2021年06月25日

2021年7月4日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「神の国についてたとえで話す@」
聖書:マルコによる福音書4章1節〜9節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「主の復活の証人」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録1章12節〜26節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:44| 日記

2021年6月27日 主日礼拝説教「聖霊によって力を受ける」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録1章6節〜11節

 今朝、私達は、石山教会の創立記念礼拝をささげています。この石山の地に、教会が建てられ、73年の月日が経ちました。石山教会が、かつても、今も、主によって守られたことに、深く感謝を申し上げます。そして、これからの歩みの上に、神様の祝福が、豊かにありますように、心より、お祈り申し上げます。今朝は、その恵みに深く思いを馳せつつ、使徒言行録の御言葉に聴いて参りたいと思います。
 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録1章6節から11節の御言葉です。6節の御言葉を、改めて、お読みします。「さて、使徒たちは集まって『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』」。
 ユダヤ人には、信じていることがあります。それは、神様の救いが、完成することです。神様の救いとは、どのような救いでしょうか。それは、救い主が到来し、救い主によって、イスラエルの国が、復興していくことであります。
 イスラエルは、今まで、沢山の国々に、支配されてきました。このような、悲惨な歴史の中で、ユダヤ人の希望は、救い主の到来。そして、その救い主によって、イスラエルが、建て直される。これが、ユダヤ人たちの希望なのです。
 この使徒たちの問いかけは、そのような、ユダヤ人の希望に基づいた問いかけなのであります。復活の主は、使徒たちと共に、四十日間、お過ごしになられました。その四十日の間、復活の主は、御自身の復活について、そして、神の国の話をしてくださったのです。
 復活の主と共に過ごす日々を経て、次第に、弟子たちの心が熱くなり、期待を膨らませることとなったわけです。「この人こそ、救い主に違いない」とか「この御方こと、イスラエルを回復してくださる御方だ」とか、心の中で、ユダヤ的な希望が、沸々と湧いてきたのです。要するに、この使徒たちの問いかけは、このようなユダヤ的メシア思想、あるいは、「救いの完成」を願う、ユダヤ的終末論に基づく問いかけなのです。
 それに対して、主イエス・キリストは、どのように、答えられたのでしょうか。7節から8節の御言葉をお読みします。「イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる』」。
 まず、ここで大事なことは、「救いの完成」は、人間の知ることではない、ということです。あくまでも、神様の御心、神様の御計画を優先しなさいということです。
そして、二つ目に大事なことは、主イエス・キリストの十字架の死と復活が、同時に、「救いの完成」ではない、ということです。勿論、キリストの十字架の死と復活は、私達を、罪と死から救います。
 しかし、それは、完全な形での「救いの完成」ではありません。言うならば、「救いの完成」に向かった「始まり」に過ぎないのです。あるいは、最後に、完全に救われるための保証や約束であると言えるかもしれません。
 考えてみてください。主イエス・キリストの十字架の死と復活の救いに生かされながら、それでも、私達は、不平や不満を言い、間違いを犯すのです。どこに、完全に救われたものの姿があるでしょうか。イスラエルは、エジプトから解放されました。しかし、それで、救いが完成したわけではありません。そこから荒れ野の旅路が続きます。そして、最後の最後に、乳と蜜が流れる土地、即ち、神の国に至って、初めて救いが完成するのです。今、私達は、その救いの完成に向かって、荒れ野を旅する、神の民なのです。
 「救いの完成」は、私達が、決めることではありません。神様の御計画であり、神様の御心です。それ故に、私達に必要なことは、自分は、もうすでに、キリストの救いの中に入れて頂いている。その幸いを、心に深く刻みつつ、その「時」を、主に委ねて、待つ、ということに限るのであります。これが、使徒たちの姿であり、キリスト者の群れ、教会の姿なのであります。
 そして、ここでもう一つ大切なことがあります。それは、「救いの完成」は、イスラエルだけのものではない、ということです。全世界、全被造物が、その救いの中へと招かれているのであります。「サマリア」という地名が出て参ります。この土地は、イスラエルと敵対している土地です。そのような土地もまた、神様の救いへと招かれている。正に、救いの光が、届かない所は、どこにもない。世界の隅々まで、救いの光が届けられる。神様の救いの御計画は、そのような仕方で、着々と進められ、完成に至るのであります。
 今、使徒たちが、すべきことは、「救いが完成した」と、歓喜することではありません。主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、永遠の救いが、既に約束されている。その幸いを、全世界に向かって、力強く届けることなのです。
 主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神様の救いが実現しました。この瞬間から、神の国(神様の救いの御支配)が、完成にむかって進み出します。使徒たちが、今、求められているのは、あるいは、教会が、今求められているのは、この救いの完成を待ち望みつつ、同時に、この救いを、一人でも多くのものに、宣べ伝えることなのであります。主イエス・キリストの証言をする人になるのです。その大切な務めのために、今、あなたが、先立って、救いに入れられているのです。
 しかし、この働きは、決して、使徒たちだけのスタンドプレーではありません。キリストが、働きの中心でなければいけないのです。つまり、この務めは、キリストと共に、キリストを近くに感じながら、キリストの働きとして果たされなければいけない務めなのです。
 ただ、もし、キリストが、肉体をもって、この地上に残っていた場合、どうなるでしょうか。今日は、石山教会にいるかもしれませんが、明日は、大津教会、来週は、アメリカの教会にいるかもしれません。それまで、石山教会に、キリストはおられません。このような、話になってしまうわけです。
 いつでも、キリストが、共にいてくださる。いつでも、キリストが、生きてくださる。いつでも、キリストが、私達を通して、語り続けてくださる。そのために、キリストは、御自身の霊を、私達に与えてくださるのです。聖霊を通して、私達は、語るべき言葉が与えられ、主を証しする力が与えられ、時に、励まされ、慰められながら、そして、何よりも、キリストが、今、ここに生きて働いてくださる、ということを、深く味わいながら、それぞれの務めに向かって歩み出すことができるのです。
 9節の御言葉を、再びお読みします。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。
 これは、主イエス・キリストの昇天についてのお話です。主イエス・キリストが、天に昇られた、という話です。ここで、「雲」という言葉が、出てきます。聖書において、「雲」とは、「神様の栄光」を表しています。つまり、ここで、主イエス・キリストは、神様の栄光に包まれて、昇って行かれた、ということです。
 それ故に、「天」とは、「空」とか「宇宙」のことではありません。「神様がおられるところ」「神様の栄光のあるところ」という意味になります。使徒信条や詩編110篇の言葉に基づいて言うならば、「神の右の座」ともいえるかもしれません。
それでは、この「復活の主の昇天」という出来事が、何を意味しているのでしょうか。ここでは、簡単に、三つのことをお話します。
 一つは、主イエス・キリストが、昇天し、「神の右に座し」、真の支配者となられた、ということです。今、私達を支配しているのは、私達の為に、命を捨てられたお方なのだ、ということです。そのようなお方が、今や、この全世界を支配しているのだ、ということなのであります。これが、まず、大切なことであります。
 もう一つは、主イエス・キリストが、昇天されたことによって、私達にもまた、神の国に居場所が与えられている、ということであります。罪ある者は、神様のもとに行くことはできません。しかし、今や、キリストが、私達を救い、私達の弁護者となって下さる。そのことを通して、天の国にも、居場所を得ることができるのです。この地上が、私達の本拠地ではなく、天に、私達の名が刻まれ、天に居場所を得ることが許されている、ということなのであります。
 そして、最後は、主イエス・キリストの昇天によって、代わりに「聖霊」が降る、ということであります。例えば、ヨハネによる福音書16章7節には、次のような御言葉があります。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。
 つまり、主イエス・キリストが、天に昇られるのと同時に、キリストの霊−聖霊―が、主によって送られて来る。聖霊を受け取り、聖霊を送るために、主は、天に昇られるのです。
 主が、昇天し、聖霊が降る。そのことを通して、いつでも、どこでも、私達は、キリストが共にいる。そのことを味わいながら生き、そして、そのことを噛み締めながら、主に与えられた務めに生きることができるのであります。
 私達の救い主は、今、天に上げられ、神の右に座し、救いの光で、全てを支配しておられます。しかし、それだけではない。私達の弁護者、聖霊を通して、私達と共に歩み続けてくださる。聖霊を通して、今も、私達にメッセージを語り続けていてくださるのです。聖霊を通して、私達と共に働き続けてくださる。聖霊を通して、いつでも、私達を慰め、励まし続けてくださる。その幸いが、ここから強く指し示されているのです。
 10節から11節の御言葉をお読みします。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。
 「白い服を着た人」とは、恐らく、天使のことです。その天使たちは、主イエス・キリストは、再び、同じ有様で、来てくださるのだ、と約束します。
 主イエス・キリストは、何のために、再び、来られるのでしょうか。「救いを完成」させるためです。使徒信条に基づいて言うならば、「最後の審判」をするためです。神様の審判が下される。その時、救いが完成するのです。
 私達は、どうして、主の審判に耐えることができるのでしょうか。神様の基準によって、正義と悪、生きるか死ぬかが決められるのです。その審判に、誰が耐えることができるのでしょうか。言い方を変えて言うならば、誰が救われるのでしょうか。
 そのような不安を抱かざるを得ないのが、私達です。しかし、目を上げ、顔を上げると、そこには、私達の為に命を捨ててくださった方がいる。その御方が、私達の審判者であり、支配者であり、そして、弁護者でいてくださる。私達は、その恵みを知っている者なのです。
 私達は、これから来る救いの完成に向けて、もうすでに、自分が、キリストによって救われていることを確信しながら、この地上での歩みを生き、この地上での使命に生きることができるのです。
この深い恵みを思いながら、教会は、主の証言をしつつ、神の国を待ち望むのです。神の国は、既に近づき、そして、十字架の死と復活、昇天を経て、始まっています。しかし、まだ、完全な意味での完成はしていません。使徒たちは、そして、教会は、この間の期間を歩んでいるのです。
 この世界は、いまだ、罪と死に満ち溢れた世界です。私達も又、その闇に飲み込まれてしまうことがある。その意味で、まだ、救いは、本当の意味で、完成していないのです。
 しかし、私達は、主イエス・キリストが、もう既に、罪に勝利されたことを知っています。私達は、その主イエス・キリストが、今、神の右に座し、救いの光で、この世界を照らしていることを知っています。私達は、この世で、どんなに苦しく、孤独になろうとも、天に居場所が、備えられていることを知っています。私達は、今、聖霊を頂き、真の慰めを頂きながら、主の使命を頂き、歩み続けられることを知っています。
私達は、今も、そして、これからも、この深い恵みを、強く心に刻み付けながら、主の勝利の報告を、その救いの喜びを、その福音の確かさを、告げ知らすために、聖霊を頂き、主を近くに感じながら、それぞれの場へと遣わされているのです。
 救いの完成は、主が、再び来ることです。それが、ここで約束されています。教会の歩みは、主イエス・キリストの昇天と再臨との間の歩みです。この間の歩みは、聖霊の導きによるものです。聖霊に溢れ、主が共にいることを味わい、主の再臨に希望を抱きながら、歩む。それが、今の教会の姿なのです。その幸いを思いつつ、主の御委託に答えて、新しい一年の歩みを進めて参りたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:41| 日記