2021年08月29日

2021年8月29日 主日礼拝説教音声「キリストによって生きる」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します(o^―^o)ニコ

主日礼拝の説教音声を配信します。よかったらお聴きください(o^―^o)ニコ

https://open.spotify.com/episode/4BEzDHp2PVFZ9gSPspqRoc?si=47551ea7d95e4dca
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:12| 日記

2021年08月28日

2021年9月5日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書7章24節〜30節
説教:「シリア・フェニキアの女の信仰を受け入れる」
礼拝後、分級の時間があります(o^―^o)ニコ

〇主日礼拝 10時30分〜(ライブ開始10時20分〜)
聖書:使徒言行録3章11節〜26節
説教:「命への導き手」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。ライブ配信もしています(⌒∇⌒)
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:50| 日記

2021年8月29日 主日礼拝説教「キリストによって生きる」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録3章1節〜10節

今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録3章1節〜10節の御言葉であります。私達は、今朝の御言葉を通して、一体、何を知ることができるでしょうか。それは、端的に申し上げるならば、「救い」とは何か、ということです。
 それでは、教会を通して与えられる、「救い」とは、何でしょうか。それは、色々な言い方があると思いますが、一言で言うならば、「神様との関係が回復すること」です。違う言い方で言うならば、「神様との交わりの中に生きられること」でもあります。
 どれだけ、経済的に豊かであっても、どれだけ、健康が守られていても、神様との交わりが失われているところには、真の幸いはありません。それらは、いつかは失っていくものです。逆に言うならば、どれだけ、この地上で貧しくても、どれだけ、健康が損なわれていようとも、神様との交わりの中に生きる時、人は、真の喜びを知り、真の希望を得ることができます。その喜びは、死んでも残ります。ここに、私達の救いがあります。この幸いを、深く心に刻みつつ、今朝の御言葉に聴いて参りたいと思います。
 今朝の御言葉には、「生まれつき足の不自由な人」が出てきます。当時のユダヤ教において、「生まれつきの病人」が、神殿に入ることは禁じられていました。なぜなら、「生まれつきの病」は、先祖や両親の罪に対する罰であると信じられていたからです。
 つまり、この人は、生まれつき、罪と罰を背負わされた人であり、そして、それ故に、生まれて一度も、神様の御前に進み出て、礼拝することが出来なかった人でもあったわけであります。正に、神様との関係が断たれてしまった人、神様との交わりから切り離されてしまった人。そのようにも、言えるかもしれません。
 しかし、そのような悲惨な現実の中で、この人は、使徒ペトロとヨハネ−教会−と出会ったのであります。そして、教会を通して、救われた。教会を通して、神様を賛美し、礼拝する者へと変えられていくことになったのです。このように、教会を通して、私達は、罪と罰から解放され、神様の目に相応しいものとなり、主の御前へと招かれていく。即ち、神様との関係が、教会の働きを通して、回復されていくのであります。
 それでは、教会を通して与えられる救いとは、どのような「救い」なのでしょうか。この人は、教会に「金や銀」の救いを求めました。しかし、教会が持っている救いは、「金や銀」ではありませんでした。つまり、人間の求めているものを与える。それが、教会の「救い」ではないのです。
 教会の持っている救いとは、一体、何でしょうか。それは、何よりも、「キリストの救い」です。それでは、キリストの救いとは、何でしょうか。それは、先ほども申し上げましたが、「罪と罰」から解放することです。
 今朝の御言葉によると、この人は、キリストの名によって、体が癒されました。しかし、この癒しは、単なる「奇跡」ではありません。この癒しは、キリストの救いの意味を明らかにするための「しるし」もしくは「証し」なのであります。
 実は、今朝の御言葉は、奇跡物語の一部でしかありません。この出来事が、きっかけとなり、ペトロが、神殿で、説教をすることになるのです。つまり、この奇跡は、沢山の人々に対して、キリストの福音を伝える、キリストの救いの意味を伝える、大切な道具やきっかけとして用いられることになるのです。つまり、この奇跡を行うことが、一番重要なのではなく、この奇跡を通して、キリストの救いの意味を、明らかにすることが重要なのであります。 
 先ほども、繰り返し、申し上げましたが、この人は、生まれながらにして、罪と罰を背負わされていました。しかし、今、教会と出会い、キリストと出会った。そのことを通して、罪と罰から解放された。そして、神様との交わりの中に生きるものとされた。その「しるし」として、体が癒されたのであります。
 この人は、求めていた金や銀は、得られなかった。しかし、金や銀よりも、遥かに、尊い、決して失うことのない、真の富、真の命を得るものとされた。教会を通して、与えられる救いとは、このような恵みなのであります。
 この人は、今まで、神殿の門前で、施しを得て生活をしていました。しかも、人々の許可を得て、人々に運ばれて、公式に施しを得ていたのです。これは、どういう意味なのでしょうか。
 それは、施しを受ける側だけではなく、施しをする側にも、メリットがある、ということです。施しを受ける側の人間には、生活費が与えられます。施しをする側には、称賛が与えられます。このように、施しを得る側にも、与える側にも、お互いに利益がもたらされる。そのようなシステムになっていたのであります。しかし、そこには、その人を、本当に、思いやる、真の愛情はありません。あるいは、そこには、人々に対する真の感謝もないわけです。
 それに対して、キリストの救いは、どうでしょうか。確かに、金や銀、人間の望む恵みを与えることは、出来ないかもしれません。しかし、それよりも、もっと深く、大きい、真の命と真の富を、教会は、「無条件」で、与えることができるのです。キリストは、教会を通して、ただ一方的に、無条件で、救いを与えてくださるのであります。私達は、その恵みを、何の条件もなく、得ることができるのです。聖書のことを知らなければ、救いを得られないわけではないのです。慈善活動をしなければ、救いを得ることができないわけではありません。
 この人は、正に、人の力を借りなければ、何もできなかった人です。その意味で、無力でありました。それだけではありません。教会に対して、間違った要求をした人です。神様に頼ることよりも、人間を頼りにした人です。彼にとって、神殿は、神様の助けを、祈り求める場所ではなく、人から助けを得る場所でしかありませんでした。この人は、その意味で、信仰者としては、全く、的外れであったとも言えるかもしれません。
 しかし、このような人に対して、教会は、キリストは、眼差しを向けるのであります。ペトロとヨハネは、この人を「じっと見つめました」。この「見る」という言葉は、「焦点を合わせる」という意味で、福音書では、主イエス・キリストの働きとして、よく用いられる言葉であります。正に、教会を通して、キリストご自身が、そこで、この人に眼差しを向けてくださるのであります。この人に、焦点を合わせてくださる。神様に対しては、全く、的外れな人であったかもしれない。無力であったかもしれない。
 しかし、キリストは、教会は、その人を見捨ててしまうのではないです。むしろ、そのような人に対して、眼差しを向け、この人が求めている以上のはかり知ることの出来ない、真の幸いと富とを、一方的に、与えてくださるのであります。
 今、私達もまた、教会を通して、主の眼差しの中に招かれています。大事なことは何でしょうか。その眼差しに対して、私達もまた、自らの心を、自らの目を向け直していくことでありましょう。キリストに対して、教会に対しても、沢山のことを期待している私達であるかもしれません。時には的外れの生き方をしてしまうこともあるかもしれません。
 しかし、その私達に対して向けられている、主の眼差しに、私達も目を向けていく。その時、私達は、改めて、私達が求めているもの以上の恵みが、ただ、一方的に与えられている幸いを知ることができる。喜びや希望をもって、主を賛美し、主を礼拝し、主との交わりに生き直すことができる。その幸いが、ここから、強く、指し示されているのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:45| 日記