2021年02月06日

牧師日記D「野球したい昼」

ハレルヤ!!主の御名を賛美します!!

今日の滋賀県大津市は、いつもよりも暖かく、良い天気でした。ちょっと風が冷たかったけれど、運動するにはちょうど良い。そんな感じでした(^▽^)/

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こんな日には、みんなで、スポーツとかしたいなぁ…( ´∀` )

日頃、スポーツなんとほとんどしないですが、自粛が多くて、たまには体を動かすのも悪くないなぁ、なんて思っています。

スポーツつながりで言えば、今日は、なんと、あの「野球の神様」である「ベーブ・ルース」の誕生日(1948年8月16日に召されていますが)!!野球ボール 生まれたの1895年!

因みに、この「ベーブ」という名前は、愛称です!意味は、「赤ちゃん」( ´艸`)

子どものころ、貧しい家庭で育ち、教育もろくに受けることもできず、社会人になっても、子どものような感じだったらしい。だから「赤ちゃん」と呼ばれた、という説があるんですね!!本当かどうかはわかりませんが…(*- -)(*_ _)ペコリ

このベーブさん、幼少期は、本当に苦労をしたみたいです。お母さんは、病弱で、お父さんは、夜の街関連のお仕事をしていました。両親揃って生活することはほとんどなかったみたい。その反動からか、ベーブも、順調に、わんぱくになってしまいます。

もう手が付けられなくなった親は、当時、7歳の彼を、「セント・メアリー少年工業学校」という全寮制の学校に預けたらしい。少年工業学校というと聞こえはいいですが、要するに「孤児院」みたいな学校です。
((´;ω;`)

けれど、この学校で、ローマ・カトリック教会の神父「ブラザー・マシアス・バウトラ」という人と出会います。

この神父は、めちゃくちゃ子どもたちを大切にしたようです。

勿論、子どもたちも、マシアスが大好きだったようです。漫画で言えば・・・GTOの鬼塚みたいかな。違うか(笑)

そして、ベーブも、マシアスが大好きになります。実は、このマシアスさんこそが、彼に最初に「野球」を教えた人だと言われているのです!!ベーブが、その生涯、「子どものファン」を、とても大切にしたのは、かつて、マシアスに大切にされた経験があったからなのかもしれませんね(^▽^)/

つまり!!キリスト教の働きなくして、野球の神様「ベーブ・ルース」は生まれなかった!!ということにしましょう( ´艸`) *神様という表現は少しあれですが…ご了承ください(*- -)(*_ _)ペコリ

「しかし、イエスは言われた。『子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである』」(マタイによる福音書19章14節)


この場合の「子ども」とは、決して、年齢的に幼い存在だけを意味しているわけではありません。子どもは誰かの力を借りなければ生きられない存在であり、当時の社会では、数に入れられないような立場の弱い存在でもありました。つまり、子どもから象徴されるのは、「弱さ」「無力さ」なのです。そう考えてみたら、この御言葉は、むしろ、私達にも向けられた御言葉であることが分かります。

このように、この世界で弱さに満ちた存在こそが、イエス様の御手の中に抱かれていくのです。私達もまた、自分の弱さを知って、自分の無力さにたって、イエス様の御手に飛び込んでいく時、その御手のぬくもりが分かるのかもしれません。

不安定な時代の中で、野球を通して、子どもたちに笑顔を与えた名選手は、かつて、神父を通して、イエス様のぬくもりを感じて育てられた少年だったんですね(^▽^)/

このベーブさんは、正に、アメリカン・ドリームの象徴のような方だと言われることがあります。このアメリカン・ドリームというワードの背後には、「反知性主義」というイデオロギーが潜んでいるのですが、これもまた、アメリカのキリスト教の歴史と、今の世界とも深いかかわりがあるんです!

だけど、長くなるので、その話は、また、今度にします!!覚えていたら( ´艸`)

明日は、日曜日!!自分の力を捨てて、開かれたイエス様の御手の中に飛び込んでいきましょう!!

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【みんなで聖書を読みましょ♪】 マタイによる福音書19章13節〜15節
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:59| 日記

2021年2月14日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」
聖書:ルカによる福音書22章31節〜34節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「優先してすべきこと」須賀 工牧師
聖書:マルコによる福音書14章1節〜9節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:40| 日記

2021年2月7日 主日礼拝説教「目を覚まして生きる」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書13章32節〜37節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書13章32節から37節の御言葉であります。32節の御言葉をお読みします。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」。
 「その日、その時」とは、何でしょうか。これは「世の終わり」のことです。「世の終わり」と聞くと、不安になります。何か、恐怖が、訪れるのではないか。そのような気持ちになるかもしれません。
しかし、実際に、「世の終わり」とは、私達を怖がらせるための教えではありません。マルコによる福音書13章27節には、次のような御言葉があります。「そのとき、人の子(イエス・キリスト)は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。
ここで、明らかにされていますように、私達キリスト者にとって、「終末」は、「主によって呼び集められる時」であり、「主と出会う時」であり、「主と共にいられる時」なのであります。正に、絶望の時ではなく、救いが完成する時なのであります。だからこそ、私達は、主イエス・キリストの、この約束を信じ、主の御帰宅を、希望の内に、待ち望みながら生きる。これが、キリスト教の終末信仰なのであります。大切なことは、その約束を信じて、「期待して待つ」という姿勢なのであります。
 しかし、この「終わりの日」が、いつ来るか。それはわかりません。それ故に、そのことに不安を覚える人もいます。これから先のことを、あらかじめ知っておきたい。知って安心したい。そのように思う人もいるかもしれません。
しかし、今朝の御言葉は、それを「知ること」を許してはいません。聖書が示す信仰は、私達が、色々なことを知って、納得して、安心を得るような信仰ではないのです。そうではなくて、あくまでも、「約束を信じて待つこと」なのであります。
 それでは、私達が、望むような安心は、ないかもしれません。待ちきれず、信仰の目が閉じてしまうこともあれば、神様を信じることに虚しさを感じる。そのような時もあるかもしれません。
しかし、主イエス・キリストは、「世の終わり」の救いを約束するだけではなく、「世の終わりまで、私達と共にいる」とも約束されました。一人で耐えるのではありません。一人で、頑張るのではありません。主が共にいて下さる。主が共に歩んで下さるのであります。
 考えてみてください。この御言葉には、このようにも書かれています。「天使たちも子も知らない」と。正に、私達と同じ立場に、主が立っていてくださる、ということではないでしょうか。
この御言葉は、決して、主イエス・キリストと神様が別である、ということではありません。あるいは、父なる神より子が劣っている、ということでもありません。そういう意味ではありません。主イエスが、それだけ、父なる神を信頼している、ということなのです。父なる神を信頼し、全てを委ねているからこそ、それを知る必要はないのです。
 だからこそ、キリストに連なる私達もまた、父なる神を信頼し、父なる神だけが、「終わり」を知っている。そのことで満足し、ただ、主の救いの約束を信じて、キリストと共に待つ。これが信仰者として、終末に向かう神の民としての姿なのであります。
 しかし、ここで忘れてはいけないことがあります。私達は、ただ終末を待つだけではありません。終末に向かって「生きる」ということが大切であります。では、どう生きるのか。即ち、終末に向かって、今と、そしてこれからの間を、どう生きるのか。それが、ここから示されていることなのであります。
33節から34節の御言葉をお読みします。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」。
 ここで大切なことは何でしょうか。まず、それは、このたとえの主人が、「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせた」ということです。この僕の姿こそが、「終末に向かって生きる」私達の姿であります。
では、この「仕事」とは、具体的に何でしょうか。実は、この文章を正確に訳すと、次のようになります。「僕たちに【彼の・主人の】仕事を割り当てて【責任・権威】を持たせ」。
ここで大事なことは、僕たちの仕事が、主人の「仕事」である、ということです。言い方を変えるならば、僕たちの仕事は、「キリストの仕事」であるということです。
 つまり、私達のすべきことは、自分の仕事をすることではありません。キリストの仕事を、キリストに代わって担うこと。その権威と責任が、私達に(教会に)委ねられているのであります。あくまでも、教会の働きは、「主人であるキリスト」であり、そのキリストこそが、教会の頭なのであります。私達は、そのキリストの働きに、参与させていただく。そのような立場なのであります。
 それでは、キリストの働きとは何でしょうか。それは、色々な言い方があるかもしれません。ただ、大きく言うならば、神様と人間とをつなぐ「仲保者」です。神様と人とをつなぐ「架け橋」ともいえるでしょうか。
そうであるならば、私達の務め、教会の務めとは何でしょうか。それは、神の国と、この世とをつなぐ架け橋になる、ということであります。
しかし、その務めは、私達自身の務めではありません。主人であるキリストの務めです。そのキリストの務めに、私達が関わらせていただく、ということなのであります。私達ではなく、キリストが、「あなたと神」を繋いでくれる。そのために、キリストが何をしてくださったのか。キリストが何を語ってくださるのか。その幸いを指し示し続けていくこと。これが、私達に、教会に委ねられた働きなのであります。
この使命を成し遂げるために大切なことは何でしょうか。それは、キリストの働きを、私達自身が知り、その恵みに生き続けることであります。その福音に立ち続けることであります。その喜びと希望に生き続けることなのであります。
先ほども申し上げましたが、私達は、キリストを目で見ることはできません。その意味で、キリストは、今、旅に出ています。しかし、目には見えない聖霊の働きを通して、キリストは、世の終わりまで、共にいてくださいます。
 このキリストとの生きた交わりの中で、生き続けていくことが大切です。キリストを離れては、どれだけ聖書を読んでも、どれだけ学習をしても、どれだけ良い証をしていたとしても、キリストの務めに生きることはできません。目には見えないけれど、確かに生きて下さる、そのキリストとの交わりに生き、そこで沢山の恵みを受け、その恵みの中で、初めて、キリストの務めに、私達も用いられていく。その幸いを知ることができるのです。
 私達の務めは、ただ、キリストの務めを、キリストに代わってするだけではありません。門番としての務めもあります。改めて34節から36節の御言葉をお読みします。「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたにはわからないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」。
 ここで門番には、二つの役割があります。一つは、外敵から家を守る務め。もう一つは、主人の帰りを待つ務めです。
 門番は、家を守ります。門番が、家を守るために大切なことは何でしょうか。目の前のものが、敵か味方かを見極める判断力です。正しいか正しくないか。信仰か不信仰か。正統か異端か。それを見極められる目がなければいけない。だから、目を覚ましている必要がある。目が開かれている必要があるのであります。
 この世にあって、様々な教えや働き、情報が流行しています。その中には、私達の心を奪うものも沢山あるかもしれません。自分にとって魅力ある教えかもしれません。私達の心を躍らせるものかもしれません。しかし、その時、もしかすると、私達の信仰の目は閉じているかもしれません。
大事なことは、何でしょうか。それは、あなたの目を開いてくださった。その御方だけを、一心に見つめることです。あなたの心の目を開き、あなたに光を見せて下さった。その御方に、しっかりと目を向けて生きる、ということなのであります。その時、キリスト以外の力が、入り込むことを、私達は、防ぐことができるのではないでしょうか。
さて、門番には、もう一つ、大切な務めがあります。それは、「主人を信じて待つ」ということです。しかし、主人は、いつ帰るかはわかりません。
 但し、はっきりとわかることがあります。それは、主人は、必ず、約束の通り、帰ってくる、ということです。この約束を信じて、期待して待つということであります。目を覚ましていられるのは、その約束を信じているからであります。信頼しているからであります。だから、決して、苦しい課題を突き付けられているわけではありません。ただ、主の約束に身を委ねて生きる。それで良いのです。
しかし、待ち続けることは、とても大変です。一定の緊張感を保たなければいけません。心が疲れることがあります。時々、違う教えとか魅力あるものに、心を傾けたくなるのも人間でありましょう。伝道をしていても何も届かず、苦戦を強いられることもあります。この世から理解されないこともあります。迫害されることもあります。
しかし、私達は、一人で生きているわけではありません。この私以外にも、沢山の「僕たち」がいるのです。
ここでは、「夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか…」と書かれています。これは、当時、実際に使用されていた門番の交代時間でありました。つまり、一人で生きるのではないのです。交代しながら、お互いに励まし合いながら、共に労苦する。そんな神の家族が、沢山いるのであります。
そして、何よりも、この働きに生きる、すべてのクリスチャンと教会には、キリストがいてくださる。キリストが共に生きてくださる。共に歩み続けてくださる。「今は、苦しい時代かもしれない。しかし、その先に、目に見える仕方で、私と会える日がくる。私は、必ず、あなたがたのところに来る。その時を信じて、一緒に、働き、一緒に待とう。」今も生きる、復活の主は、私達に、こう語り続けてくださるのではないでしょうか。
 だから、恐れず、伝道をしましょう。恐れず、ただ一つの信仰に生きましょう。恐れず、ただ一つの福音のもとに立って、キリストに結ばれながら、終末に向かって前進していきましょう。
私達は孤立した群れではありません。私達と共に労苦する家族や仲間がいます。私達のために祈りを合わせる信仰の友がいます。だから、恐れず、主に委ねられた、主の業のために、それぞれの賜物を出し合い、共に歩みましょう、
 光と闇が交わる世界で、光だけが満ち溢れる世界に、期待をしつつ、主の再臨を、主と共に待ち望む群れでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:37| 日記