2021年02月20日

牧師日記L「私より年上の娘」

ハレルヤ!!主の御名を賛美します!!!

今日は、幼稚園の「音楽会」でした(*^。^*)

けれど・・・

残念ながら参加できませんでした(´;ω;`)

コロナ禍の影響を受けて、参加できるのは、一家族一人だけやったんです( ;∀;)

うちには、下に娘がいるため、私は、その娘とお留守番していました(*^。^*)

仕方ないです。こういうご時世ですからねぇ(´;ω;`)ウゥゥ

ということで、やりました!!!!

下の娘とプチ音楽会♪(なぜか、写真がアップロードできない(´;ω;`))

大体、40回ぐらい歌いましたよ!!

「誕生日の歌」( ´艸`)

もうあれですよ、娘、僕の年齢、超えていくほど、歌いましたよ!

そんなほのぼの土曜日でした(^▽^)/

聖書の中で、自分の誕生を嘆いた人がいますね。

そう、ヨブという人です。

この人は、めちゃくちゃ信仰深く、正しい人でした。

だけど、いろんな苦難を経験し、段々、心が変わってきます(´;ω;`)

友人たちは、何とかしたいと思い「お前、なんか悪いことしたんじゃね?悔い改めた方が良いよ」みたいなアドバイスをするんです。

けれど、ヨブさんは「俺、何も悪いことしてねーし」みたいになってしまうんですね。

この友人とヨブさんには、共通点がありますね。

正しい人→いいことある。
悪い人→悪いことある。

ヨブさんの場合は、正しいことをしてきたけれど、悪いことが起きちゃった、ということです。だから、ひねくれたんですね。つまり、いつのまにか、自分が正しい人みたいな錯覚に陥ってしまったのかもしれません。だから、現実とのギャップを受け入れられなかったんだろうなぁ

だけどさ、一番、正しいのって「神様」だよね。

あんなに頑張ったのに、こんなに良いことしたのに・・・自分には何もない。そう思うことがあるかもしれません。私もよくあります(笑)

でもさ、それって、頑張れば、救いが得られる、という話ですよね。頑張れなかった人は、失格みたいなものですよね。そうであるならば、ぼくは失格者だなぁ(´;ω;`)

大事なことは、自分の正しさではなく、神様が一番正しい、ということを知っておくことです。苦難があっても、困難があっても、神様だけが一番正しいと信じる時、神様が、正しい道へと導いてくれると信じられる。神様が、歩くべきを指し示して下さる。必要なものを備えてくださる。そう信じて、歩み続けたら、少しは、心が楽になりますね。(^▽^)/

このヨブさん、最後は、悔い改めます。悔い改めというと、なんか反省を促しているような感じに聞こえますが、「神様のもとに帰る」ことですから、本来は、嬉しいことなんです。

そして、神様は、このヨブさんをしっかりと受け止め、今までよりも、大きな恵みを備えてくださるのです。

苦難の中で、主を呼び、主だけが正しいと知る時、その苦難の先には、思いもよらない恵みが備えられているのです!!!(*^。^*)

さて、音楽会の録画を見ながら、明日に向けて、心の備えでもしますかねカメラ

【一緒に聖書を読みましょ♪】ヨブ記42章1節〜16節
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:16| 日記

2021年2月28日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「神を愛しなさい」
聖書:出エジプト記20章1節〜11節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「主は働いておられる」須賀舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書5章9節b〜18節

感染予防対策をしたうえで、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:11| 日記

2021年2月21日 主日礼拝説教「恵みに与る裏切り者」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書14章10節〜21節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書14章10節〜21節の御言葉であります。10節から11節の御言葉を改めてお読みします。「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」。
 今朝、私達は、受難節の礼拝を迎えています。主イエス・キリストの受難において、大きな役割を果たした人物。それが、イスカリオテのユダであります。このユダが、主イエス・キリストを裏切りました。そして、祭司長たちに引き渡しました。
 この裏切りは、決して、金銭目的ではありません。聖書によると、まず、ユダが、主イエス・キリストの引き渡しを、申し出たのであります。つまり、金銭目的ではなく、もっと、強い意志、積極的な意志をもって、この裏切り行為は、行われたことになるのであります。
 それでは、どうして、イスカリオテのユダは、主イエス・キリストを、裏切ったのでしょうか。答えは、一つです。「わかない」ということです。「知る必要はない」ということであります。なぜでしょうか。聖書には、明確に書かれていないからです。
 それでは、なぜ、聖書は、一番、注目すべき、裏切りの目的や理由について、記していないのでしょうか。実は、それが、今朝の御言葉のカギとなります。この問いを、心のどこかにとめながら、続きの御言葉に聴いて参りたいと思います。
 12節から17節の御言葉を改めてお読みします。「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか』と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています。」すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。』弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた」。
 ここでは、「除酵祭の第一日」とあります。しかし、これは、少し間違った表現です。通常、「除酵祭」は、「過越祭」の後に行われます。正確に申し上げますと、過越祭前日の夕方までに、小羊を屠ります。ユダヤでは、午後6時に日付が変わりますので、日付が変わった段階で、屠った小羊を、祈りと賛美をもって、家族みんなで、食べます。これが、正式な手順であります。ですので、内容的に申し上げますと、この御言葉は、過越祭の前日と当日の話をしているということになります。
 当時、過越の食事は、エルサレム市内で、行われることが通例でありました。そうでありますから、遠方の巡礼者にとっては、その食事を、どこでするのか。それが、重要であったわけであります。ここで弟子たちが、食事の場所を気にしているのも、そのような通例、慣習が背景にあると言えるでありましょう。但し、このような出来事こそが、この御言葉の恵みを、ますます強調することになるのです。
 主イエス・キリストは、弟子たちを使いに出します。そして、過越の食事の準備をさせます。そして、全てが、主の言う通りに、進んでいきます。これは何を意味しているのでしょうか。
 これは、つまり、この食事のホストが、主イエス・キリストなのだ、ということなのであります。主が、全てを、備えてくださった。そのところに、十二人の弟子たちが招かれた、ということなのであります。主イエス・キリストが備え、主イエス・キリストの部屋で、主イエス・キリストを中心とした食卓に、弟子たちが招かれた、ということが、ここで強調されているのであります。
 そして、ここで最も重要なことは、この食卓に、十二人が招かれた、ということなのであります。そこには、勿論、イスカリオテのユダもいます。ユダもまた、その恵みの座に招かれていた、ということなのであります。それが、ここで、とても大切なことなのであります。
 さて、主イエス・キリストは、この食卓の席で、「弟子の裏切り」について語り始めます。18節から21節の御言葉をお読みします。「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。『十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった』」。
 ここで明確にありますように、主イエス・キリストは、既に、弟子の裏切りを知っていた、ということであります。最近、「知った」というわけではありません。
 主イエス・キリストは、既に、三度の受難予告をしてまいりました。そこで、主は、ご自身が「逮捕される」とは言いませんでした。「引き渡される」という言葉を使っていたのであります。
 つまり、もう既に、裏切られることを、最初から分かっていた、ということなのです。その上で、この食卓へと、弟子たちを招かれた、ということなのであります。
 それでは、なぜ、主イエス・キリストは、ここで、このような、とても、はっきりと、厳しい御言葉を、突然、言い出したのでしょうか。弟子たちを脅すためでしょうか。ユダを引き留める為でしょうか。
それは違います。この御言葉を受けて、弟子たちは、どうしたでしょうか。全員が、心を痛めます。そして、言うのです。「まさか、わたしのことでは」と。
 つまり、主イエス・キリストの御言葉を受けて、全員が、自分の中にある、「裏切りの心」を見たのであります。自分ではないか、という裏切りの可能性を見たのであります。
 つまり、主イエス・キリストの御言葉は、ユダだけではなく、全ての弟子たちに、裏切りの思いを意識させたことになるのであります。実は、これこそが、ここで語られた主の御言葉の、本当の目的だったのであります。
 主イエス・キリストに、罪を問われた時、そこで、誰もが、自分の罪を見ざるを得なくなるのであります。誰もが、その罪の可能性を見つめざるを得ないのであります。
 主イエス・キリストを裏切る理由。それは、みんな違います。誘惑に負ける人もいれば、方向性の違いで去って行く人もいるかもしれません。理由は、みんなバラバラなのであります。共通していることは、主イエス・キリストが、罪を問う時、そこで、誰もが、裏切りの可能性を見つめてしまう、ということなのであります。
 だからこそ、ユダが、どんな思いで、裏切ったのか。それを、聖書は、あえて記さないのであります。なぜなら、この問題は、ユダだけの問題ではなく、弟子一人ひとりの、そして、私達一人ひとりの問題だからなのであります。誰もが、ユダのような裏切り者になりえるのだ、ということなのであります。
 よくクリスチャンの間でも、「私のような罪人は…」という言葉を使うことがあるかもしれません。「私はユダのような者ですから…」という言葉も、たまに聞くことがあります。ある意味では、その人の謙虚さを表す言葉。そのようにも受け取れるかもしれません。
 しかし、本当は、そんなに軽々しく言える言葉ではありません。なぜなら、ユダのように裏切るということは、神様の前で、この自分の全人生が、否定されることを意味しているからであります。「生まれなかった方が、その者のために良かった」ということは、この私の存在、人生を全て否定されることだからであります。生きていても、死んでいるような存在になる、ということなのであります。だからこそ、これを軽々しく言うことはできません。もし、それが軽々しく言えるならば、それは、本当の罪の深刻さと神様の厳しさを知らないからなのであります。
 私達は、皆、裏切る可能性があるのです。罪を問われるならば、「それはわたしのことですか」と問い返したくなるのです。身に覚えが、もう沢山、ありまくりなのです。
 そして、それ故に、その罪のゆえに、神様の御前で、自分の存在が否定されていくしかない。そこに、罪の悲惨さの中にある、私達の現実がある。本当に、自分は救われているのか。そのような気持ちになるかもしれません。
 私達人間の力では、救われません。しかし、神様が、その救いを成し遂げて下さるのであります。生まれなかった方が良かった。そう言われるほどに、主の目に罪深く、価値を失っている。その私達が、今、主の食卓に招かれているのであります。私達の罪も弱さも知られています。しかし、それでも、主は、あなたを主の食卓へと招き、神様の家族として、価値ある者として受け止めてくださるのであります。
 そして、この食卓は、後に、主の晩餐の食卓となります。つまり、その招かれた食卓を通して、御子イエス・キリストが、私達の罪のために、身代わりとなって裁きを受けてくださる。そして、そのキリストの犠牲によって、この自分が、神様の目に、価値ある者として受け止められている。そのことを味わうことが許されているのであります。この主が、備えたもう食卓を通して、御子イエス・キリストの十字架の贖いを知り、そこで、私達は、初めて、生まれてきて良かった。自分は、本当に幸せだ。そのように、喜びと賛美の声をもって宣言することができる。その幸いが、ここから、強く示されているのです。
 ユダをはじめ、全ての弟子たちに、食事を分け与えた時、主は、一人ひとりに、「あなたのために、私は、十字架に向かっていくのだ」と語りかけながら、その恵みを分かち合ったのではないでしょうか。
私達もまた、その主の弟子の一人とされています。主の目には、罪深いものであるかもしれません。罪を問われれば、それを認めざるを得ない自分がいるかもしれません。
 しかし、主は、そのあなたの目を見つめながら、「これから、あなたのために十字架にかかり、復活するのだ。そこにあなたの本当の救いと、幸いがある。」そう語りかけながら、御言葉の恵み、聖餐の恵みを分かち合ってくださるのではないでしょうか。この幸いを深く心に留めて、感謝をもって、新しく歩み出すものでありたいと思います。

天の神様、新しい御言葉の恵みに心より感謝申し上げます。あなたから多くの恵みを頂き、あなたの民として、歩みながらも、裏切りの心を問われると、否定できないところが、私達の内にはありません。私達の力では、この罪の力に打ち勝つことはできません。どうか、主よ、今、この時、あなたの御子イエス・キリストの贖いの恵みを新たにしてください。どうか、この恵みを深く味わい、御霊の力に支えられ、また、新たに歩み出すものとしてください。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:01| 日記