価値を生み出してくださいます。その深い、大きな幸いを、私達は、ここで共に味わうことができるのです。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:44| 日記

2021年02月10日

牧師日記F「クラブ通い」

ハレルヤ!主の御名を賛美します。

すごいタイトルつけてしまいました(*- -)(*_ _)ペコリ

「クラブ」といっても、飲んだり、歌ったりのいわゆる「クラブ↑」ではありません( ´∀` )

「クラブハウス」というアプリのこと。完全招待制のアプリで、色々なトピックを持ち合って、沢山の人と会話をしたり、会話を聞いたりするアプリです。

最近、私も、ご招待をいただき、早速、使ってみました。クラブハウス内の会話は、一切、外には出してはいけないルールなので、ここでは言いませんが、本当に沢山の方々が、思い思いの会話をしています。(o^―^o)ニコ

自粛が続き、人とのつながりが希薄化したこの頃、顔は見えなくても、誰かの声を聴きたい。自分の声を受け止めてほしい。そのような人が沢山いるのだと実感させらるものです。(*'▽')

本当は、教会が、そういう居場所になれればいいんだけなぁ、とか思うこの頃です( ´艸`)

コロナ禍の影響を受けて、この一年間、教会は、様々な部分で制限を受けました。一見、教会の歩みが止まってしまったかのような錯覚もします。(´;ω;`)

しかし、出来なかったこともありますが、出来たこともあります。ライブ配信を行い、ブログをはじめられました。クラブハウス等を用いて、キリスト教や教会を知ってもらう機会も与えられました。(o^―^o)ニコ

石山教会に限らず、これからは、様々な媒体を用いて、広く福音を発信していく、新しい時代の路傍伝道が
始まるかもしれません。勿論、賛否はあるかもしれませんが・・・(。´・ω・)?

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録18章9節)

パウロの伝道旅行は、本当に、苦難の連続でした。アテネで挫折し、コリントでも苦労をします。

しかし、何も収穫がないと思わずにはいられない現実の中で、パウロは、アキラやプリスキラと呼ばれるキリスト者と出会い、クリスポ他数名が洗礼を受けます。痛みを共有できる仲間と出会えたことは、パウロにとっては、励ましになっただろうと思います。( ;∀;)

そして、「恐れるな。語り続けよ」という言葉を聞きます。

苦難の中で、それでも神様は、もう既に、この苦難に勝利しておられるということでしょうか。

それ故に、パウロは、自分の歩みを確かにするのではなく、神様が示されるままを歩み続けられたのかもしれません。それに、きっと、神様が、この厳しい地域の人々への伝道を諦めていない、ということも、パウロにとっては励みになったのかもしれませんね(^▽^)/

どんな状況に立たされていても、教会は、私達は、変わることにない、奪われることのない、神様の救いを、これからも伝えていきます!!主は、もう勝利されているのですから!!

それにしても、クラブ(ハウス)通いは、ほどほどにします!

だって、今・・・

とっても眠いですから(ノД`)

【一緒に聖書を読みましょう♪】 使徒言行録18章1節〜17節

DSCN1303.JPG

posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:20| 日記