2021年03月30日

2021年4月1日 洗足日礼拝 案内

洗足日礼拝

日時:2021年4月1日(木)午後7時〜午後8時 ⇒エイプリルフールだからって嘘はついていません!!
場所:石山教会礼拝堂
*YouTubeでもライブ配信します。

☆礼拝式順☆
前 奏
主の祈り
聖 書 ヨハネによる福音書13章1節〜11節
説 教 「御子の十字架の死のしるし」須賀 工牧師
祈 り
聖 餐
使徒信条
祝 祷
後 奏

☆説教☆
 今夕、私達は、「洗足日」の礼拝をささげています。「洗足」とは、一体、何でしょうか。それは、端的に申し上げるならば、主イエス・キリストが、十字架で死なれる前日に、弟子たちの「足を洗った」という出来事を表しています。
 多くの神学者は、この洗足こそが、「十字架のしるし」。そのように、口を揃えて申しております。つまり、「洗足」という一つの出来事を通して、そこから「十字架の死」とは、一体何であったのか、「主イエス・キリストの死」とは、一体、何を意味していたのか。正に、それらの意味が、ここで明らかにされている、ということなのであります。
 今夕、私達もまた、そのことに、フォーカスを強く当てながら、共に御言葉に聴いて参りたいと思います。
 つまり、今夕の御言葉は、一節一節の丁寧な説き明かしをする、ということではなくて、「洗足」という出来事を通して、十字架の死の意味、あるいはメッセージを、改めて、捉え直していく。いや再び、味わい直していく。そのような仕方で、共に御言葉に聴いて参りたいと思います。
 さて、そもそも、「足を洗う」とは、一体、どういう意味を持っているのでしょうか。「足」とは、人間の一番、「汚れた部分」を表しています。その汚れが、主の御手によって清められる。それが、「洗足」であります。
 つまり、主イエス・キリストが、人間の最も汚れた部分に、触れてくださるのであります。その汚れの責任を主ご自身が、代わりに引き受け、そして、清めてくださるのであります。
 主イエス・キリストの十字架の死とは、正に、何よりまず、そのような意味を持っているのであります。つまり、主イエス・キリストが、罪人の汚れに触れ、それを引き受けてくださり、そのことを通して、罪人を穢れから解放してくださるのであります。この大きな恵みが、キリストの十字架の死によって、明らかにされているのであります。
 但し、それだけではありません。当時、足を洗う仕事は、「奴隷」の仕事でありました。正確に言えば、「異邦人奴隷」の仕事です。このユダヤ人の社会の中で、最も卑しい仕事の一つでもありました。
 しかし、ここで、大切なことは、主イエス・キリストが、その務めを担われた、ということであります。最も、権威あるべきお方が、弟子たちと同じ目線に立って、いや、彼らの目線よりも、遥かに低く立って、最も汚れた部分に触れてくださる。本来ならば、権威のある御方が、神から捨てられ、自分を捨てて、罪人の汚れを引き受け、その汚れに触れてくださるのです。そして、その罪人の汚れに触れてくださることを通して、汚れを清めてくださる。
 ここにもまた、御子の十字架の死の大きな意味が示されていると言えるのであります。十字架の死は、決して、当たり前の恩寵ではないのであります。真の神、真の人なる御方による、計り知れない、忍耐とへりくだりによって実現しているのであります。私達の救いのために、主が忍耐し、最低限までへりくだってくださった。その幸いが、御子の十字架の死の内に指し示されているのであります。
 そして、同時にその憐れみと慈しみを思う時、私達の生き方、キリスト者としての生き方が、ここで改めて問われていくのではないかと思うのであります。御子の十字架の死は、このように私達のキリスト者としての生き方もまた、指し示していると言えるかもしれません。
 さて、聖書によると、弟子のペトロは、主イエス・キリストに、自分の足を洗われることを拒みました。なぜでしょうか。一つは、彼の謙虚さによるものであったと言えるかもしれません。弟子である自分の足を、主が洗って下さる。そんなことはあってはならない。そのように感じたのかもしれません。確かに、そういう思いはあったことでありましょう。
 しかし、同時に、こういう思いもあったかもしれません。即ち、自分の汚れを見られたくないという思いです。自分の汚れを知られたくない、という思いであります。自分の罪を知られたくない。自分の綺麗な所だけを見てほしい。そういう思いであります。復活の主と出会ったペテロは、裸を隠して、湖に飛び込んだ、という話があります。彼は、自分の恥を自分で隠そうとする性格の持ち主であったのかもしれません。
そして、それは、違う見方で言うならば、汚れが清められることよりも、綺麗である部分だけを認められる。そのことが、ペトロにとっては、救いであった、ということでもあるのです。一生懸命に綺麗で居続けたい。そういう自分を、主に認められたい。いつしか、救いが、自分の力によって得られるものであるかのように考えられていたのかもしれません。
 どちらにせよ、ペトロは、この時、主イエス・キリストの十字架の意味を理解していなかったわけです。そして、そのことを通して、ペトロは、自分自身にとっての、本当の救いが、何であるかを、まだ理解していないのであります。主の前で、綺麗で居続けることこそが、彼にとっての救いであったのであります。
私達人間にとって本当の救いとは何でしょうか。それは、罪から救われること。汚れが清められること。これこそが、人類の本当の救いなのであります。そして、その救いは、人間の力で得られるものではありません。ただ御子イエス・キリストが、十字架で死んでいく。私達の罪を背負い、私達の汚れを引き受け、死んでいく。御子が、私達の罪を知り、その罪の汚れに触れ、清めてくださる。そこにのみ、私達のただ一つの救いがあるのです。そのために、御子は、ペトロの一番汚れた部分にも、救いの御手を置いてくださるのであります。  
 御子イエス・キリストの十字架の死は、私達の救いが、私達によって得られるものではなく、御子の贖いと犠牲なくしては、決して成り立たない。そのような事実を、今、私達に再び指し示しているのであります。
 さて、ここで、主イエス・キリストは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりがあるのか」と言われます。これもまた、主イエス・キリストの十字架の死の出来事から、見つめていくことが大切であります。
 つまり、十字架の死なくして、私達と主との関係は成り立たないのだ、ということであります。十字架の死による救い。その救いにあずかることなくして、私達と主は、何の係わりもないのだということなのであります。つまり、御子の十字架の死は、私達と神、私達と主を繋ぐ、唯一の懸け橋になるのだ、ということなのであります。十字架の死を通して、罪が赦され、汚れが清められ、そして、主のものとして、主と結ばれて生きられる。十字架の贖いを抜いては、本当に、主イエス・キリストとの交わりには生きられない。十字架の贖いなくしては、私達は、本当に救い主を知ることはできない。その大切さが、ここで強く表れているのです。
 さて、この御言葉を聞いた、ペトロは、「手も頭も洗ってほしい」と願います。それに対して、主イエス・キリストは、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と仰せになります。
 ヨハネによる福音書の中で、恐らく、一番、難解で、議論になる言葉が、この言葉ではないかと言われています。全身が清いのであれば、なぜ、足を洗う必要があるのか、という疑問もあるかもしれません。
 しかし、あまり、色々な話をしていては、余計に混乱されるかと思いますので、一番、単純で、シンプルなお話をします。
 ここでペトロは、結局の所、何を願ったのでしょうか。それは、主イエス・キリストが、今、この自分にして下さったこと。それ以上のことを求めた、ということなのであります。ペトロは、足を洗ってくださる主に対して、それ以上の救いを求めたのであります。
 それに対して、主イエス・キリストは、これ以上の救いはないのだと、お答えになられたのであります。
つまり、何が言いたいのでしょうか。それは、救い主の十字架の死。それ以上に、救いはあり得ないのだ、ということであります。十字架の死によって成し遂げられる罪の赦し。それ以上の、救いは必要がないのだ、ということなのであります。主イエス・キリストの十字架の死における罪の赦し。その出来事は、ただ一回的であり、かつ、完全な恵みなのだ、ということなのです。それが、ここで何よりも示されていることなのであります。
 しかし、神様の救いは、完全であっても、人間は、決して完全なものではありません。足を洗われた弟子の中には、ユダのような存在もいるわけです。いや、ユダだけではなく、この後、全ての弟子たちが、主を裏切る結果になるのです。やはり、キリストの救いは、不完全だったのでしょうか。
 しかし、これも大切なことなのであります。主イエス・キリストは、明らかに、ユダの裏切りを知っていました。勿論、弟子たちの裏切りについても、よくご存じでありました。
 しかし、それでも、ユダも含めて、全ての弟子たちを、この上なく愛し、ユダも含めて、全ての弟子たちの足を洗うのであります。つまり、全ての弟子たちが、主イエス・キリストの救いの中に、招かれている。このユダのためにも十字架があるのです。
 何が言いたいのでしょうか。それは、十字架の死は、正に、主の一方的な愛によってのみ成し遂げられているのだ、ということであります。
 主の愛とは、価値を生み出すことであります。価値のないものに価値を生み出すことであります。全く、価値を見いだせない裏切り者を前にしても、あなたのために、命を捨てるのだと価値を生み出してくださる。十字架の死は、この愛の完成形なのであります。
 そして、この愛は、私達にもまた、与えられた恵みでもあります。この箇所の最初には、このように記されています。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と。ここで言われている「弟子」とは、「主のもの」という意味です。この世にいる「主のもの」とは、特定のだれかではありません。主に結ばれた全ての聖徒たちのことであります。
 そして、主のものとされた、全てのキリスト者に対して、主は、この上ない愛を与えてくださった。「この上ない」とは、「完全な」「完成した」「成し遂げられた」という意味です。つまり、これ以上にない、正に、罪や死を越えていくほどに限りなく、主は、私達を愛しぬいてくださっているのだ、ということなのであります。
 では、改めて、その愛は、どこで具体的に表されているのでしょうか。主イエス・キリストは、十字架上で、最後にこういうのです。「成し遂げられた」と。あの十字架において、愛が成し遂げられた。罪と死を超えるほどの、限りない愛は、あの十字架の死をもって、私達に示されているのであります。
 その愛は、今も、私達全てのキリスト者の内に、注がれています。その愛によって、私達は、洗い清められているのであります。大事なことは、この恵みに立ち帰り、この恵みをいつでも頂きつつ、主の弟子として、生きるということでありましょう。
 そして、その愛を本当に理解できるのは、「後から」なのです。ペトロに対して、主イエス・キリストは、次のように、仰せになりました。「後で、分かるようになる」と。
「後」とは、いつでしょうか。復活の時であります。あるいは、聖霊降臨の時も指しているでしょう。
 つまり、復活の主との出会いを通して、あるいは、聖霊の宮なる教会を通して、私達は、このキリストの十字架の死と復活の救いがわかる。あれが、自分の罪のための救いだったのだ、ということが分かる。自分の汚れを引き受け、その汚れに触れて、清めてくださった。あの洗足の本当の意味が分かるのだ、ということなのであります
 日曜日には、イースターを迎えます。いや、毎週が、主の復活記念日であります。即ち、毎週日曜日の礼拝を通して、私達は、復活の主と出会い、聖霊を通して、御子の十字架の死。その意味を明確に味わい尽くすことができるのです。
 十字架の死は、私達に、汚れからの解放と、キリストの忍耐を示します。御子の十字架の死は、私達に、私達の罪の現実と真の救いを明らかにします。御子の十字架の死は、私達に、これ以上の救いがないことと、計り知れない、主の愛を示します。
 その大きな幸いを、私達は、この洗足の記事から、再び味わえると共に、全ての主日礼拝においてもなお、何度でも味わい直すことができるのです。


posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:14| 日記

2021年03月28日

2021年4月4日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教「週の初めの日に復活する」
聖書 マルコによる福音書16章1節〜8節

〇主日礼拝 10時30分〜 (イースター礼拝)
説教「救いが実現するために」須賀 工牧師
聖書 マルコによる福音書14章43節〜52節

感染予防対策をして礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:40| 日記

2021年3月28日主日礼拝説教「復活して命を受ける」須賀 舞伝道師

聖書:ヨハネによる福音書5章19節〜30節

祈り
 天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。今朝、あなたに命与えられ、今日を生きよと命じられました。そしてあなたが、この礼拝に私たちを招いてくださいました。あなたを心から賛美できます幸いに、深く感謝を申し上げます。どうか、この時、初めから終わりまで、あなたが共にいてくださり、礼拝を捧げる一人一人の心を一つにし、高らかに、あなたの御名を賛美する礼拝を捧げられますようにお導きください。
 本日は、棕櫚の主日です。御子イエス・キリストがエルサレムに入場され、十字架への歩みを進まれたことを記念する礼拝であります。2000年前のこの日、エルサレムでイエス様を歓迎して迎えた群衆は、あっという間にイエス様を見捨てました。しかし、御子イエスは、人々の裏切りを静かに受け入れ、御父であられる神様の御計画のうちに、自らの命を十字架の上で捧げられたのです。この十字架の死は、私たちの罪のための死でした。私たちを罪から救い出すために、イエス様は御自身を捧げてくださいました。受難週を迎えて、私たちはいよいよイエス様の受けられた苦しみ、悲しみを思い、私たちを罪の深さを知るものであります。また、その先にある主の十字架を見上げる時、私たちが罪赦された者であることを固く信じるものであります。
 そして、主イエス・キリストは復活なされました!死に勝利されて、よみがえられました!その復活の主イエスを信じ、永遠の命に生かされる者とされていることを心から喜びます。
 どうか、この受難週、私たち一人一人が、あなたから賜った信仰をますます強められて、ただ、主イエス・キリストを仰ぎつつ歩み抜くことができますように、お導きください。
 新型コロナウイルスの感染は、世界中で拡大の一途をたどり、私たちは今もなお、安心して御堂に集って礼拝をすることに難しさを覚えております。しかしどうか、この試練の時にもあなたが聖霊の豊かな御働きをもって私たちを祝福してくださり、それぞれの群れがこの朝、霊と真理をもって礼拝を捧げ、あなたから与えられる喜びと希望の御言葉を通して信仰を確かにしてゆくことができますように。
 石山教会は、今、牧師館の新築に向けて歩みを進めております。どうかその歩みが人の思いではなく、全てあなたの御心によってなされますようにお導きください。この牧師館の建て替えの計画一つ一つを通して、あなたの栄光があらわされますように。また私たちは今、そのためのささげものをしております。どうか、主イエス・キリストが十字架によって命をささげてくださったことをまず心に留め、わたしたちひとりひとりがささげものをなしてくことができますように。
 病の内にある兄弟姉妹、心痛みを覚えている方々を特に、あなたがかえりみてくださり、あなたの癒しの御手の内に、新たに生かしていただきますように、心より祈ります。
 過ぐる日、あなたの御許に召された、聖徒達を覚えます。どうか、今、あなたの御手の中で、真の平安を得ていることを信じるものとしてください。また、愛する者を失い、悲しみのうちにいる者を、どうか、御言葉によって慰め励ましてください。天にある民も、地にある民も、共に主の復活の希望に生かされ、高らかに、あなたを賛美することができますようにお導きください。
 全てのことを感謝し、全てのことを委ねて、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン




ヨハネによる福音書5:19-30/ダニエル書12:1-4
説教「復活して命を受ける」

 本日私たちに与えられた御言葉は、ヨハネによる福音書5:19-30です。新共同訳聖書では、「御子の権威」という小見出しが付けられています。ここから、47節まで、主イエスが語られた言葉が続きます。前回までの箇所では、王の役人の息子の癒しと、38年間病に苦しんだ人の癒しが行われたことが続けて伝えられてきました。しかし、ユダヤ人たちは、主イエスへの反感の思いを強めていました。直前の5:18には、「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである。」と記されています。ユダヤ人たちは、主イエスが、安息日の律法違反をしたことに加えて、自分は神様と等しい存在だ、と言ったことで、殺してやりたいと思うまでの憎悪を抱くようになったのです。
 本日の聖書箇で主イエスは、「そこで、イエスは彼らに言われた。」と始めます。主イエスは、ユダヤ人たちの御自身に対する敵意を全て見抜いて知っておられました。その上で彼らに語り始めるのです。
 はっきり申し上げて、ここから5章の終わりまで語られる主イエスの長い言葉は、非常に難解であります。私自身一度読んだだけでは、その意味を理解することができませんでした。ただ、ここで、キリスト教の核となるとても大切な事柄が言われているということだけは、はっきりとわかります。今日の箇所には「はっきり言っておく。」という言葉が3度出てくるからです。この「はっきり言っておく。」というフレーズは、原語では「アーメン、アーメン」となっており、直訳すると「まことに、まことに」となります。「あなたたち、今から言う事をよく聞いておきなさい」と主イエスは語り始めるのです。それが本日与えられた御言葉の中に、19節、24節、25節と3度も登場します。
 最初に主イエスが、「はっきり言っておく。」と言われたのは、19節です。1つ目の大切な事柄がここで言われています。それは「父と子の関係」についてです。ユダヤ人たちは、主イエスが「神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされた(18節)」ことに憤っていました。父と子とは、父なる神様と、御子なるイエス様のことです。私たちキリスト者は、父と子と聖霊なる三位一体の神様を信じています。だから、父なる神様と子なるイエス様は等しく唯一の真の神であると信じています。しかしユダヤ人たちは、この目の前にいる一人の男が神様の独り子だなんて、とんでもない!神様と等しい者であるはずがない!これは、神様への冒涜だ!と怒るのです。
 それに対して、イエス様は、それを証明しようとはされません。神様とイエス様が父と子として等しい存在であることは揺るぎない事だからです。なぜそうなるかは、わざわざ理由や根拠を示す必要がない永遠の真理であるのです。本日与えられた御言葉で主は、「御父と御子が等しい関係である」ことが、私たちにとって、どれほどの恵であるか、どれほどの慰めであるかを知らせておられるのです。
 19節で主イエスは、「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」と言われます。つまり、御子なるイエスは、御父である神様のなさることを見て何でもその通りにするということです。ですから、御子イエスが、御自身だけで独自に何かをすることはないのです。その意味で、御子イエスは、御父に完全に無力な存在であります。そして、御父にどこまでも服従されるのです。パウロは、フィリピの信徒への手紙第2章で、神様の身分であり神様と等しい者であられたお方は、徹底的にへりくだって、人間となり、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と言います。御子イエス・キリストは御父の御心のままに、私たちを罪から救うために、死さえも従順に受け入れ、十字架へと歩まれたのです。
 そして、20節では、父が子に示された「大きな業」についてが語られます。その驚くべき御業が、続く21節で、はっきりと説明されてゆきます。「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」「父が死者を復活させて命をお与えになる」とは、主イエスの御復活を指し示しています。御父なる神様が、十字架につけられて殺された御子イエスを三日目に復活させ、永遠の命をお与えになる、これがイースターの出来事であります。御父なる神様の驚くべき御業です。それを、今度は、御子イエスもそのとおりになさるのです。それが21節後半の「子も、与えたいと思うものに命を与える」ということです。父が子を復活させて与えて下さった永遠の命を、子も、与えたいと思う者に与えて下さるのです。
 24節で主は、再び「はっきり言っておく。」と言われます。それに続けて「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」とお語りになりました。大切な真理が再びここで語られてゆきます。それは、どのようにして御子イエスが、永遠の命をお与えになるかということです。24節によると、永遠の命を得るには、まず、主イエスの語る御言葉をよく聞くことが大切であると言われます。御父がこの世に遣わした御子イエスの言葉をきちんと聞き取り、そして、御子の言葉を通して御父を信じることが、私たちの生きる鍵となるのです。それは、この世的な命とは違います。聖書はここで信じる者に与えられるのが「永遠の命」であるとはっきりと記します。永遠とは、死をも超えた命です。ですから、私たちはもう死という罪の裁きを受けることはない、「裁かれることなく、死から命へと移っている。」とここで宣言されているのです。
 25節において、主イエスは再び「はっきり言っておく。」と言われます。3つめの大切なことがここで語られます。それは、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」ということです。主イエスは、これらの言葉を敵対するユダヤ人たちに向かって語られていました。しかし、死んだ者とは、決してユダヤ人だけではありません。死んだ者とは、神様を信じない罪のうちにいる者を言います。その意味で、私たちも、かつては死んだ者でありました。しかし、25節は、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」と言います。全ての死んだ者たちが、御子イエスの声を聞く時がくる。御子を通して御父を信じる道が開かれるのだ。そして、その声を聞き取って受け入れ信じる者は「生きる」のである。その意味で、主イエスが今まさに「アーメン、アーメン、私の声を聞きなさい」と語り始めるということは、救いが今まさに、この時から始まっているのだ!ということなのです。
 27節には「子は人の子だからである。」という言葉が出てきます。本日お読みしました旧約聖書ダニエル書には、預言者ダニエルに与えられた終わりの日の預言が記されています。神様が造られたこの世界が終わる日、終末の時に「人の子」がやって来るという預言です。27節は、御子イエスこそ、その「人の子」あると、主御自身が宣言されるのです。
 それに続く28,29節は、終わりの時に何が起こるのかを、主イエスがお語りになった言葉であります。「驚いてはいけない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ(28-29節)。」終わりの日には、人の子なる主イエス・キリストが再びこの世に来られる、そして、再び語ってくださるのです。その声を聞く者たちは、墓から出て神の御前に進みでてくるのです。それは、最後の審判を受けるためであります。神様は、最後の審判において人間を「善を行った者」と「悪を行った者」に分けられるのです。善悪の判断は、28節の言葉を注意深く読むと明らかです。ここには「人の声を聞き、善を行った者」とあります。つまり、本日の御言葉において主イエスが私たちに教えてくださった大切なこと、即ち、主イエスの声を聞くこと、そして御子イエスの言葉を通して御父なる神様を信じることが、「善を行う」ということであるのです。終わりの日、善を行う者は、復活して命を受け、悪を行う者は裁きを受けるのです。
 そうは言っても、終わりの日の約束はこの豊かな現代社会を生きる私たちにとって遠い未来のこと、私たちには関係のないことと思ってしまうかもしれません。しかし、終わりの日は必ずくるのです。私たちは主の祈りにおいて、「御国を来らせたまえ。」とお祈りします。これは、終わりの日の訪れを願う祈りです。
 主の十字架の死と復活は、本日の御言葉において、主が教えられている信仰の中心です。御父なる神様は、私たちを罪の縄目から解放したい、救い出したい、ただ罪のうちに滅びる存在から、命のうちに生きる存在へと移したいと心から願っておられ、それを、御子をこの世に送るという形で具体的に実行してくださいました。そして、御子は御父の御心の全てをこの世で行ってくださった。十字架は、私たちにとってただのシンボルではありません。どこまでもへりくだり、私たちの代わりに罪の裁きを一身に受けてくださった。完全な生贄として、御自分の命を罪の贖いの献げものとしてくださった。血を流し、死んでもなお、陰府という最低の極みの所まで下ってくださった、その御子イエスが十字架にいらっしゃるのです。
 しかし、同時に、私たちが見上げる十字架には、もう主のお姿はありません。なぜなら、御父によってよみがえらされたからです。この御復活の出来事によって、信じる者たちが、終わりの日には、復活して命を受けるのだと、確かにされるのです。本日から私たちは、受難週を迎えますが、主の十字架の御苦しみを悔い改めの心で覚え、その先にあるイースターに向けて、私たちも御復活の主と同じように、復活して命を受けるのだという確かな希望をもって歩みをなしたいと願います。


祈り

御子イエス・キリストの御父なる神様。御言葉の恵に感謝します。主は、アーメン、アーメンと3度も繰り返され、私たちに教えてくださいました。十字架を見上げ、主の御苦しみと御復活の希望を確かにするようにと、私たちを御元に引き寄せてくださいました。私たちは、御父が御子をこの世に送ってくださったことを心から感謝します。そして、御子を通して御父を信じる道が開かれたことを心から喜びます。どうか、御子の声を聞き取り素直に受け入れることができるように、私たちの目を覚ましてください、耳を聞こえるようにしてください、心を開いてください。御国がきますように。終わりの日に向けての私たちが希望に心燃やして、この世の歩みを歩み抜くことができますように、どうか、私たちの信仰をあなたが支え保ちますます強めてください。この喜びのよき知らせが、たくさんの方々に届きますように。私たちをあなたの愛で満たし、清めて伝道の器としてもちいてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:27| 日記