ハレルヤ!主の御名を賛美します!!
先日の礼拝説教音声版を配信します(o^―^o)ニコ
https://open.spotify.com/episode/2dxCXIOqNDwUuRgZd6ume3?si=32a614ca59984760
2021年07月12日
2021年7月11日 主日礼拝説教音声「聖霊降臨」須賀 工牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:03| 日記
2021年07月09日
2021年7月18日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
説教:「嵐を静める」
聖書:マルコによる福音書4章35節〜41節
*礼拝後、分級があります!
*8月中の教会学校は、お休みです。
〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「主イエスの十字架」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録2章14節〜23節
感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
説教:「嵐を静める」
聖書:マルコによる福音書4章35節〜41節
*礼拝後、分級があります!
*8月中の教会学校は、お休みです。
〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「主イエスの十字架」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録2章14節〜23節
感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:09| 日記
2021年7月11日 主日礼拝説教「聖霊降臨」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録2章1節〜13節
今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録2章1節から13節の御言葉であります。もうすでに、ご存じの方も多いかと思いますが、今朝の御言葉は、「聖霊降臨」に関する御言葉です。言い方を変えて、申し上げるならば、「教会の誕生」に関する御言葉であります。
主イエス・キリストは、十字架で死に、三日目によみがえりました。そして、その後、天に昇られました。天に昇られたキリストに代わって、次に、キリストの霊が、使徒たちに降ります。これが、「聖霊降臨」です。そして、ここから、「教会の歴史」が始まるのであります。
今朝の御言葉は、その「教会の誕生」に関する御言葉です。それでは、教会は、「いつ、どのようにして、何のために」誕生したのでしょうか。今朝は、そのことに思いを馳せながら、共に、御言葉に聴いて参りたいと思います。
今朝の御言葉の1節を、改めて、お読みします。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」。
ここで「五旬祭」という言葉が出てきます。「五旬」とは、数字の「50」のことです。つまり、ここで言われている「五旬祭」とは、「50日目のお祭り」という意味があります。因みに、この「五旬祭」をギリシャ語で言い直すと、「ペンテコステ」という言葉になるのです。
それでは、ここで言われている「50日目」とは、一体、いつから数えて「50日目」なのでしょうか。それが、「過越祭」からです。主イエス・キリストの受難と死、そして、復活は、過越祭の終わりの出来事でありました。それ故に、この出来事の50日目に、聖霊降臨が起きた。そのことが、ここから分かるのです。
それでは、この「五旬祭」とは、どのような祭りなのでしょうか。ここには、二つの意味があります。一つは、「採れたての小麦をささげる祭」です。初物の小麦をささげて、神様に感謝をすること。そして、その後の収穫の保証を得るということ。これが、一つの目の意味です。
もう一つの意味は、何でしょうか。それは、イスラエルに、「十戒が与えられた記念日」であると言われています。かつて、モーセを通して、シナイ山で、十戒が与えられた。それを記念する日です。それは言い換えるならば、イスラエルが、正式に、神の民とされた日。神の民としての誕生日ともいえるかもしれません。
このように、「五旬祭」には、二つの意味がありました。そして、このような日に、聖霊が降り、教会が誕生したのです。そこに、既に、大きな恵みが、表されています。
即ち、新たに生まれた、この教会を通して、新しい神の民が、今、正に、誕生するのだ、ということであります。そして、この教会を通して、世界中の人々が、主に選び出され、刈り取られていく。収穫されていく。主の倉に納められていく。主のものとされていく。そのような大きな幸いが、ここから示されているのです。ここにこそ、教会が、誕生することの大きな意味があると言えるのではないでしょうか。
私達は、ただ、教会に所属しているだけではありません。神様が、神の民として、私達を、この世から選び出して下さり、この世から刈り取ってくださり、主のものとして、主の目に一番美しいものとして、主の倉に納めてくださる。教会とは、そのような、深い喜びが、豊かに実現する場所として、生まれたのです。そして、そのような、場所として、今も、立ち続けているのであります。
それでは、この聖霊降臨日には、一体、何が起きたのでしょうか。2節から12節の御言葉をお読みします。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは』」。
ここから分かりますように、聖霊降臨は、人の目や耳で、見たり、聞いたりできるほどの、インパクトある仕方で、実現したことが分かります。
しかし、御言葉を、良く読むと分かりますが、実際に、「風」が吹いたわけではありません。あるいは、実際に、「炎」が出たわけではありません。聖書によると、「風のような」「炎のような」と書かれています。つまり、これは、あくまでも「しるし」のような仕方で、記されていることが分かるのです。
そうでありますから、ここで、大事なことは、それらの「しるし」が、何を意味しているのか、ということになるのであります。それでは、その意味とは、一体、何でしょうか。
まず、ここで大事なことは、「突然」という言葉です。つまり、全く、人間が意図していない。計画していない仕方で、聖霊が降ったのだ、ということであります。それは、即ち、教会は、人間の計画や思想、あるいは、情熱によって生まれたわけでない、ということです。神様の御心によって、神様の御業によって生まれた、ということであります。
ここで、はっきりとしていることは、何でしょうか。それは、教会の中心は、あくまでも、神様御自身でしかないということです。人ではない、ということです。神様が、教会の中心に強く臨んでいて下さる。それが教会なのであります。そのことが、ここから、まず、はっきりと示されているのではないでしょうか。
もう少し、詳細に見ていきましょう。例えば、この「風」という言葉は、旧約聖書では「神の霊」を象徴しています。「炎」もまた、「神様の霊的な働き」を表現したものです。「舌」は、「言葉」をイメージさせるものでありましょう。
ここで、示されていることは、何でしょうか。教会とは、「神様の霊と御言葉」が、支配する場所なのだ、ということであります。神様が中心に立ち、神様の霊が働き、神様の御言葉が語られる場所。そのようなものとして、教会が誕生した。ここに教会の本来の姿がある。それが、ここから示されている「しるしの意味」なのであります。
教会は、決して、人間の言葉が支配する場所ではありません。いや、そうあってはいけない場所であります。神様の霊と御言葉が、教会を生み出し、教会を作り出し、そして、教会を維持させるのであります。それが、ここから示されるのであります。
聖書に記されているように、「一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに…話し出した」とあります。教会で、本当に語るのは、「聖霊」であります。「キリスト・神様御自身」であります。人間ではないのです。ここに主が生きておられる。その主が、語るのであります。
北森嘉蔵(きたもりかぞう)という有名な神学者、牧師がいます。北森牧師は、この使徒言行録2章の出来事を「決河の勢い」(けっかのいきおい)と表現しました。「決河」とは、せき止めていた水が、堤防を打ち破り、流れ出ていく様子のことであります。聖霊降臨日とは、そのような激しさや勢いに満ちた出来事だったのだと、北森氏は、表現しているのであります。
考えてみれば、主イエス・キリストは、この地上において、度々、沈黙を貫いてこられました。ある時には、弟子たちに語ることを禁じました。また、裁判にかけられても、十字架に架けられる時にも、沈黙を貫いてきました。そして、主は、天に昇られたのであります。
しかし、今、使徒たちに聖霊が降る。教会が誕生する。その時、キリストは、聖霊を通して、使徒たちの口を用いて、語り始めた。沈黙を打ち破るように、主御自身が、真の救いの出来事を、生きて語り始めたのであります。
教会は、人の言葉が、支配する場所でありません。今も生きて働かれるキリストが、決河の勢いのごとく、語りだして下さる場所。そのような場所として誕生し、今も、そのようにして、立ち続けているのであります。キリストをどこか遠くに感じる必要はありません。今、主は、生きて、あなたに語り続けて下さるのです。
それでは、教会は、キリストの霊は、今、何を語るのでしょうか。使徒言行録1章8節以下には、次にように記されていています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てにいたるまで、わたしの証人となる」。
「キリストの証人」となることが、使徒たちの務めです。更に言うならば、キリストの復活の証人です。キリストが、今も生きていること。そして、復活の主が、罪の赦しと永遠の命を約束してくださる、ということ。今、キリストが、使徒たちを通して、語っていることは、ここにあります。罪の赦しと永遠の命。これこそ、教会が、語るべき、だだ一つの救いなのであります。
聖書によると、使徒たちは、他の国の言葉で話し出しました。そして、そこで、諸外国に住んでいたユダヤ人−地名は、当時に全世界を意味している―が、この奇跡を目の当たりにしたのであります。そして、一同、揃ってこのように言うのです。「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と。
この救いは、全世界の人々に与えられた御言葉なのであります。私達は、国が変われば、言語は違います。しかし、救いは同じなのです。
何が言いたいのでしょうか。それは、救いは、一つしかない、ということです。どのような国にいようと、どこで生きようと、共に、一つの救いを味わうことができる。違いを越えて、国を越えて、私達は、一つの救いを味わい、一つの民となることができる。罪の赦しと永遠の命。これ以外が、私達の・全世界の救いにはならないのであります。
また、ここで大事なことは、救いは、私達の分かる「言葉」を用いて表されているのだ、ということなのです。何か、神秘的な体験をしなければ、救いは、得られない、ということではないのです。私達が、理解し、味わうことができる言葉。その言葉を用いて、キリストは、救いを明らかにしてくださる。ここにも教会の大きな幸いがあると、言えるかもしれません。
しかし、聖書によると、この出来事を、素直に受け取れない人々もいたようです。12節から13節の御言葉をお読みします。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」。
これは、どういうことでしょうか。これは、語るにも、聞くにも、聖霊が必要なのだ、ということなのであります。信仰は、救いは、聖霊の働きなくしては、人には届かないのだ、ということなのであります。
だからこそ、教会は、いつでも、聖霊が支配する場所でなければいけないのだ、ということ。そのことが、ここで強く示されているのであります。人間の理想や情熱が、教会を支配するのではないのです。神様の霊が支配する場所であります。
そのためには、何が必要でしょうか。私達の思いを捨てることです。私達の理想を捨て、心を空にする。ただ、神様だけが働く。その余地をあけて置く。そのことに他ならないのであります。
私達は、今、使徒から、教会を引き継いでいるわけです。長い年月が経ちました。私達の教会の在り方は、どうでしょうか。人の思いや理想で一杯になっていないか。改めて、私達は、ここから教会の在り方を問われているのではないかと思うのであります。
さて、教会は、誕生から、長い年月がたちました。今も、教会は立ち続けています。様々な迫害を経て、失敗を経て、それでも、教会は、主の霊によって立ち続けています。
マタイによる福音書28章19節には、次のような言葉があります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
救いの完成は、教会では終わらないのです。救いの完成は、「世の終わりの日」「主の再臨」と共に、実現します。その日に至るまで、教会は、何をすべきか。福音に堅く立ち、その福音を述べ伝えることです。その器として、教会は、建ち続け、今、私達も用いられている。必要とされているのです。
その歩みは、キリストと切り離された歩みではありません。主が共にいる歩みであります。いつも、キリストを近く感じ、キリストの語られる言葉によって、励まされながら、私達は、これからも、神の国に向かって歩み続けるのです。
私達は、神の民です。私達は、もうすでに、神の国に入る。その約束を得ている民です。その幸いを思い起こし、その救いに立ち帰り、福音にたって、私達もまた、主と共に前進していくものでありたいのです。そして、一人でも多くの方々が、この永遠の救いを知り、神の民へと帰還していくことを願いつつ、主の招きと働きに委ねつつ、歩み続けたいと思います。
今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録2章1節から13節の御言葉であります。もうすでに、ご存じの方も多いかと思いますが、今朝の御言葉は、「聖霊降臨」に関する御言葉です。言い方を変えて、申し上げるならば、「教会の誕生」に関する御言葉であります。
主イエス・キリストは、十字架で死に、三日目によみがえりました。そして、その後、天に昇られました。天に昇られたキリストに代わって、次に、キリストの霊が、使徒たちに降ります。これが、「聖霊降臨」です。そして、ここから、「教会の歴史」が始まるのであります。
今朝の御言葉は、その「教会の誕生」に関する御言葉です。それでは、教会は、「いつ、どのようにして、何のために」誕生したのでしょうか。今朝は、そのことに思いを馳せながら、共に、御言葉に聴いて参りたいと思います。
今朝の御言葉の1節を、改めて、お読みします。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」。
ここで「五旬祭」という言葉が出てきます。「五旬」とは、数字の「50」のことです。つまり、ここで言われている「五旬祭」とは、「50日目のお祭り」という意味があります。因みに、この「五旬祭」をギリシャ語で言い直すと、「ペンテコステ」という言葉になるのです。
それでは、ここで言われている「50日目」とは、一体、いつから数えて「50日目」なのでしょうか。それが、「過越祭」からです。主イエス・キリストの受難と死、そして、復活は、過越祭の終わりの出来事でありました。それ故に、この出来事の50日目に、聖霊降臨が起きた。そのことが、ここから分かるのです。
それでは、この「五旬祭」とは、どのような祭りなのでしょうか。ここには、二つの意味があります。一つは、「採れたての小麦をささげる祭」です。初物の小麦をささげて、神様に感謝をすること。そして、その後の収穫の保証を得るということ。これが、一つの目の意味です。
もう一つの意味は、何でしょうか。それは、イスラエルに、「十戒が与えられた記念日」であると言われています。かつて、モーセを通して、シナイ山で、十戒が与えられた。それを記念する日です。それは言い換えるならば、イスラエルが、正式に、神の民とされた日。神の民としての誕生日ともいえるかもしれません。
このように、「五旬祭」には、二つの意味がありました。そして、このような日に、聖霊が降り、教会が誕生したのです。そこに、既に、大きな恵みが、表されています。
即ち、新たに生まれた、この教会を通して、新しい神の民が、今、正に、誕生するのだ、ということであります。そして、この教会を通して、世界中の人々が、主に選び出され、刈り取られていく。収穫されていく。主の倉に納められていく。主のものとされていく。そのような大きな幸いが、ここから示されているのです。ここにこそ、教会が、誕生することの大きな意味があると言えるのではないでしょうか。
私達は、ただ、教会に所属しているだけではありません。神様が、神の民として、私達を、この世から選び出して下さり、この世から刈り取ってくださり、主のものとして、主の目に一番美しいものとして、主の倉に納めてくださる。教会とは、そのような、深い喜びが、豊かに実現する場所として、生まれたのです。そして、そのような、場所として、今も、立ち続けているのであります。
それでは、この聖霊降臨日には、一体、何が起きたのでしょうか。2節から12節の御言葉をお読みします。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話だした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは』」。
ここから分かりますように、聖霊降臨は、人の目や耳で、見たり、聞いたりできるほどの、インパクトある仕方で、実現したことが分かります。
しかし、御言葉を、良く読むと分かりますが、実際に、「風」が吹いたわけではありません。あるいは、実際に、「炎」が出たわけではありません。聖書によると、「風のような」「炎のような」と書かれています。つまり、これは、あくまでも「しるし」のような仕方で、記されていることが分かるのです。
そうでありますから、ここで、大事なことは、それらの「しるし」が、何を意味しているのか、ということになるのであります。それでは、その意味とは、一体、何でしょうか。
まず、ここで大事なことは、「突然」という言葉です。つまり、全く、人間が意図していない。計画していない仕方で、聖霊が降ったのだ、ということであります。それは、即ち、教会は、人間の計画や思想、あるいは、情熱によって生まれたわけでない、ということです。神様の御心によって、神様の御業によって生まれた、ということであります。
ここで、はっきりとしていることは、何でしょうか。それは、教会の中心は、あくまでも、神様御自身でしかないということです。人ではない、ということです。神様が、教会の中心に強く臨んでいて下さる。それが教会なのであります。そのことが、ここから、まず、はっきりと示されているのではないでしょうか。
もう少し、詳細に見ていきましょう。例えば、この「風」という言葉は、旧約聖書では「神の霊」を象徴しています。「炎」もまた、「神様の霊的な働き」を表現したものです。「舌」は、「言葉」をイメージさせるものでありましょう。
ここで、示されていることは、何でしょうか。教会とは、「神様の霊と御言葉」が、支配する場所なのだ、ということであります。神様が中心に立ち、神様の霊が働き、神様の御言葉が語られる場所。そのようなものとして、教会が誕生した。ここに教会の本来の姿がある。それが、ここから示されている「しるしの意味」なのであります。
教会は、決して、人間の言葉が支配する場所ではありません。いや、そうあってはいけない場所であります。神様の霊と御言葉が、教会を生み出し、教会を作り出し、そして、教会を維持させるのであります。それが、ここから示されるのであります。
聖書に記されているように、「一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに…話し出した」とあります。教会で、本当に語るのは、「聖霊」であります。「キリスト・神様御自身」であります。人間ではないのです。ここに主が生きておられる。その主が、語るのであります。
北森嘉蔵(きたもりかぞう)という有名な神学者、牧師がいます。北森牧師は、この使徒言行録2章の出来事を「決河の勢い」(けっかのいきおい)と表現しました。「決河」とは、せき止めていた水が、堤防を打ち破り、流れ出ていく様子のことであります。聖霊降臨日とは、そのような激しさや勢いに満ちた出来事だったのだと、北森氏は、表現しているのであります。
考えてみれば、主イエス・キリストは、この地上において、度々、沈黙を貫いてこられました。ある時には、弟子たちに語ることを禁じました。また、裁判にかけられても、十字架に架けられる時にも、沈黙を貫いてきました。そして、主は、天に昇られたのであります。
しかし、今、使徒たちに聖霊が降る。教会が誕生する。その時、キリストは、聖霊を通して、使徒たちの口を用いて、語り始めた。沈黙を打ち破るように、主御自身が、真の救いの出来事を、生きて語り始めたのであります。
教会は、人の言葉が、支配する場所でありません。今も生きて働かれるキリストが、決河の勢いのごとく、語りだして下さる場所。そのような場所として誕生し、今も、そのようにして、立ち続けているのであります。キリストをどこか遠くに感じる必要はありません。今、主は、生きて、あなたに語り続けて下さるのです。
それでは、教会は、キリストの霊は、今、何を語るのでしょうか。使徒言行録1章8節以下には、次にように記されていています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てにいたるまで、わたしの証人となる」。
「キリストの証人」となることが、使徒たちの務めです。更に言うならば、キリストの復活の証人です。キリストが、今も生きていること。そして、復活の主が、罪の赦しと永遠の命を約束してくださる、ということ。今、キリストが、使徒たちを通して、語っていることは、ここにあります。罪の赦しと永遠の命。これこそ、教会が、語るべき、だだ一つの救いなのであります。
聖書によると、使徒たちは、他の国の言葉で話し出しました。そして、そこで、諸外国に住んでいたユダヤ人−地名は、当時に全世界を意味している―が、この奇跡を目の当たりにしたのであります。そして、一同、揃ってこのように言うのです。「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と。
この救いは、全世界の人々に与えられた御言葉なのであります。私達は、国が変われば、言語は違います。しかし、救いは同じなのです。
何が言いたいのでしょうか。それは、救いは、一つしかない、ということです。どのような国にいようと、どこで生きようと、共に、一つの救いを味わうことができる。違いを越えて、国を越えて、私達は、一つの救いを味わい、一つの民となることができる。罪の赦しと永遠の命。これ以外が、私達の・全世界の救いにはならないのであります。
また、ここで大事なことは、救いは、私達の分かる「言葉」を用いて表されているのだ、ということなのです。何か、神秘的な体験をしなければ、救いは、得られない、ということではないのです。私達が、理解し、味わうことができる言葉。その言葉を用いて、キリストは、救いを明らかにしてくださる。ここにも教会の大きな幸いがあると、言えるかもしれません。
しかし、聖書によると、この出来事を、素直に受け取れない人々もいたようです。12節から13節の御言葉をお読みします。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」。
これは、どういうことでしょうか。これは、語るにも、聞くにも、聖霊が必要なのだ、ということなのであります。信仰は、救いは、聖霊の働きなくしては、人には届かないのだ、ということなのであります。
だからこそ、教会は、いつでも、聖霊が支配する場所でなければいけないのだ、ということ。そのことが、ここで強く示されているのであります。人間の理想や情熱が、教会を支配するのではないのです。神様の霊が支配する場所であります。
そのためには、何が必要でしょうか。私達の思いを捨てることです。私達の理想を捨て、心を空にする。ただ、神様だけが働く。その余地をあけて置く。そのことに他ならないのであります。
私達は、今、使徒から、教会を引き継いでいるわけです。長い年月が経ちました。私達の教会の在り方は、どうでしょうか。人の思いや理想で一杯になっていないか。改めて、私達は、ここから教会の在り方を問われているのではないかと思うのであります。
さて、教会は、誕生から、長い年月がたちました。今も、教会は立ち続けています。様々な迫害を経て、失敗を経て、それでも、教会は、主の霊によって立ち続けています。
マタイによる福音書28章19節には、次のような言葉があります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
救いの完成は、教会では終わらないのです。救いの完成は、「世の終わりの日」「主の再臨」と共に、実現します。その日に至るまで、教会は、何をすべきか。福音に堅く立ち、その福音を述べ伝えることです。その器として、教会は、建ち続け、今、私達も用いられている。必要とされているのです。
その歩みは、キリストと切り離された歩みではありません。主が共にいる歩みであります。いつも、キリストを近く感じ、キリストの語られる言葉によって、励まされながら、私達は、これからも、神の国に向かって歩み続けるのです。
私達は、神の民です。私達は、もうすでに、神の国に入る。その約束を得ている民です。その幸いを思い起こし、その救いに立ち帰り、福音にたって、私達もまた、主と共に前進していくものでありたいのです。そして、一人でも多くの方々が、この永遠の救いを知り、神の民へと帰還していくことを願いつつ、主の招きと働きに委ねつつ、歩み続けたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:05| 日記