2021年04月30日

2021年5月9日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」
聖書 マルコによる福音書1章21節〜28節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教「侮辱される救い主」須賀 工牧師
聖書 マルコによる福音書15章16節〜32節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:13| 日記

2021年5月2日 主日礼拝説教「身代わりの死刑」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書15章1節〜15節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書15章1節から15節の御言葉であります。改めて、1節から5節の御言葉をお読みします。「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。」
 今朝の御言葉は、「ポンテオ・ピラトが、主イエス・キリストを裁き、十字架刑を宣告する」。そういう場面であります。そもそも、ユダヤにおける宗教問題(信仰問題)。これについては、ローマ帝国の裁判において、取り扱うことのできない案件でありました。
 しかし、ユダヤ人指導者たちは、主イエス・キリストを、ピラトのもとに引き渡します。そして、主イエス・キリストを「ローマ帝国の反逆者」として訴え出たのであります。
 彼らは、主イエス・キリストを、「ユダヤ教の異端者」として扱うのではなく、あくまでも、「ローマ帝国の反逆者」として、ピラトの下に連れてきたのであります。
それは言い方を変えて申し上げるならば、彼らは、主イエス・キリストを、ローマ帝国のやり方で、即ち、十字架刑という死刑方法によって、主イエス・キリストを殺す。そのような目的を持っていたことになるのであります。
 旧約聖書によると、「木にかけられた者は神に呪われている」という教えがあります。つまり、祭司長たちは、主イエス・キリストを、神に呪われた者として、死なせたかった。それもまた、ここから、強く示されているのではないか。そのように言えるのであります。
 それでは、どうして、祭司長たちは、ここまで、主イエス・キリストを憎んだのでしょうか。今までの文脈から申し上げるならば、それは、主イエス・キリストが「神殿を冒瀆した」からであります。それは言い換えるならば、神を冒瀆することであり、宗教指導者たちの権威を冒瀆することでもありました。
 それだけではありません。そのような冒涜者が、民衆をひきつけていたからであります。いよいよ、自分たちの誉が、地に落ちようとしている。人間の誉を失おうとしている。そのことを恐れたのであります。つまり、祭司長たちは、自分たちの人気、誉、権威を取り戻すために、主イエス・キリストに憎しみを向け、一番、残酷な仕方で、主を抹殺しようと考えたのであります。
 いずれにせよ、主イエス・キリストは、「ローマ帝国の反逆者」として、裁判を受けます。それ故に、ピラトは、次のように問いかけるのです。「お前はユダヤ人の王なのか」と。
 このピラトの問いに対して、主イエス・キリストは、次のように、答えられました。「それは、あなたが言っていることです」と。この言葉は、読み方によっては、「その通りです」という意味に理解が出来るかもしれません。
 しかし、この文章で、一番、強調されている言葉は、「あなた」という言葉なのであります。つまり、「この私が、ユダヤ人の王であるか否か。それは、あなたが判断していうことなのだ。あなたが答えを言うのだ。あなたは、どう言うのか。」という意味なのです。
 つまり、主イエス・キリストは、このピラトの問いに対して、むしろ、逆に、ピラトに対して問いかける仕方で、お答えになられたのだ、ということなのであります。
 祭司長たちが、主イエス・キリストについて、様々なこと、色々なことを訴えている。民衆がこぞって、十字架につけろと叫んでいる。周りは、全て、キリストを非難し、批判している。そのような信仰なき、人間を中心とした世論が渦巻く、正に、その現実の中で、「あなたは、どう言うのか。あなたは、私をどう受け止めているのか」。そのように、キリストは、静かに問われているのであります。
 主イエス・キリストは、ここから沈黙を貫かれます。人々の訴える声だけが響き渡ります。こうすべきだ。ああすべきだと。しかし、主は何も語らない。いや、実際には、この主の沈黙の中にこそ、ピラトに問いかける声があるのではないでしょうか。「あなたは、わたしを何者だと言うのか」と。
この厳しい問いかけが、具体的な形をもって現れてきます。それが、6節から14節の御言葉であります。   「ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた」。
 この時、ユダヤでは、過越祭が行われていました。このお祭りでは、民衆が願う囚人を一人だけ釈放する、つまり、恩赦をする習慣がありました。
 そこで、ピラトは「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と尋ねました。恐らく、群衆は、主イエス・キリストの釈放を願っているだろう。そのように思ったに違いありません。主イエス・キリストを殺したいと願っているのは、祭司長たちだけで、群衆は違う。そのように考えたのだろうと思うのであります。
 しかし、群衆は、祭司長たちの煽動により、囚人バラバの釈放を願いしました。このバラバは、恐らく、ユダヤ民族主義に関わる人物、今の言葉で申し上げるならば、ローマ帝国に対する「テロリスト」、ユダヤ民族主義で言うところの右翼のような人物でもありました。正に、ピラトにとっては、一番、釈放したくない囚人の一人であります。
 それに対して、主イエス・キリストは、特に、テロを起こしたわけでない。煽動して、危険なことをしたわけでもない。公平に裁きをかけるならば、当然、主イエス・キリストが釈放されるべき。そのように、誰でも、考えることができます。
 しかし、群衆は、断固として、キリストの十字架刑を希望し、バラバの解放を望むのです。この群衆は、かつて、主イエス・キリストを、歓迎した群衆です。主イエス・キリストを「ホサナ」と叫んで迎えた人々です。
 しかし、一週間もたたずして、彼らは「十字架につけろ」と叫ぶのです。祭司長たちのコントロールもあるかもしれません。しかし、群衆心理とは、このように移ろいやすく変わりやすいものであることも、ここで認められるのではないかと思うのです。
 群衆は、なぜ、ここまで心変わりをしたのでしょうか。それは、一言で、申し上げるならば「彼らが望んでいたような救い主」ではないからであります。
 そのように考えるならば、ここに、私達の姿もあるかもしれません。自分の願っている救い主を求めることがある。ある一時は、熱心に信じても、自分の期待から外れると、熱が冷めてしまう。いや、場合によって、敵対したり、反対したりすることがある。救いや希望を、神の側からみるのではなく、人間の栄光から見てしまう。そういうことは、私達の内側にもないだろうか。それが、ここから強く問われているのではないかと思うのであります。
 さて、ピラトの判断は、どうでしょうか。「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」。
ピラトの決断。それは、「十字架刑」でありました。なぜでしょうか。聖書には、はっきりと書かれています。「群衆を満足させたかったから」だと。
 彼は、群衆の言いなりになりました。群衆の意に反することを恐れました。それだけではありません。彼は、ローマ皇帝に、この地を任されている以上、騒動を避け、無難に生きることを優先したのであります。自分の思ったこと、信念を曲げてまでも、彼は、自分の権威を守るために、人間の誉を優先したのであります。
 主イエス・キリストを十字架に架けたのは、何であったでしょうか。それは、祭司長たちが、自分の栄誉を守ろうとした心、群衆の自己中心的な心と、的外れの期待、そして、ピラトの自己保身と、人間的な栄誉に対する欲求なのであります。
 そして、このことを思う時、正に、私達こそが、キリストを十字架に架けた張本人である。そのようにも言えるかもしれません。主イエス・キリストは、今、あなたにも、わたしにも問いかけています。「あなたは、私をどういうのかと。」「あなたはわたしをユダヤ人の王と言うのか」と。ユダヤ人の王とは、正に、救い主のことです。「他の人がどうこうではない。全世界がどういうかは関係ない。あなたは、わたしを救い主と言うのか。」
 私達クリスチャンは、正に、この問いに、真剣に答えられる生き方をしているでしょうか。人間の言葉や人間の評価にながされていないでしょうか。この世かキリストかを選ぶ時、周りの状況に支配され、左右され、人間の誉を優先し、自分の期待を優先し、真の支配者を切り捨ててしまうことがないだろうか。その時、正に、私達こそが、キリストの死刑判決を宣告する張本人なのであります。
 そのような人間の罪を深く思いつつ、しかし、同時に、今朝の御言葉には、もう一つ大切なことがあります。それは、バラバが救われた、ということなのであります。バラバは、主イエス・キリストの十字架刑が確定したことによって、無罪放免とされた。このように何も罪のない主イエス・キリストが、人間の罪によって十字架に架けられ、本来ならば、十字架に架けられるべき人間が、赦され、救われ、解放された。その命と引き換えに、新たに生きる者とされた。ここに、キリストの十字架の意味、私達人間に、最も必要な、ただ一つの救いの光が、指し示されている。そのように、言えるのであります。
 本来ならば、神様の呪いを受けるべきものが、キリストの命を引き換えに、祝福の内に生かされている。大事なことは、その恵みを受けて、私達が、これからどう生きるのか。私達は、あの主の問いかけに、どう答えるのか。それが、その救いの光の中で、問われているのではないでしょうか。「あなたは、私の救い主だ」と告白する生活へと、私達は、今、導かれている。人の誉や栄誉が、人を救うわけではない。ただ、キリストの命が、私達の救い。主こそ、私の救い主。このように、高らかに、信仰告白し、ただ一つの福音に立って、共に前進するものでありと思います。

天の神様、新しい御言葉の恵みに、心から感謝します。私達は、あなたの救いの御支配に、御子を通して入れられています。しかし、私達は、その救いの支配よりも、人間の作り出す光に支配されることを望みます。その時、私達もまた、キリストを十字架に架けた一人であることを思わずにはいられません。主よ、どうか、私達に御子イエス・キリストの贖いの恵みを豊かに指し示してくださり、あなたの光の子として、新たに歩むものとしてください。ピラトや祭司、民衆のように、この世に富を積もうする人生ではなく、あなたの御前で、豊かに実を結ぶものとしてください。あなただけが、私の光であり、あなたの御子イエス・キリスト以外に、ほむべきものはありません。主よ、私達に、正しく信仰を告白する心を与えるために、私達の心を打ち砕いてください。全てを委ね、感謝して、このお祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:44| 日記

2021年04月28日

牧師日記㉙ ゆるゆるクリスチャントーク#2「クリスチャン画家バツ1牧師」

ハレルヤ!! 主の御名を賛美します!!!

ゆるクリトーク第二弾!!ぜひぜひ、お聴きくださーい(*- -)(*_ _)ペコリ

https://open.spotify.com/episode/5agxoc59QAL2JqknRa4vtA?si=20ytWzTHT2C7xHagRo36mQ

井上直さんのホームページ:nao-inoue.net

posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:30| 日記