2021年08月22日

2021年8月22日 主日礼拝説教【音声】「神の民として生きる」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します。

8月22日の主日礼拝説教音声版を配信します!(o^―^o)ニコ

良かったらお聴きください(*- -)(*_ _)ペコリ

https://open.spotify.com/episode/6XUSEoCqG0FMAK6GOCT35y?si=-veRCFwRQNOiXWhiej8Hig&dl_branch=1

posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:17| 日記

2021年08月20日

2021年8月29日 礼拝予告

〇教会学校 休会

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録3章1節〜10節
説教:「キリストによって生きる」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。オンラインでも礼拝を配信しています。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:07| 日記

2021年8月22日 主日礼拝説教「神の民として生きる」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録2章41節〜47節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録2章41節から47節の御言葉であります。改めて、41節の御言葉をお読みします。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」。
 使徒言行録2章全体は、「ペンテコステ」、即ち、「聖霊降臨日」での出来事について、詳しく記しています。
 このペンテコステの出来事は、大きく、三つのセクションに分けることができます。一つは、「聖霊によって教会が誕生した」ということです。二つ目は、「聖霊によって御言葉が語られた」ということです。そして、三つ目は、「聖霊の働きによって仲間が加えられた・増えた」ということです。
 改めて、整理をすると、ペンテコステの出来事とは、「聖霊」によって、@教会が誕生し、A御言葉が語られ、B仲間が増えた。これが、ペンテコステの出来事の全体像であります。そして、今朝の御言葉は、「B仲間が増えた」という部分になっています。
 さて、今朝の御言葉によると、「その日に三千人ほどが仲間に加えられた」。このように記されています。
 皆様は、「三千人もの洗礼」を、想像できるでしょうか。私は、想像することができません。むしろ、本当に、そのようなことが起きたのだろうか。そのように、疑ってしまう。そのような人間であります。
 しかし、ここで、大切なことは、何でしょうか。それは、人間には、想像できない奇跡が、今、ここで、神様によって、成し遂げられたのだ、ということであります。神様が、今、人間の想像力を越えて、聖霊によって、働いてくださったのだ、ということ。私達は、そのことを、ここで、知ることができます。
 神様が、一人ひとりの心の目を開き、信仰を与え、洗礼へと導いてくださった。人間の働きによるものではないのです。人は、神様の御業によって、洗礼へと至るものなのであります。まず、その大切なことが、ここから、強調されているのではないでしょうか。
 今朝の御言葉の47節にも、次のように、記されています。「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」。このように、教会の伝道の働きは、人間が、中心なのではなく、あくまでも神様の御業こそが、中心となるのです。そのことをまず、私達もまた、心に留めておきたいと思うのであります。
このように、教会に仲間が増えたのは、神様の御業です。しかし、それは、当時の信仰者たちが、何もしなかったのか、ということではありません。
 今朝の御言葉は、当時の信仰者たちが、一体、何をしていたのか。そのことに、触れています。それだけではありません。その信仰者たちの姿もまた、神様の御業のために、実は、豊かに用いられていたのだ、ということ。実は、このこともまた、ここで、強調されているのであります。
 教会の働きのために、伝道のために、何か、特別なことを要求されているのでしょうか。そうではありません。クリスチャンとして生きること。キリスト者として生きること。神の民として生きること。ただ、その生き方そのものが、神様の御業のために、豊かに用いられているのであります。話が得意であるとか、歌が得意であるとか、知識や財産が豊富であるとかは、関係ありません。
 何よりもまず、あなたが、キリスト者として、神の民として生かされている。その姿そのものが、神様の御業のために、必要とされ、用いられていくのであります。そして、そこに、聖霊が働き、伝道が推進されていくのであります。
 それでは、クリスチャンとして、キリスト者として、神の民として生きるとは、一体、何でしょうか。それは、様々なことが、言えるかもしれません。今朝は、その中で、一つのことだけを、お伝えしたいと思います。
 神の民として生きるとは、「一つとなって生きる」ということです。今朝の御言葉で、最もよく用いられている言葉があります。それが「一つになって」「一つにされて」という言葉です。具体的に申し上げると、44節、46節、47節に記されています。
 それでは、ここで言われている「一つになる」とは、どういう状況なのでしょうか。活動理念を一つにすることでしょうか。みんなが仲良くすることでしょうか。もし、そうであるならば、理念に賛同できない人は、排除されます。仲良くできない人とは、一つになれません。
 ここで、大事なことは、「みんなが違う」ということです。生まれてくる環境も、育てられる環境も違うのです。しかし、その違いを認めた上で、「共にできるもの」がある、ということであります。つまり、「一つになる」とは、「共にできる何かを持っている」ということなのであります。
 それでは、信仰者たちは(クリスチャンは)、一体「何を」共に持っているのでしょうか。それが、まず「使徒の教え」なのであります。それでは、「使徒の教え」とは、何でしょうか。
そこで、一番、分かりやすいのが、先週まで、共に聴いて参りました、「ペトロの説教」ではないでしょうか。
 では、聖霊に満たされたペトロは、そこで、何を語ったでしょうか。それは、要約すると、一つは、「主イエスが、キリスト−救い主−である」ということ。そして、「主イエス・キリストの十字架の死と復活の救い」であります。
 信仰者たちは、クリスチャンたちは、この「教え」、いや「救いの御言葉」を、共に与えられ、共に持っているのであります。この救いや恵み、喜びや希望を、共に持ち、共に分かち合ったのであります。それは、逆に言うならば、この御言葉の恵みを分かち合う以外には、教会が、真に一つとなることはないのだ、とも言えるかもしれません。
 教会には、色々な人間がいます。生まれた環境も、育ってきた環境も違うのであります。しかし、その人間の違いを越えて、共に持ち、共に、それを喜び、共に分かち合えるものがある。それが、「イエス様は、私達の救い主だ」ということ。そして、「主イエス・キリストの十字架の死と復活の救い」なのであります。この恵みの御言葉を、共に持ち、共に分かち合い、共に喜ぶところに、信仰者の一致が実現するのであります。
 さて、信仰者たちを一つにするものが、もう一つあります。それが、「相互の交わり」です。御言葉を聴くだけでは、教会は、一つになることはできません。その御言葉の恵みの中で、兄弟姉妹との交わりに押し出されていく。そのようにして、教会は、一つにされていくのであります。
 しかし、ここで、大事なことはがあります。それは、この「相互の交わり」という言葉です。これは、「分かち合う」という意味があります。つまり、ここで言われている「交わり」とは、「分かち合うこと」「共有すること」を意味しているのです。
 それでは、私達は、何を、分かち合うのでしょうか。良いものを、分かち合えれば、喜びが生まれます。しかし、悪口や陰口を分かち合えば、罪しか生まれてきません。
 それでは、私達が、教会を通して、共に分かち合うべきもの。それは、一体何でしょうか。それが、次に、出てくる「パンを裂くこと、そして、祈ること」なのであります。
 「パンを裂く」とは、一体、何でしょうか。後の箇所には、「食事」という言葉が、出来てきます。そうでありますから、「パンを裂くこと」と「食事」は、別のこと。そのように言えるでしょう。
これは、恐らく、「聖餐式」のことを、表していると考えられます。聖餐の「パンと葡萄酒」。ここに、私達が、教会において、本当に、分かち合うべき恵みがあるのです。
 そもそも、「聖餐」とは、何でしょうか。簡単に言えば、「キリストの体と血」です。つまり、聖餐に与るとは、キリストの命(あるいは、キリストの命の恵み)に与ることです。つまり、私達は、教会を通して、キリストの命やそこにある恵み。それらのものを、共に分かち合う。そうやって、恵みを分かち合うことで、教会は一つとされていくのであります。
 イデオロギーや活動理念で、信仰者は一つにはなれないのです。ただ、キリストの御言葉と、キリストの恵みや命を分かち合える。その所にこそが、私達を一つにする、大きな力があるのです。
 それでは、もう一つの「祈り」とは、どういうことでしょうか。「祈り」とは、キリストとの交わりの時であります。つまり、教会において、大切なことは、キリストとの交わりを分かち合うことなのであります。これが大切なのであります。キリストとの交わりの中で、兄弟姉妹との交わりを形成していく。そこに、私達を一つとする道があるのです。キリストを抜きにした交わりは、教会を一つにすることはないのであります。
 整理をします。教会を一つにするための要素は、@同じ信仰と救いを持つこと、Aキリストの恵みを分かち合うこと、Bキリストとの交わりを分かち合う、ということなのです。このことは、今も生きる、私達もまた、改めて、心に留めていくものでありたいと思うのです。
 さて、このような、教会の一致を踏まえた上で、次の話が、展開されていくことになります。それが、44節から46節の御言葉です。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた…云々」。
 ここで、間違っては、いけないことがあります。これらの生活形式は、「一つとなった・一つとされた信仰者たち」が行っていた、ということです。つまり、「一つになるため」に財産を共有したわけではありません。「一つになるため」に、食事を共にしたわけでもないのです。
 あくまでも、まず、キリストにおける「救いの御言葉」を分かち合い、「キリストの恵み」を分かち合い、「キリストとの交わり」を分かち合う。そこで、教会−神の民−が一つとなる。その上で、信仰者たちが、何をしたのか。それが、ここで語られていることの本質でありあす。
 つまり、御言葉や恵み、キリストとの交わりが、本当に、分かち合えていない。その所で、どれだけの物を共有しても、そこには、本当の交わりは生まれない。教会は、一つにはなれないのだ、ということ。そのことを忘れてはいけないのであります。
 そのことを踏まえた上で、彼らは、何を分かち合ったのでしょうか。一つ一つ、細かく見ていくことはできませんので、ざっくりと申し上げます。
 彼らが、共に分かち合ったのは、何よりもまず、「財産」です。そして、次に「時間」です。次に「場所」。最後に「食卓」です。「財産」「時間」「場所」「食卓」です。
 これらは、私達の生活の全てであります。私達が、生きるための全てであります。それを、主のために、そして、神の民のために、彼らは分かち合った。
 彼らにとって、自分の人生は、既に、自分だけのものではないのです。それは、主のものであり、主のためのものなのであります。そして、それは、隣人・兄弟姉妹と分かち合うものなのであります。自分の生活や人生が、もうすでに、そこで、自分のものではなくなっている、ということであります。
 キリストにおける救いの御言葉を分かち合い、その恵みを分かち合い、キリストとの交わりを分かち合った、その信仰者たちが、最後には、自分の人生を、分かち合うものへと変えられたのであります。
 それでは、なぜ、そのようなことが、出来たのでしょうか。それは、キリストが、この私のために、まず先立って、命を捨てて下さったからであります。キリストが、この私のために新しい命をもたらしてくださったからであります。主が、この私のために全てを捨て、主が、この私のために新しい命を与え、主が、この私を神の民としてくださった。この私は、今、主のものでしかない。その恵みを、その救いを、そのキリストを分かち合えたからであります。
 この深い恵みなくしては、この恵みの分かち合いなくしては、教会は、このような仕方で生きることはなかったでありましょう。
 私たちもまた、今、この時、改めて、私達が、共に分かち合えるもの、即ち、キリストの恵みを、もう一度、確認し、共に、その恵みを分かち合い、共に、そこに立って、共に喜びを共有していくことが、求められているのではないでしょうか。
 さて、このような信仰者の生活が、神様によって用いられることになります。そのことを通して、人々から好感を持たれるのだ、と記されています。43節には、「すべての人に恐れが生じた」とあります。これは、「尊敬」という意味です。全ての人から「尊敬と好感」を得た。これが初代教会の姿です。
 では、彼らは、何か特別なことをしたのでしょうか。彼らは、使徒を通して、教会を通して、与えられた、ただ一つの福音を、ただ一つの恵みを、共に分かち合っていただけです。そこに真の喜びと希望を、共に抱きつつ、その恵みの中で、キリストを中心とした兄弟姉妹の交わりを形成していただけであります。何も、特別なものはありません。彼らは、決して、この世に対して、「媚びへつらう」ことはしていません。ただ、与えられた恵みを、分かち合い、そのことを通して、一つの群れを形成していただけなのであります。
 しかし、その生き方が、主によって用いられ、聖霊を通して、人々の心を突き動かしていくことになるのであります。私達にとって大事なことは、私達が、本当に分かち合い、共にすべき、この一つの福音に立ち帰って生きることではないでしょうか。
 日本のクリスチャン人口は、長い間、1パーセントを越えません。もしかすると、それは、日本の宗教観が、深く関係していると言えるかもしれません。高齢化、少子化も関わっているでしょう。あるいは、時代の変化も関係していると言えます。
 しかし、それでも、あえて、日本の諸教会に一言申し上げるならば、もう環境や人のせいにするのを止めませんか、ということです。
 大事なことは、今、私達が、分かち合うべき、ただ一つの福音に立ち帰り、そこに共に立って、キリストを中心とした交わりを持つことではないでしょうか。主が、私達のために、命を捨ててくださった。主が、私達のために、命を与えてくださった。その喜びを分かち合うことです。この喜びの中で、キリストと共に、一つの群れを形作っていく。そのことが、これからも、全体教会においても、各個教会においても、大切なのであります。
 どのような時代にあっても、変わることない、ただ一つの福音に、共に立ち帰り、その恵みの中で、共に助け合い、支えあいながら、私達は、新たに歩み出したいと思うのです。石山教会だけではなく、全てのキリスト教会が、そこに、共に立つものでありたいと願うものなのであります。そして、そのような時にこそ、主は、聖霊を通して、私達の小さな働きを、思いをはるかに超えた働きへと用いて下さるのです。違いは、沢山あるのです。教会においても、信仰者においても。しかし、その違いを認めた上で、「イエス様こそ、私達の救い主でいてくださる」「イエス様が、私達のために命を捨ててくださり、新しい命を与えて下さった」。この喜びと恵みとを、分かち合っていく。それが、これからも大切なことなのであります。
 大事なことは、何か、特別なことをすることではないのです。何よりもまず、主が全てをささげて下さった。このことを覚え、その恵みを、共に喜ぶということです。そして、その恵みに押し出されて、私達が、キリスト者として生きる、神の民として共に生きる。その姿こそが、今、主によって必要とされた、私達の姿なのではないでしょうか。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 16:04| 日記