2021年07月16日

2021年7月25日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「悪霊に取りつかれたゲラサ人をいやす」
聖書:マルコによる福音書5章1節〜20節
*礼拝後、分級が行われます!

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「立ち帰って、生きよ」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書3章16節〜17節
   エゼキエル書18章1節〜32節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 12:01| 日記

2021年7月18日 主日礼拝説教「主イエスの十字架」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録2章14節〜23節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録2章14節から23節の御言葉であります。聖書の小見出しには、「ペトロの説教」と書かれています。
 使徒たちに、聖霊が降りました。そして、教会が、この世に誕生しました。教会は、最初に何をしたでしょうか。「説教」を語り始めたのです。「御言葉」を語り始めたのであります。今朝の御言葉は、キリスト教会における、最初の「説教」とも言えるかもしれません。あるいは、「説教の原点」ともいえるかもしれません。
 それでは、この「説教」を通して、一体、何が語られているのでしょうか。教会は、「説教」を通して、何を語り続けているのでしょうか。神様の霊は、使徒たちを通して、教会を通して、何を証ししているのでしょうか。今朝は、そのことに、改めて、耳を傾けて参りたいと思います。
 まず、少し長いですが、14節から21節の御言葉をお読みします。「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。[神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火とたちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。]イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです』」。
 使徒たちは、聖霊を受けて、様々な言語で、語り始めました。それを聞いたある人々にとっては、それが酔っ払いの戯言のように聞こえたのです。
 しかし、ここで、ペトロは、それを、はっきりと否定します。そもそも、ユダヤ人にとって、朝の九時は、祈祷時間であります。あるいは、ささげものをする時間です。当然、お酒を飲む時間ではありません。
 それでは、ここで、一体、何が起きたのでしょうか。一言で申し上げるとするならば、「預言が成就した」ということです。
 ペトロは、ここで、旧約聖書の「ヨエル書3章」を引用しています。「ヨエル書」が、最も強調して伝えていることが、二つあります。一つは、「新しい時代の到来」です。そして、もう一つは、その先にある「世の終わり」「救いの完成」です。ヨエル書は、この二つことを強調して語っています。そして、この救いは、「すべての人、すべての民」に約束された救いの恵みである、ということも、伝えているのであります。
 それでは、この「新しい時代」には、何が起こるのでしょうか。そこで「神の霊が注がれる」ということが、起るのです。全ての人に、聖霊が降る。そのことを通して、全ての人が、神様の救いを改めて知り、神様の救いを語り始める。そのことを通して、老若男女問わず、「幻や夢」、即ち、来るべき将来に希望を持つことができる。そのことを通して、全ての人が、主の救いの御手の中に、最後の最後には、招かれていく。ここに、新しい時代のしるしがある。そして、ここから、救いの完成に向けた、新しい歩みが始まろうとしている。これが、ヨエル書の預言なのであります。
 その神様の約束が、その幸いが、その預言こそが、今まさに、ここで、実現しているのだ、ということ。そのことを、ペトロは、ここで語るのです。あるいは、教会を通して、その預言が実現しているのだと、ペトロは、語り始めているのです。古い時代が過ぎ去り、今や、新しい時代が訪れている。そのしるしとして、聖霊が降った。教会が誕生した。全ての人が、救いへと招かれている。そして、そのことを通して、いよいよ、神様の救いが、完成へと進み始めたのだ、ということなのであります。ここに、教会が、語り始めたメッセージがあります。そして、ここにこそ、教会が語り続けているメッセージの一つがあるのです。
 私達は、今、聖霊を通して、神様の救いを知る者とされ、神様の救いを物語る者とされている。私達は今、神の民へと招かれ、救いの完成を、待ち望むものとされている。ここに教会が、変わることなく、指し示し続けている、神様のメッセージがあるのであります。私達は、そのような、神様の救いの御計画の一部として、今を得ていることになるのです。
 さて、ユダヤ人にとって、終わりの日−神様の救いの完成―には、もう一つ大切なことがありました。それが、「救い主の到来」です。救い主が来てくださる。救い主を通して、救いが実現する。そこに、ユダヤ人たちの希望がありました。
 そこで、ペトロは、ここで、はっきりと、「救い主の到来」についても語っています。22節の御言葉をお読みします。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」。
ここではっきりと、語られていることは、何でしょうか。それは、「主イエスこそ、真の救い主」だということです。待ち望んでいた救い主は、主イエス・キリストなのだ、ということであります。この御方を通して、私達は、救われる。この御方を通して、救いが実現する。
 教会が、まず語ること。それは、主イエスこそ、真の救い主である、ということです。この御方以外には、救いはない、ということです。この御方を通してのみ、私達は、神様の永遠なる救いにいれられる。教会が、語らなければいけないことは、ここにあるのだ、ということ。そして、教会を通して、この救いが、私達の内に満ち溢れているのだ、ということなのです。
 それでは、この救いとは、何でしょうか。それを知るためには、もう一つ、大切なことを、お話したいと思います。
 実は、ヨエル書には、もう一つ、大切な出来事が、記されています。それは、神の霊を受ける前に、何が起こるのか、ということです。それが、「民の滅び」であります。言い換えるならば、「神様の裁き」であります。人間の罪が、この世であらわにされる。その罪に対して、神の裁きが下る。ヨエル書は、このことを、救いの前提として、記しています。
 それでは、私達は、その裁きに、耐えることはできるのでしょうか。それは出来ないのです。だからこそ、神様が、御子イエス・キリストを、この世に与えて下さった。この救いの約束を果たすために、そのために御子を、惜しみなく、この世に与えて下さったのであります。
 考えてみるならば、主イエスこそが、真の救い主であり、この御方を通して救われるのであるならば、私達人間は、まず、知らなければいけないことがあります。それは、私達には救いが、どうしても必要である、ということです。私達は、救い主によって、救われなければいけない。それ程に、悲惨な状態なのだ、ということです。つまり、自分自身の悲惨さ、罪の深さを知らなければいけないのであります。
 それ故に、23節の御言葉が重要になるのです。23節をお読みします。「このイエスを神はお定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法をしらない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。
 あなたがたは、律法を知らない人―異邦人―の手を借りて、救い主を殺してしまった。ペトロは、ここで、「罪」の問題について語り始めました。
 これは決して、ユダヤ人を責めているわけではありません。「ペトロの説教」の興味深いところは、まず、「ユダヤの人々」と呼び掛け、次に「イスラエルの人々」と言い、そして、最後には、「あなたがた」と言っているところです。特定の誰かに向かっての言葉ではないのです。これを読んでいる者、聞いている者。その全てに、最後には語り掛けている。それが、この説教の特徴の一つであると言えます。
 ここで断罪されているのは、特定のユダヤ人ではない。ペトロ自身も含めた、私達全ての問題として、ここで、強く、罪が問われていくのであります。教会が、最初から語り続けていること。それが、私達人間の罪の問題なのであります。私達もまた、過去の人間の手を借りて、イエスを十字架に架けた。その当事者なのだ、ということなのです。
 「罪」とは、的を外すことであります。神様を中心にしないことです。自分が中心になることであります。私達は、いつでも、的を外すことがある。自分が中心になることがある。その時、私達もまた、そこで、キリストを十字架に架けた一人。その一人として数えられるのであります。
 しかし、ここでは、もう一つ大事なことがあります。それは、その罪の現実を、神様御自身が、知っていたということです。そして、それもまた、救いの御計画なのだ、ということであります。
 この私が、キリストを十字架にかけたのです。しかし、その出来事もまた、神様の御計画の中にある。そのことを知る時、その十字架が、私の救いのための十字架に切り替えられていくのであります。
 正に、教会が、語るべきことが、ここにもあります。それは、「十字架」です。そして、その十字架から浮き彫りにされていく人間の罪です。そして、その罪を、キリストが、背負うことで、救いが成し遂げられたのだ、ということであります。ヨエル書で預言されていた、裁きは、御子イエス・キリストが、身代わりとなって受けられた。そのことによって、裁きは過ぎ去ったのであります。
 このキリストの身代わりと贖いによって、私達は、罪と死から救われている。この救いを信じ、主イエスを、キリストと告白する時、私達の内にも霊が、豊かに降り、神様の救いを知り、喜ぶ者へと変えられる。それだけはありません。その人は、神の民と呼ばれ、終わりの日に、救いの御手の中に抱かれていく。
 教会の最初の説教は、そのことを、まず語り始めているのであります。そして、教会が、今も、語り続けている救い。それが、ここにあるのであります。
 終わりの日−救いの完成の時―は、まだ、来ていませんが、終わりの日は、聖霊降臨を経て、日々近づいているのです。その救いに、一人でも、与るようにと、主は、この世に教会をたててくださったのです。
 その教会は、主イエスこそが、真の救い主であることを告白し、この救い主が、私達の罪を担って、十字架に架けられたことを証言し続けます。このキリストに結ばれて生きる時、全ての者に聖霊が与えられ、真の救いを知ることができる。そして、神の民とされ、神の国で、永遠に生きることが許されている。
 教会は、まず、この福音を語るところから、始まったのです。そして、変わることなく、教会は、その福音に立って、進み続けています。大事なことは、いつでも、この福音に立ち帰ることです。教会は、今も、変わることのない、この主の御言葉を語り続けています。それは、今、あなたが、救われることを、主が、望んでおられるからに他ならないのです。それは今、あなたが、この救いを確かにすることを、主が、望んでおられるからに他ならないのです。この恵みを味わいつつ、主と共に、前進して参りましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:57| 日記