ハレルヤ!!主の御名を賛美します。
2021年6月20日の礼拝説教音声です(o^―^o)ニコ
https://open.spotify.com/episode/7IVixs65FMW02l9OKjwyt8?si=e8536362dead4145
今週も、神様のお守りがありますように、心よりお祈り申し上げます!
2021年06月20日
2021年6月20日 主日礼拝説教「聖霊を待つ」(音声)須賀 工牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:55| 日記
2021年06月19日
2021年6月27日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
説教「主イエスの家族とされる」
聖書 マルコによる福音書3章31節〜35節
〇主日礼拝 10時30分〜
説教「聖霊によって力を受ける」須賀 工牧師
聖書 使徒言行録1章6節〜11節
感染予防対策をしたうえで、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
説教「主イエスの家族とされる」
聖書 マルコによる福音書3章31節〜35節
〇主日礼拝 10時30分〜
説教「聖霊によって力を受ける」須賀 工牧師
聖書 使徒言行録1章6節〜11節
感染予防対策をしたうえで、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:58| 日記
2021年6月20日 主日礼拝説教「聖霊を待つ」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録1章1節〜5節
今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録1章1節から5節の御言葉であります。今日から、使徒言行録の御言葉に、続けて、聴いて参りたいと思います。
早速、1節から2節の御言葉をお読みします。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。
ここに出てくる「テオフィロ」という人物。この人物については、正確なことはわかりません。但し、ここで、明確に、分かることがあります。それは、この使徒言行録が、第二巻である、ということです。つまり、第一巻がある、ということになります。
では、第一巻とは、何でしょうか。それが、「ルカによる福音書」です。実は、このルカによる福音書の冒頭にも、「テオフィロ」という人物。この人物の名前だけが出てきます。それ故に、ルカによる福音書が、ここで言われている第一巻のことであり、使徒言行録が、第二巻となるわけです。著者は、勿論、「ルカ」であります。
ここで大切なことは、何でしょうか。それは、「使徒言行録」の前提として、あるいは土台として、ルカによる福音書があるのだ、ということなのです。言い方を変えて申し上げるならば、ルカによる福音書と切り離せない仕方で、使徒言行録が記されている、ということなのです。これが大切なポイントになります。
使徒言行録のテーマを、分かりやすく、簡単に、一言で言うならば、「教会」です。ルカは、ここから「教会の物語」について記していくことになります。
但し、この教会の物語の土台には、あるいは、前提には、ルカによる福音書がある。主イエス・キリストの物語がある。主イエス・キリストの誕生、苦難と死、復活と昇天とがある。この主イエス・キリストの救いの物語が、教会の物語の土台に据えられているのです。これを切り離すことはできません。神様の救いの歴史は、キリストの昇天で終わるのではなく、その救いを経て、今や、教会の物語へと引き継がれていくのです。
どれだけ、素晴らしい会堂があろうとも、あるいは、どれだけ素晴らしい活動をしていても、その教会の土台に、キリストの救いの歴史がなければ、それは「教会」とは呼ばれないのです。教会の土台は、人間の働きや業績の積み重ねなどではなく、ただただ、キリストの救いの御業しかないのであります。
このことを、私達もまた、忘れてはいけないのです。私達もまた、主イエス・キリストの死と復活、そして昇天とにおける、神様の途切れることのない救いの歴史の中に、参加させていただいている一人。そして、その歴史において、かけてはいけない、必要とされた、かけがえのない一人とならしていただいているのであります。
さて、ここで、もう一つ大切な言葉があります。それが「使徒」という言葉です。この「使徒」という言葉は、「遣わされた者」という意味です。主イエス・キリストが、彼らを選び、彼らを「使徒」と呼んだのは、彼らを「派遣する」という目的のためでもあるのです。
それでは、使徒たちを派遣する目的は、一体何でしょうか。ルカによる福音書24章45節以下には、その目的が、明確に記されています。要約すると、彼らが派遣される目的は、二つあります。まず、全世界に対して、キリストの十字架の死と復活の救いを宣べ伝えること。そして、全ての人を、この救いへと招くことです。これが、主によって選び出された使徒たちの使命であり、クリスチャンの使命であり、そして、教会の使命なのであります。
ここで大事なことは、教会は、何をする場所なのか、ということです。教会は、キリストの救いを語り、キリストの救いへと招く場所なのです。これが、キリストによって命じられ、聖霊によって指示され、そして使徒たちから、脈々と継承された、教会のなすべきことなのであります。
そして、この使命は、今の教会にとって、変わることのない大切な原点であり、教会の本来あるべき姿です。どれだけ、良い言葉を発信していたとしても、そこで、キリストの救いが告げ知らされていないのであるならば、それは、もはや、教会ではないのであります。逆に言えば、人の目から見て、どれだけ貧しい言葉、愚かな言葉であったとしても、そこで、キリストの救いが、生き生きと語り続けられている。それが、教会なのであります。私達自身も又、創立記念礼拝を前にして、この教会の原点や在り方について、再度、問われているのではないかと思うのであります。
主イエス・キリストは、使徒たちを派遣します。この派遣に際して、主なる神が、使徒たちに対して、なして下さることがあります。それが、「聖霊」を与える、ということです。
それでは、「聖霊」は、使徒たちに対して、何をしてくださるのでしょうか。ルカによる福音書24章45節以下を読みますと、「聖霊」は、使徒たちの心の目を開き、聖書を悟らせる力を与えて下さるのだ、と言われています。聖霊を通して、聖書に書かれていること。それがわかるようになるのであります。
しかし、それだけではありません。主イエス・キリストは、「聖書は、わたしについて書いてある」と仰せになりました。つまり、聖霊を通して、心の目が開かれ、聖書の内容を知るだけでないのです。そこで、主イエス・キリストが分かるのです。主イエス・キリストが、真の救い主であること、主イエス・キリストにこそ救いがあること。そのことが生き生きとわかってくる。何よりも、まず、使徒たちが、キリストによって救われている。その確信を得ることができるのであります。言うならば、キリストの救いを確かなものにすることができる。ここに聖霊の働きがあります。この深い恵みの中で、使徒たちは、この世に派遣され、使命に生きる者とされていくことになるのです。
私達もまた、この世界に遣わされた一人です。しかし、それは、この私が選んだ道ではありません。主が、あなたを選び、あなたを必要とし、聖霊を与え、キリストの救いで、この私達をまず、豊かに満たして下さる。その救いを確かにして下さる。そこから、主の弟子として、遣わされた者として、クリスチャンの、教会の歩みが始まるのです。
3節から5節の御言葉をお読みします。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである』」。
これは、恐らく、この後に起きる、ペンテコステ(聖霊降臨)についての予告であると言えます。このペンテコステから、教会が生まれ、その歩みを具体的に、はじめていくことになります。この聖霊降臨を通して、使徒たちの伝道、使徒たちの派遣が始まるのです。
皆様もお気づきかとは思いますが、ここで使徒たちは、二回も聖霊を頂くことになるのです。最初の聖霊は、使徒たちの心の目を開きます。聖書を悟る力を与えます。次の聖霊は、彼らが、完全に清められ、主の目に相応しいものへと造りかえられ、そして、使徒たちを、伝道へと押し出していくのです。
実は、これが、とても大切なことなのです。彼らが、語る言葉も、彼らが世界に向かって歩み出すことにおいても、全てが、聖霊の働きに終始している、ということなのです。人間の言葉や計画によって、教会が生まれ、伝道が推進されたのではなく、神様の霊−聖霊―の力によってのみ、全てが進行していくのです。使徒言行録のテーマは、「教会」と申し上げましたが、厳密に言えば「聖霊」ともいえるかもしれません。
いずれにせよ、心の目を開き、主イエス・キリストによって実現した救いの御業を悟らしめ、それを、更に推し進め、前進させるのは、聖霊の働きなのです。そして、使徒たちは、そして、教会は、その聖霊を受けた器として、豊かに、主に用いられていく存在となるわけです。
使徒言行録で描かれている教会の姿は、一生懸命に、人間が努力し、成果をあげる姿ではありません。聖霊によって押し出され、聖霊によって導かれ、聖霊に溢れて福音を宣べ伝える。そこに、使徒言行録が、描き出す、教会の本来の姿があるのです。
私達は、今、もう既に、聖霊を通して、洗礼の恵みを頂いています。私達は、もう、主イエス・キリストの救いに生かされ、主の前で、主の目に相応しいものとして、今を得ています。そして、今、私達は、この聖霊によって押し出され、それぞれの場へと、それぞれの世界へと派遣されていきます。主は、今、あなたを、この世に必要なものとしてくださるのです。あなたが、今、救われているのは、神様が、あなたを、今、必要としているからなのです。
勿論、神様は、私達の力を借りなくても、救いを成し遂げることはできます。しかし、主は、今、あなたを救い出すことで、全てを終わらすのではなく、あなたを必要なものとして用いて下さる。そのことで、私達を、新たに、生かす。そのことを大切にしてくださるのです。
人間にとって、一番苦しいことは、必要とされないことです。しかし、主は、あなたを用いたいと願っているのであります。救われることと、派遣されることは、決して切り離せないのです。ルカ福音書と使徒言行録が、切り離せないとは、正に、そのことでもあるのです。
私達にできることは小さいことかもしれません。貧しいことかもしれません。何も出来ないかもしれません。あるいは、不安になることもあるでしょう。
しかし、そこで本当に、あなたを押し出し、遣わし、語らせるのは、あなたではなく、聖霊なのです。あなたが、今、先立って救われ、聖霊を受けているのは、そのあなたを通して、神が、豊かに働き、この世界に対して、キリストの救いを告げ知らせるためなのです。
私達が、すべきことは、何でしょうか。それは、何よりもまず、聖霊を待つ、ということです。人間の計画や感情で、伝道はできません。大事なことは、聖霊の導きを待つことです。
では、聖霊を待つとは、どういうことでしょうか。それは、今も生きておられるキリストの御言葉に聴き続けることであります。
主イエス・キリストが、四十日の間、弟子たちと交わりを豊かにしたように、私達も又、主との交わりを豊かに持ち、そこで救いを、沢山味わい。救いを確かにしていただくのです。
その先に、聖霊の働きがあるのです。礼拝を通して、主との交わりを頂き、御言葉に満たされる。救いを確かにしていただく。
そのところで、聖霊が降る。そして、押し出されるように、外の世界へと歩み出すのです。この礼拝は、帰る場所です。礼拝が終われば、私達は、それぞれの家庭、社会、学校へと遣わされるのです。主は、私達の思いを越えて、私達を用いてくださる。そのことを信じて、私達も又、使徒たちと共に、励まし合いながら、伝道旅行に出かけて行きたいと思います。
今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録1章1節から5節の御言葉であります。今日から、使徒言行録の御言葉に、続けて、聴いて参りたいと思います。
早速、1節から2節の御言葉をお読みします。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。
ここに出てくる「テオフィロ」という人物。この人物については、正確なことはわかりません。但し、ここで、明確に、分かることがあります。それは、この使徒言行録が、第二巻である、ということです。つまり、第一巻がある、ということになります。
では、第一巻とは、何でしょうか。それが、「ルカによる福音書」です。実は、このルカによる福音書の冒頭にも、「テオフィロ」という人物。この人物の名前だけが出てきます。それ故に、ルカによる福音書が、ここで言われている第一巻のことであり、使徒言行録が、第二巻となるわけです。著者は、勿論、「ルカ」であります。
ここで大切なことは、何でしょうか。それは、「使徒言行録」の前提として、あるいは土台として、ルカによる福音書があるのだ、ということなのです。言い方を変えて申し上げるならば、ルカによる福音書と切り離せない仕方で、使徒言行録が記されている、ということなのです。これが大切なポイントになります。
使徒言行録のテーマを、分かりやすく、簡単に、一言で言うならば、「教会」です。ルカは、ここから「教会の物語」について記していくことになります。
但し、この教会の物語の土台には、あるいは、前提には、ルカによる福音書がある。主イエス・キリストの物語がある。主イエス・キリストの誕生、苦難と死、復活と昇天とがある。この主イエス・キリストの救いの物語が、教会の物語の土台に据えられているのです。これを切り離すことはできません。神様の救いの歴史は、キリストの昇天で終わるのではなく、その救いを経て、今や、教会の物語へと引き継がれていくのです。
どれだけ、素晴らしい会堂があろうとも、あるいは、どれだけ素晴らしい活動をしていても、その教会の土台に、キリストの救いの歴史がなければ、それは「教会」とは呼ばれないのです。教会の土台は、人間の働きや業績の積み重ねなどではなく、ただただ、キリストの救いの御業しかないのであります。
このことを、私達もまた、忘れてはいけないのです。私達もまた、主イエス・キリストの死と復活、そして昇天とにおける、神様の途切れることのない救いの歴史の中に、参加させていただいている一人。そして、その歴史において、かけてはいけない、必要とされた、かけがえのない一人とならしていただいているのであります。
さて、ここで、もう一つ大切な言葉があります。それが「使徒」という言葉です。この「使徒」という言葉は、「遣わされた者」という意味です。主イエス・キリストが、彼らを選び、彼らを「使徒」と呼んだのは、彼らを「派遣する」という目的のためでもあるのです。
それでは、使徒たちを派遣する目的は、一体何でしょうか。ルカによる福音書24章45節以下には、その目的が、明確に記されています。要約すると、彼らが派遣される目的は、二つあります。まず、全世界に対して、キリストの十字架の死と復活の救いを宣べ伝えること。そして、全ての人を、この救いへと招くことです。これが、主によって選び出された使徒たちの使命であり、クリスチャンの使命であり、そして、教会の使命なのであります。
ここで大事なことは、教会は、何をする場所なのか、ということです。教会は、キリストの救いを語り、キリストの救いへと招く場所なのです。これが、キリストによって命じられ、聖霊によって指示され、そして使徒たちから、脈々と継承された、教会のなすべきことなのであります。
そして、この使命は、今の教会にとって、変わることのない大切な原点であり、教会の本来あるべき姿です。どれだけ、良い言葉を発信していたとしても、そこで、キリストの救いが告げ知らされていないのであるならば、それは、もはや、教会ではないのであります。逆に言えば、人の目から見て、どれだけ貧しい言葉、愚かな言葉であったとしても、そこで、キリストの救いが、生き生きと語り続けられている。それが、教会なのであります。私達自身も又、創立記念礼拝を前にして、この教会の原点や在り方について、再度、問われているのではないかと思うのであります。
主イエス・キリストは、使徒たちを派遣します。この派遣に際して、主なる神が、使徒たちに対して、なして下さることがあります。それが、「聖霊」を与える、ということです。
それでは、「聖霊」は、使徒たちに対して、何をしてくださるのでしょうか。ルカによる福音書24章45節以下を読みますと、「聖霊」は、使徒たちの心の目を開き、聖書を悟らせる力を与えて下さるのだ、と言われています。聖霊を通して、聖書に書かれていること。それがわかるようになるのであります。
しかし、それだけではありません。主イエス・キリストは、「聖書は、わたしについて書いてある」と仰せになりました。つまり、聖霊を通して、心の目が開かれ、聖書の内容を知るだけでないのです。そこで、主イエス・キリストが分かるのです。主イエス・キリストが、真の救い主であること、主イエス・キリストにこそ救いがあること。そのことが生き生きとわかってくる。何よりも、まず、使徒たちが、キリストによって救われている。その確信を得ることができるのであります。言うならば、キリストの救いを確かなものにすることができる。ここに聖霊の働きがあります。この深い恵みの中で、使徒たちは、この世に派遣され、使命に生きる者とされていくことになるのです。
私達もまた、この世界に遣わされた一人です。しかし、それは、この私が選んだ道ではありません。主が、あなたを選び、あなたを必要とし、聖霊を与え、キリストの救いで、この私達をまず、豊かに満たして下さる。その救いを確かにして下さる。そこから、主の弟子として、遣わされた者として、クリスチャンの、教会の歩みが始まるのです。
3節から5節の御言葉をお読みします。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである』」。
これは、恐らく、この後に起きる、ペンテコステ(聖霊降臨)についての予告であると言えます。このペンテコステから、教会が生まれ、その歩みを具体的に、はじめていくことになります。この聖霊降臨を通して、使徒たちの伝道、使徒たちの派遣が始まるのです。
皆様もお気づきかとは思いますが、ここで使徒たちは、二回も聖霊を頂くことになるのです。最初の聖霊は、使徒たちの心の目を開きます。聖書を悟る力を与えます。次の聖霊は、彼らが、完全に清められ、主の目に相応しいものへと造りかえられ、そして、使徒たちを、伝道へと押し出していくのです。
実は、これが、とても大切なことなのです。彼らが、語る言葉も、彼らが世界に向かって歩み出すことにおいても、全てが、聖霊の働きに終始している、ということなのです。人間の言葉や計画によって、教会が生まれ、伝道が推進されたのではなく、神様の霊−聖霊―の力によってのみ、全てが進行していくのです。使徒言行録のテーマは、「教会」と申し上げましたが、厳密に言えば「聖霊」ともいえるかもしれません。
いずれにせよ、心の目を開き、主イエス・キリストによって実現した救いの御業を悟らしめ、それを、更に推し進め、前進させるのは、聖霊の働きなのです。そして、使徒たちは、そして、教会は、その聖霊を受けた器として、豊かに、主に用いられていく存在となるわけです。
使徒言行録で描かれている教会の姿は、一生懸命に、人間が努力し、成果をあげる姿ではありません。聖霊によって押し出され、聖霊によって導かれ、聖霊に溢れて福音を宣べ伝える。そこに、使徒言行録が、描き出す、教会の本来の姿があるのです。
私達は、今、もう既に、聖霊を通して、洗礼の恵みを頂いています。私達は、もう、主イエス・キリストの救いに生かされ、主の前で、主の目に相応しいものとして、今を得ています。そして、今、私達は、この聖霊によって押し出され、それぞれの場へと、それぞれの世界へと派遣されていきます。主は、今、あなたを、この世に必要なものとしてくださるのです。あなたが、今、救われているのは、神様が、あなたを、今、必要としているからなのです。
勿論、神様は、私達の力を借りなくても、救いを成し遂げることはできます。しかし、主は、今、あなたを救い出すことで、全てを終わらすのではなく、あなたを必要なものとして用いて下さる。そのことで、私達を、新たに、生かす。そのことを大切にしてくださるのです。
人間にとって、一番苦しいことは、必要とされないことです。しかし、主は、あなたを用いたいと願っているのであります。救われることと、派遣されることは、決して切り離せないのです。ルカ福音書と使徒言行録が、切り離せないとは、正に、そのことでもあるのです。
私達にできることは小さいことかもしれません。貧しいことかもしれません。何も出来ないかもしれません。あるいは、不安になることもあるでしょう。
しかし、そこで本当に、あなたを押し出し、遣わし、語らせるのは、あなたではなく、聖霊なのです。あなたが、今、先立って救われ、聖霊を受けているのは、そのあなたを通して、神が、豊かに働き、この世界に対して、キリストの救いを告げ知らせるためなのです。
私達が、すべきことは、何でしょうか。それは、何よりもまず、聖霊を待つ、ということです。人間の計画や感情で、伝道はできません。大事なことは、聖霊の導きを待つことです。
では、聖霊を待つとは、どういうことでしょうか。それは、今も生きておられるキリストの御言葉に聴き続けることであります。
主イエス・キリストが、四十日の間、弟子たちと交わりを豊かにしたように、私達も又、主との交わりを豊かに持ち、そこで救いを、沢山味わい。救いを確かにしていただくのです。
その先に、聖霊の働きがあるのです。礼拝を通して、主との交わりを頂き、御言葉に満たされる。救いを確かにしていただく。
そのところで、聖霊が降る。そして、押し出されるように、外の世界へと歩み出すのです。この礼拝は、帰る場所です。礼拝が終われば、私達は、それぞれの家庭、社会、学校へと遣わされるのです。主は、私達の思いを越えて、私達を用いてくださる。そのことを信じて、私達も又、使徒たちと共に、励まし合いながら、伝道旅行に出かけて行きたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:56| 日記