2021年06月18日

牧師日記㊱「明るい部屋」

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

久しぶりのブログです(´;ω;`)

でも、更新は忘れていませんからね!!( ´艸`)

さて、いよいよ、「牧師館の建替」が近づいてきました('◇')ゞ

そのために、絶賛「事務室の荷物総移動」中です(o^―^o)ニコ

毎日、朝・昼・夕の三回に分けて、それぞれ30分かけて整理しています…


荷物をまとめ、別の部屋に移しながら、改めて気づかされたこと

「荷物多いな!」
「この小さな部屋にどれだけ物を詰め込んだんや!」

徐々に物がなくなった部屋を見て、改めて気づかされたこと

「部屋明るっ!」
「必要なものは、そんなに多くないぁ」

こんな感じです( ´艸`)

私達は、沢山のものを持つことで、安心を得ようとするかもしれません・・・

けれど、安心しきれてないからこそ、物が増えているのではないでしょうか?

不安を払拭するために物を置く→不安のまま→不安を払拭するためにまた物を置く

こういう感じですね(´;ω;`)

本当に、私達の心を平安に保つものは、実は、沢山の物の中にはないのかも・・・

本当は、もっと目には見えなくて、決して奪えず、決して失わず、決して朽ちることのないもの・・・

だって、この沢山のものは、いつかはなくなるものでしょ?そこに安心を置いて良いのでしょうかね?

聖書は、明確に、なくてはならぬもの、私達を本当に安心させるものが何であるかを記しています(o^―^o)ニコ

「無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカによる福音書10章42節口語訳)
→これは、イエス様の御言葉を聞くことの大切さを教えていますね(^▽^)/

「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8章3節)
→イエス様も、引用していますよね(マタイによる福音書4章)

「あなたの御言葉は、わたしの道の光」(詩編119篇105節)

私達を本当に生かし、私達に真の光を与えるのは・・・

御言葉しかない(⌒∇⌒)

この御言葉は、言うならば「主イエス・キリストご自身」でもあります(ヨハネ1章14節参照)。

だから、キリストしかない!とも言える。

正に、キリストしか勝たんのです(o^―^o)ニコ

勿論、生きていくためには、あれもこれも必要なものはありますよね。

けれど、聖書には、「それらのものはすべて加えて与えられる」「だから、まず、神の国と神の義を求めなさい」という言葉もあります(マタイによる福音書6章25節以下)。

大事なことは、私達の生活を、神様の御支配、御言葉の恵み、キリストの救いで一杯にしておくこと!

どれだけ食べても、太らないから安心ですね(^▽^)/

沢山のものに囲まれた生活をしていても、それには終わりがなく、不安から逃れられない。心の中に闇も抱えてしまう・・・

心の中の整理をしましょ(^▽^)/

本当に必要なものを残せば、意外と心は明るいことに気づかされますよー(⌒∇⌒)

いや、本当に明るくなったんですよ、事務室も( ´艸`)

ただ一つ、決して奪うことが出来ず、朽ちることもなく、いつまでも、私達を生かす、主の御言葉に、満たされた生活を送れますように・・・そして、元気を失っている人が回復しますように。元気な人は、元気を失っている人のために祈ることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン虹

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ビフォーを知らないからわかりにくかったですね爆笑

【一緒に聖書を読みましょ♪】
ルカによる福音書10章
申命記8章
【共にお祈りしましょ】
心が暗くなっている人のために
キリストを知らない人々のために
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:41| 日記

2021年06月13日

2021年6月13日 主日礼拝説教「新しい言葉を語る」須賀 工牧師(音声)

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

2021年6月13日の主日礼拝説教の音声版を配信します(o^―^o)ニコ

https://open.spotify.com/episode/4dQktGu8XkV77irWz5MPH8?si=715e293089ef403c

posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:21| 日記

2021年06月12日

2021年6月13日 主日礼拝説教「新しい言葉を語る」須賀 工牧師

聖書:マルコによる福音書16章9節〜20節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、マルコによる福音書16章9節から20節の御言葉であります。
マルコによる福音書も、いよいよ、「結び」となりました。既に、お気づきとは思いますが、マルコによる福音書には、「二つの結び」があります。これは、マルコによる福音書が、二つのパターンで、過去に、残されていた、ということ表しています。
 また、特徴的なことを言うならば、その二つとも「括弧」が付けられています。この括弧の意味は、何でしょうか。それは、この括弧内の文脈が、元々は、存在していなかったということ。これを意味しています。少し、言い方を変えて申し上げるならば、この括弧の中の文章は、後の時代に、誰かによって書き加えられた。そういう文章であるということなのであります。恐らく、筆者ではない誰かが、色々な、資料や福音書を読んで、寄せ集めて、まとめたのではないか。そのようにも考えられます。
 但し、この部分が、筆者によるものではない。だから意味がない。そういうわけではありません。この部分も含めて、聖書であり、この部分にも、私達に必要なメッセージが、しっかりと、示されているのであります。
 今、先ほども、申し上げましたように、今朝の御言葉は、様々な、資料や福音書の寄せ集めではないか。そのように言われています。
 例えば、復活の主が、マグダラのマリアと出会った場面。これは、ヨハネによる福音書にも、同じように記されています。また、そのマグダラのマリアが、主イエス・キリストによって悪霊から救われたということ。これは、ルカによる福音書に記されています。
 それだけではありません。二人の弟子たちが、復活の主と出会った。これもまた、ルカによる福音書の「エマオの途上」。あの復活物語を彷彿とさせます。更に、申し上げると、弟子たちが、食事をしている時、復活の主が現れた。これもまた、ルカによる福音書やヨハネによる福音書の中にも出てくる物語なのであります。このように、この「結びの文章」は、様々な福音書の寄せ集めで、書き加えられたものである。このように、推測することができるのであります。
 しかし、一見、バラバラに寄せ集めた文章であるにも関わらず、ここには、一つのことが、共通して強調されているのであります。それは、何でしょうか。それは、弟子たちが「信じなかった」ということであります。主の弟子たちは、復活の主(の証言)を信じなかった、ということなのであります。
この不信仰な弟子たちについて、聖書には、はっきりと、このように記されています。「イエスと一緒にいた人たち」だと。もう、ここで、弟子たちは、「弟子」とも呼ばれていないのであります。そのような非常に悲しい姿が、ここで描かれているのであります。
 そもそも、復活の主を信じるということ。これは、どういうことなのでしょうか。これは、多くの方々が、誤解していることがあります。即ち、復活の主を信じるとは、死んだ人がよみがえった。この奇跡を信じることだと。実は、これは、大きな誤解なのです。
 復活の主と出会ったマグダラのマリア。彼女は、「イエスが生きておられること」を、弟子たちに伝えたのであります。復活の主を信じる、ということは、「よみがえりの奇跡」を信じることではない。そうではなくて、「主はいきておられる」という言葉を聞いて信じることなのであります。
 今、この時には、目には見えない。しかし、主イエス・キリストは、今も生きて、私達と共に歩み、働いてくださる。主が、今、ここに、生きておられる。この言葉を信じるか、ということなのであります。これが、復活の主を信じる、ということ。今朝の御言葉は、そのことを、私達に強く語り掛けているのであります。
 しかし、主の弟子たちと同じように、私達もまた、今、主が生きておられる事実。これを、たとえ言葉で、聞いたとしても、それをすぐに信じ抜く。それは簡単なことではありません。
この時、弟子たちは、悲しみや絶望、不安や恐れに支配されていました。その深い闇の中で、「イエスは、それでも生きている」という言葉を受け入れることができませんでした。
 私達もまた、不安や恐れ、怒りや苦しみ、様々な出来事や感情の中で、それでも、主は、ここに生きておられる。主は共にいてくださる。その言葉を、信じる。これは、決して、たやすいことではありません。
苦しみや痛みを味わう中で、「イエス様は生きているわ」と聞いても、何も響かない。何も届かない。信じられない。そういうことがあるかもしれません。今朝の御言葉は、そのような人間の現実を、まず、指し示していると言えるのであります。
 このように、あの主の弟子たちですら、言葉を聞いても信じないのであります。しかし、正に、そのような弟子たちの只中に、主イエス・キリストが現れる。つまり、弟子たちが、主を見出したわけではない。主イエス・キリストの側から、来てくださる。不信仰で、とがめられるべき弟子たちであります。その弟子たちの只中に、復活の主御自身が、来て下さるのであります。
 弟子たちは、人の口から出る言葉を信じることはできませんでした。しかし、その言葉が真実であることを、復活の主御自身が、弟子たちの内に、来てくださる。そのことを通して、証明して下さったのであります。ただ、そこで言葉を聞くだけではだめなのです。そこに、主イエス・キリストご自身が生きて、現れることなくして、真の信仰は生み出されることはないのであります。
 今、私は、ここで、御言葉を語らせていただいています。しかし、これがただ一人の人間の言葉として聞かれていては、信仰は生まれてこないでありましょう。救いも分からないでありましょう。大事なことは、主イエス・キリストご自身が、今も、生きて、皆さんの内にきて下さる、ということなのです。そのことなくして、復活の主は信じられない。救いは信じられない。信仰は生まれてこないのであります。どれだけ、私が、いい話をしていても、そこにキリストが来てくださらないのであれば、それは、単なるいい話で終わるのであります。私達が、御言葉を受け、その御言葉が真実だと信じるために、復活の主御自身が、私達の心の内に、介入して下さる。そこで初めて、私達は、主の復活の恵み、救いの恵みを味わうことができるのであります。
 さて、主イエス・キリストは、ただ、弟子たちのところに来られただけではありません。それだけではありません。そこで、彼らを、再び、弟子として迎え入れ、この世へと、彼らを遣わして下さいます。彼らを、用いて下さる。彼らを、必要としてくださるのだ、ということなのであります。「弟子」とも呼べない彼らを、弟子とし、主のものとして必要としてくださるのであります。
主イエス・キリストは、不信仰を喜ぶことはありません。しかし、その不信仰さを越えるほどの憐れみをもって、弟子たちを再び弟子として招き、用いてくださるのであります。
 主の弟子たちは、決して、優秀な者たちではありませんでした。決して、偉い人間ではありません。むしろ、彼らは不信仰であります。彼らもまた、信じなかったのです。不信仰だと、厳しくとがめられたのであります。
 しかし、復活の主が、彼らの内に現れてくださり、彼らを弟子として、新たに迎え入れ、主の御業のために用いてくださる。そして、何よりも、彼らと共に、主が働いてくださるのであります。 
私達もまた、完璧な人間ではありません。躓くことがあります。倒れることがあります。今、主が生きている。そのことを、見失いがちであり、信じ抜くことができません。しかし、それでも、私達が、キリスト者とされているのは、あるいは、キリスト者であり続けられるのは、主が私達の内に来てくださったからであります。私達を見捨てることなく、あなたが必要なのだと。あなたは、私のものだと。主が、私達を求めてくださり、選び出してくださったからなのであります。 
 主イエス・キリストは、死んだ過去の人間ではありません。今、ここに生きて、私達に語り続け、私達を新しいものへと導き、そして、私達を、それぞれの場へと遣わしてくださいます。
 この世界は、弟子たちと同じです。私達と同じです。私達が、どれだけ語っても信じない世界です。しかし、主がそこで、共に働いてくださる。私達の内に働きかけてくださったように、主が、私達を通して、生きて働き続けてくださるのです。私達が、キリスト者としてなす一つ一つが、真実であることを、主御自身が、表して下さるのです。
 私達は、キリストのものとされて生きながら、今、ここに主が生きておられるのだ。主がここに来てくださるのだ。その幸いを味わいながら、日々、キリスト者としての歩み、主の弟子としての歩みを進めていくことができるのです。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:46| 日記