2021年07月24日

2021年8月1日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「復活」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録2章23節〜36節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:34| 日記

2021年7月25日 主日礼拝説教「立ち帰って、生きよ」須賀 舞伝道師

聖書:エゼキエル書18章1節〜32節、ヨハネによる福音書3章16節〜17節

 本日与えられた御言葉は、エゼキエル書18章1-32節です。
 旧約聖書の時代、バビロニアのケバル川のほとりに、愛する祖国イスラエルが崩れ落ち、悲しみと虚無の中で佇む一人の預言者がいました。エゼキエルです。彼は、ブジという名の祭司の子で、バビロンに連れてこられたイスラエルの捕囚の民の一人でした。祭司の家系ということもあり、バビロンの地でも多くの人々から慕われ、彼の元を訪れて教えを請う人もいたようです。
 エゼキエルはこの捕囚の地バビロンで神様から預言者としての召命を受けました。彼は、神様を徹底的に中心に考える人でありました。神様から言葉を受け、人々にそれを語る時は必ず「主の言葉がわたしに臨んだ」と語り始めるのです。そして、主がお語りになる言葉は、必ず実現すると確信していたのです。エゼキエルは、神様から選ばれた民であるはずのイスラエルが、なぜこのような滅亡の危機に立たされているのかということを、神様から教えられ、人々に伝えました。イスラエルの人々は、他のものを神様として崇めたり、また、戦によって人を殺したりしていた、私たちの罪はそこにある。そのように神様は言っておられる、と。エゼキエルの預言の言葉は、神様から人への言葉として、人々の心を揺さぶる厳しさがありました。
 そのような預言の言葉の一つが、本日与えられた18:1-32です。新共同訳聖書を読みますと、1-32節をひとまとまりとして「各人の責任」という小見出しが付けられています。これが本日の御言葉における、大きな主張の一つです。何の責任でありましょうか。それは、今置かれている状況、つまり、イスラエルの国が滅びるという不幸の責任のことです。この王国の滅亡と捕囚の出来事は、イスラエルの民の「罪」の結果である。だとするならば、その責任は、誰にあるのかということを、この箇所では問うているのです。
 「各人」とは、一人一人のことを指します。罪の責任は、一人一人にある。それが今日の御言葉の指し示すところです。ところが、エゼキエルの周辺にいた人々は、どうやら違う考えを持っていたようです。18:1には当時のイスラエルの諺が引用されています。「先祖が酢いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」これは、人の罪とその結果は、因果応報的なものであり、先祖や親の罪が子や孫に影響するという意味のことわざです。当時、イスラエルでは「罪」をそのように捉えていたふしがありました。
 なぜ、そのような信仰があったのでしょうか。それはおそらく、出エジプト記20章にあるモーセの十戒において、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記20:5b-6)と言われていたからかもしれません。この、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」という部分が、罪とその裁きを遺伝的に捉える要因になっていたと考えることができます。
 しかし、本日のエゼキエルの預言の言葉は、当時のイスラエルの因果応報的な信仰を、真っ向から否定します。18:4には、「罪を犯した者、その人が死ぬ。」とあります。18:1-20で、主がエゼキエルを通して語られたこととは、罪はあくまでもその罪を犯した当人の罪であるということです。罪が親から子へ遺伝的に継承されることはなく、また、逆に、子どもの罪によって親が裁かれるということもない、ということです。人間の罪とは、血縁において継承されることはないのです。あくまでも、罪とその裁きの責任は、当人に問われるのだという信仰のあり方がここで示されているのです。
 では、このエゼキエルの預言が示す信仰のあり方は、出エジプト記20章の言葉「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」とは矛盾しないのでしょうか。ここで大切になるのは、人の罪は「誰が」「何によって」定めるのかという視点です。出エジプト記においてもエゼキエル書においても、両方の御言葉に共通しているのは、神様に背くか、神様を愛するかという人間の態度です。つまり、神様を信じるかどうかが、人間の罪の問題と深く関わっているということを、聖書は人間に語っているのです。
 そして、罪の判断をするお方は、神様ただお一人です。それがよくわかるのが、18:21-24の部分です。ここでは、話題は変わって、神様の正しさは、この世の善悪の判断基準とは異なることが言われていきます。罪や悪と聞くと、世間一般の人は、まず、犯罪を思い浮かべるでしょう。また、倫理・道徳違反、非常識な振る舞いなどもそれに当たるかもしれません。ところが、18:21-24では、神様の善悪の基準が、そのような価値観ではないということが語られます。
 ここでは、悪人であても、「わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる」と語られます。しかも、「彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく」ともあります。悪人がゆるされ、しかも過去の悪によって咎められることはなくなるのだということが語られていきます。一方で、その逆に、正しい人であっても、悪を行うなら死ぬとも語られるのです。この世の道理で考えるなら、正しい人が裁かれたり、悪人が正しくされるというのは、あまり考えられないことです。
 ここでの大切な事柄は、神様を信じるか信じないかということを、神様は、各々に強く問うておられるということなのです。そして、その一点に人の生死がかかっているのです。
 25節以下は、人間のこれでもかというほどの罪ある姿を描き出します。おそらくエゼキエルの預言をたくさんの捕囚の民が聞いていたことと思います。悲しい現実の中で、暗く希望が見えない中で、彼らは、少しでも嬉しくなるような言葉、心躍るような言葉を求めていたのかもしれません。しかし、エゼキエルの語る主の言葉は、イスラエルの罪の責任は、もっというなら、あなたの罪の責任は、紛れもなくあなた自身にあるのだ、と強調するのです。それに対して聞いていた人の中からは、『主の道は正しくない』という人が現れました。わたしたちは何も罪を犯してはいないではないか、と言ったのかもしれません。こんな不幸を被るのは不当だ、と訴えたのかもしれません。そして、ついに言ってしまうのです。『主の道は正しくない』と。私たちをこんな目にあわせる神様は正しくないと。
 私は、信仰生活において、一番の敵は自分自信であるように思わされることがあります。知らず知らずのうちに、自分の正しさが、神様の正しさよりも上になってしまう。そんな時が私たちにもあるように思うのです。25節はそのことがよく現れてるように思わされるのです。
 エゼキエルの預言は、罪の責任は、「各人」にあるといいます。つまり、今ここにいるわたしも含めて、誰もが、罪の問題と無関係ではないということです。神様は、私たち人間と、交わりたい、関わりたいと願っておられます。しかし、人は、神様に背を向けて、その願いを拒み続けているのです。神様ではなく、自分を自分の主としてしまうのです。それが神様が一番悲しんでおられる人間の現実です。
 人は罪から逃れることはできません。罪人である人間に正しさはどこにもありません。「正しい者はいない。一人もいない(ローマ3:10)。」私たちは神様を信じることはできない、これが聖書の示す人間の姿です。神様の完全なる正しさに生きるためには、まず私たちが不完全な自分を認めて、自分自身を神様に明け渡し、神様の恵みによって、神様の正しさに満たしていただくことが必要になるのです。
 そこで神様が人に求められるのは、「正義と恵みの業を行う(27節)」ことです。聖書協会共同訳では「公正と正義を行う」と訳されています。正義も、公正も、神様の正しさということです。自分の正しさではなく、神様の正しさに生き、自分から出てくる行いではなく、神様が恵みによって与え賜う業を行う、このような生き方を神様は私たちに求めておられるのです。
 エゼキエルは、愛する祖国を失い、家族を失い、見知らぬ土地で暮らしていました。イスラエルは民族滅亡の危機に陥っていました。まさに絶望の淵に立たされていた。彼らは、深い悲しみの中で、この苦しみの意味を問い続けていたのです。人は苦難を味わう時、その責任の所在を問います。どうして、何で、と。そのような時に、罪の責任はあなた自身にあるという、主の言葉は非常に厳しいものかもしれません。
 しかし、神様は、ただ私たちを断罪しそのままお見捨てになるお方なのでしょうか。30節には、このようにあります。「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。」神様は、私たちに神様のところに戻ってきてほしいと願っておられる。この思いは真実だ、エゼキエルは続けてこう神様の言葉を語ります。「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。(31節b)。」つまり、神様は、滅びてほしくない、死んでほしくないと願っておられるのです。「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」私の元に帰って来なさい、そのように招いておられるのです。
 エゼキエルがこのエゼキエル書の中で繰り返す預言の言葉は、いたってシンプルです。「主に立ち帰れ」。この苦難を通して主は、あなたに戻っておいでと呼んでおられる。主を信じなさいと。さあ、顔を挙げて私たちの目の前にかかっている十字架を見上げようではありませんか。この十字架こそが、神様が私たちを決して見捨てはおられないのだという、しるしです。
 神様の愛する独り子、私たちの主イエス・キリストは、古のイスラエルの預言の言葉、「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。(31節b)。」という神様の御心によって、この世に遣わされました。そして、私たちが、罪赦され、神様を信じるようになるために十字架で死なれました。イエス様の十字架を通して、どこまでも人を滅びから救おうとされる、神様の愛が現実の形となって今私たちの目の前に示されたのです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
 さあ、神の御愛、主イエス・キリストを信じようではありませんか。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:29| 日記