2021年07月05日

2021年7月4日 主日礼拝説教音声「主の復活の証人」須賀 工

ハレルヤ!主の御名を賛美します。

7月4日の主日礼拝説教音声版を配信します!良かったら、お聴きください(*- -)(*_ _)ペコリ

https://open.spotify.com/episode/5SvASxyK0qJcc4z7QNqD5n?si=953c7756c74f4a41

神様の祝福を心よりお祈り申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:29| 日記

2021年07月03日

2021年7月11日 主日礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「神の国についてたとえで話すA」
聖書:マルコによる福音書4章26節〜34節
*礼拝後、誕生者の祝福の祈りをささげます。その後、分級が行われます!

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「聖霊降臨」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録2章1節〜13節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:02| 日記

2021年7月4日 主日礼拝説教「主の復活の証人」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録1章12節〜26節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録1章12節から26節の御言葉です。先週の説教でも示されたように、主イエス・キリストは、天に昇られました。但し、ただ、天に昇られた訳ではありません。
主イエス・キリストは、「一つの約束」を残して、天に昇られたのです。その約束とは、「使徒たちに聖霊を送る」ということです。キリストが、天に昇られる代わりに、キリストの霊が、使徒たちに降る。これが、キリストの約束なのであります。
 この約束は、後に実現します。使徒たちは、約束の通り、聖霊を受けることになるのです。それが、使徒言行録2章に記されています。そして、ここから、キリスト教会というものが、誕生していくことになるのです。いわゆる、ペンテコステ―聖霊降臨―ということが起るわけであります。
 今朝、私達に与えられた御言葉は、その主の昇天と聖霊降臨の間のことであります。言うならば、教会が誕生する前夜(実際には10日間)、もしくは、準備期間とも言えるかもしれません。私達が、使徒たちから受け継いだ教会。その教会が、どのように準備されてきたのか。それは言い換えるならば、教会の根本には、一体何があるのか。そのことを、私達に、強く伝えている。そのような御言葉であると言えるかもしれません。
 教会が、誕生して、2000年ぐらいが経ちました。もう一度、この教会の素地、教会の根本に思いを向け直すこと。そのことに思いを馳せつつ、共に、御言葉に聴いて参りたいと思います。
 今朝の御言葉の12節から14節の御言葉をお読みします。「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。
 そもそも、教会は、どのようにして、誕生したのでしょうか。それは、一言で申し上げるならば、「聖霊」によって誕生をしたのであります。即ち、教会は、人間の計画や人間の理想によって、誕生したわけではありません。あくまでも、神様の霊、神様の御業によって、教会は誕生したのであります。
 それ故に、教会が、誕生するためには、ただひたすらに、神様の御業を待つ、ということが、準備段階で大切になったわけであります。
 ここで、使徒たち、そして、沢山の信徒たちは、祈りをもって、神様の御業を待ちました。決して、祈りによって、教会が、誕生したわけではありません(そもそも、この後、教会が誕生することなど、彼らの知る由ではなかったはずです)。ただただ、彼らは祈りをもって、神様の霊、神様の御業、神様のお働きを待つことにしたのです。あくまでも、働きの主体は、神様一人しかいないのであります。教会は、その意味で、徹底的に神様の霊的な御業によって成立した。そのことが、ここで、まず強調されているのであります。
 祈ることとは、人の手を止めることです。そして、神様の働きを待つことでもあります。教会が誕生するために、使徒たちが、主に導かれてしたこと。それは、自分たちの手を止めて、神様の御業に期待をする。ただただ、これだけだったのであります。
 神様が、この世に、使徒たちを通して、聖霊によって教会を与えてくださった。その意味で、教会は、この神様の霊、キリストの霊に溢れた場所です。人間の思想や理想が、支配する場所ではありません。私達は、この教会を通して、生きて働かれる神様を知り、キリストを知り、使徒たちが受けた恵みを、変わることなく、知ることができる。その幸いが、まず、ここから、強く指し示されているのではないでしょうか。
それでは、続いて、15節から22節の御言葉をお読みします。「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人はどの人々が一つになっていた。『兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で【アケルダマ】、つまり【血の土地】と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。【その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。】また、【その務めは、他の人が引き受けるがよい。】そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです』」。
 ここでは、ペトロを通して、色々なことが語られています。内容的に申し上げると、まず、「ユダの死」について語られています。そして、もう一つは、「新しい使徒を選ぶ」ことについても、ここで語られています。
 しかし、ここで、本当に大切なことは、何でしょうか。それは、「使徒の働き」とは何か、ということです。そして、もう一つは、「教会とは何か」ということであります。
 「使徒の働き」とは、何でしょうか。それは、「主の復活の証人」となることです。主イエス・キリストが、よみがえられた。それだけではありません。主イエス・キリストは、今も、生きておられる。これを証言することです。これが、「使徒の働き」であり、「使徒から受け継いでいる教会の働き」でもあるのです。
 ユダは、悲惨な死を遂げました。しかし、ペトロは、決して、ユダを責めているわけではありません。いや、むしろ、ペトロも、他の使徒たちも、ユダを責めることはできません。
ここでペトロが、語りたかったことは何でしょうか。それは、「キリストの復活」がなければ、私達は、救われないのだ、ということです。
 神様は、既に、私達人間の罪を、知っていました。今朝の御言葉にも、ユダの裏切りは、「聖書に書かれていることの実現」だと語られています。神様は、既に、人間の罪を良く知っていたわけであります。
しかし、その罪の只中に、御子イエス・キリストを与えてくださった。その御子・救い主を、私達は、私達の罪で殺してしまった。しかし、その御子が復活し、私達を赦し、和解し、主のものとしてくださった。ここに、私達の救いがある。復活の主がいなければ、私達は、赦しを知ることも、罪を知ることもなかったのであります。ここにこそ、真の救いがある。そして、今も生きている主は、今、ここで、この救いを明らかにしてくださる。これを伝えていく。これこそが、使徒の務めなのだ、ということなのであります。
 ペトロたちは、ユダを責めることはできません。罪人である、と言う意味で、ユダもペトロも同じであります。しかし、決定的な違いがあります。それは、ペトロたちが、復活の主イエス・キリストと出会ったことです。この復活の主と出会うことを通して、使徒たちは、救いを知り、赦しを知り、罪を知ったのであります。だからこそ、この復活の主を証言すること。ここに使徒の務めがある。このことを、ペトロは、ここで語っているのであります。
 教会は、この使徒の務めを継承しています。今も、復活の主は、生きておられます。そして、私達を赦し、私達と和解をし、主のものへと招かれている。教会は、その主との出会いの場所として、今も、用いられているのであります。
 もう一つ、ここで大切なことがあります。それは、使徒は、十二人でなければいけないのだ、ということです。なぜ、十二でなければいけないのでしょうか。十二という数字は、イスラエルの部族の数と同じです。神様によって選ばれた民。その民は、全部で十二部族でありました。
 恐らく、使徒たちは、ここで、新しい神の民の誕生を意識していたのではないでしょうか。復活の主と出会い、救いを受け、主のものとされた。それは、同時に、その人が、神の民に入れられることなのだ、ということを、ここで意識していたのであります。
 私達は、自分で、自分の力で、クリスチャンになったのでしょうか。それは違います。あなたが選んだのではなく、主が、あなたを選び分かち、罪を赦して、神の民としてくださったのであります。私達は、この復活の主を通して、この地上の縛りから解放されて、神の側に属するものとされている。
 私達は、この地上にあって、既に、この恵みを味わいながら生きることができるのであります。この世にあっては、無力なものであるかもしれません。何も出来ないかもしれません。しかし、復活の主によって与えられた、ただ一つの救いを通して、今、あなたの名は、神の国に、しっかりと刻み付けられている。神の民として、烙印を押して頂いている。その幸いを確かにすることができる。そのために、使徒が立てられ、教会が立てられるのです。そのことを、改めて、ここで強く指し示されているのではないかと思うのであります。教会とは何か。教会を通して、キリストと出会い、キリストを通して、神の民とされる場所なのです。
 それでは、23節から26節の御言葉をお読みします。「そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。『すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。』二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった」。
 ここで、言われていることは何でしょうか。それは、「教会の中心」は、誰であるのか、ということであります。
 ユダが、死にました。そこで、一人を補充しなければいけません。条件は、「主イエスと共に歩んだ人」であります。復活の主が、あのナザレの主であることを、証言できる人でなければいけなかったのです。結果的に、120人の人々の中で、二人だけが、該当者でありました。そして、その二人の内、一人をくじで決めることになったのです。
 ペトロは、ここで祈りをささげます。「どちらをお選びになったか示してください」と。つまり、この「くじ」とは、神様の御心を知るためのものである、ということが、ここでわかります。あくまでも、主が選ぶもの。主が用いて下さるものを、ここで優先する。教会は、正に、主の御心を、第一とするところに、その重きを置いたのであります。
 ヨセフという人物の名前が、ここで先に出て参ります。また、彼には、沢山の愛称が付けられていました。「安息の子」というあだ名です。また、「真面目」「正直者」というあだ名もつけられていたようであります。恐らく、このヨセフの方が、人間的に見れば、人気者であっただろうと推測することができます。
 しかし、主は、マティアを選ばれた。沢山の人が、「ちょっと待てや(マティア)!」と言ったかどうかは、御想像に任せますが、主の御心は、マティアにあったわけです。
 しかし、このこともまた、大切なことです。ここで、教会を建て、導くのは、人間の思いや理想ではない。主の選び、主の御心が、教会をたてていくのであります。教会は、正に、人間の理想に支配された場所ではない。神様の御心によって、神様の御業によって、教会は、教会として形成されていくのであります。このこともまた、私達は、決して、忘れてはいけないことなのではないかと思うのです。
 このように、教会の誕生前夜、人々は、祈りをもって神様の御業を待ち望み、自分たちの務めを確認し、新しい神の民が生まれることに期待を置き、そして、このキリスト者の群れの中心には神がいる。そのことを、ここで改めて確認していったのであります。
 教会は、このような準備期間を経て、聖霊によって、誕生します。私達は、この使徒たちの働きを継承するものとして、教会を形成しているのです。
 だからこそ、ここで、改めて、引き継がれた証言をしたいと思います。ここに、キリストは、生きておられます。ここに、神様の霊が生きて働いています。ここに、ただ一つの真の救いがあります。ここに、神と人とを結び、永遠に生きる道があります。私達は、今、その恵みの中に入れられた、神の民なのです。その幸いを、改めて、深く、心に刻みつつ、教会を備え、与えてくださった、主に感謝をし、新しい一週間を、歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:56| 日記