2021年08月15日

2021年8月15日 主日礼拝証し(音声版)「キリストの体の一部」大橋壮嗣兄

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

本日の礼拝での証しの音声版です!!お時間がありましたら、ぜひぜひお聴きください!!(⌒∇⌒)

https://open.spotify.com/episode/2501uK1ROF2YO7le5Waltr?si=6735ca63bfdd4c88
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:23| 日記

2021年8月22日 主日礼拝予告

〇教会学校 −休会−

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「神の民として生きる」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録2章41節〜47節

感染予防対策を行った上で礼拝をささげています。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:18| 日記

2021年08月14日

2021年8月15日 主日礼拝証し「キリストの体の一部」大橋壮嗣兄

聖書:コリントの信徒への手紙T12章12節〜26節

 初めに、今日このような場所で証しをする機会を与えて下さった神様に感謝を致します。改めて、私の名前は大橋壮嗣と言います。滋賀県生まれ、滋賀県育ち、現在は幼稚園で教諭として働いています。もうよくご存じの方もいらっしゃると思いますが、この証しでは、私がクリスチャンになった経緯を簡単に、そして幼稚園教諭としての働きを通して神様に気づかされた御言葉の恵みについてお話をさせて頂きます。この証しが、神様の栄光を現すことになれば幸いです。

 私は製麺工場を営む家庭の3兄弟の長男として生まれました。実家の宗教は浄土真宗という仏教でした。そして、自営業をしていたということもあり、仏壇の他に、商売繁盛を願う神棚がありました。近所の神社の神棚と、稲荷神社の神棚、つまり、偶像が3体も家にあったのです。幼い頃から、それに向かって手を合わせたり、供え物をしたり、正月前には掃除をしたりというのが生活に根ざしていました。しかし、私自身は、そんなに信仰深くそのようなしきたりを守っていた訳ではなく、なんとなく親や祖父母に言われるがまま、一緒に手を合わせたり、手伝い感覚で行ったりしていました。家族みんなで年末を迎えるための作業をするのは、幼い私にとってワクワクするような、ほんのりするような、何か少し楽しいひと時でした。冬休みで学校に行かなくてもよかったということも、ほっとできる要因の一つであったと思います。
 そんな生活が15年程続いた、高校2年生の時でした。ふと教会に興味が湧いてきたのでした。理由は特にありませんが、クリスマスが近かったということ、自分の中に確かなもの、信じるものが何もないということに漠然とした空虚を感じたからだったと思います。自分の部屋にクリスマスツリーを飾って、キャンドルに火をともし、クリスマスに関する様々な飾りを並べ、祭壇のようなものを作ったことを覚えています。今から思うと、それも偶像崇拝のようなものですが、それでも不思議と自分の心が安まるような感覚になりました。そして、数日後、母親に「教会に行ってみたい」と相談をしました。
 すると、母親は石山教会を紹介してくれました。母親は、小さい頃に日曜学校、今で言う教会学校に通っていたのです。石山教会の名誉牧師である中村先生ご夫妻のことや、当時教会学校の校長をされていた飛田兄弟のこと、母より少し年上の山下姉のことを知っていました。夏期キャンプにも行ったことがあるという話も聞きました。後日、教会の創立記念礼拝で見たアルバムの白黒写真に竹谷姉と一緒に写る小学生の母を見つけた時は何とも言えない喜びがありました。母はクリスチャンにはなりませんでしたが、神様は母の幼い頃から、私を導くためのご計画を進めて下さっていたのではないか、そのように考える時、神様の偉大で、人には到底理解できない御心が確かに存在するのではないかと思いました。また、先週の説教の中で頂いた御言葉の中にあったように、私が先立って救われている、その救いの恵みを今度は、母に、そして父に、身の回りの家族に伝えていく、そのような勤めが与えられているのだと思います。伝道は簡単ではありませんが、主を信じ、自分に与えられている賜物を用いながら、主を証していきたいと考えています。
 私は現在、教会学校の校長として用いられています。子ども達に福音を語り、一緒に礼拝を捧げる中で、自らの導きを心に留めながら、奉仕を行っています。神様にはご計画があり、自分の目の前のこどもが全員今すぐにクリスチャンへと導かれることは無いかもしれない。けれど、この子どもたちが大人になった時、自分の子どもが教会に行きたいと言った時に、石山教会があるよ、と紹介する、そのような姿を想像するのです。私の母がそうであったように、神様の福音の種は確かに播かれ、芽を出すのだということを強く信じて奉仕を担っていきたいと思っています。

 私は幸いなことに、石山教会の幼稚園、清和幼稚園でも働く道が備えられました。たくさんの子どもたちと祈ったり、礼拝をしたりして日々を過ごしています。幼稚園の教諭として働くようになり、15年程が経ちましたが、決して楽しいことばかりではありませんでした。2年目には仕事がうまくいかず、適応障害という心の病にもなりました。鬱病の一歩手前のような病でした。当時はとても苦しく、何をしていても気持ちが晴れることはありませんでしたが、通院やカウンセリング、そして周囲の方々の支えもあり、何とか現場に復帰することができました。心の病というのは恐ろしいもので、今でも漠然とした不安感に襲われることがあります。怪我のような目に見える病とは違い、完治が分かりづらいということが恐ろしいと感じます。ただ、その病を通して、側で話をそっと聞いてくれる人がいることや、自分のために何かをしようとしてくれる人、祈ってくれる人がいるということと、その喜びを知りました。励ましてくれる人もいたし、一緒に涙を流してくれる人もいました。何も言わないけれど、側にいてくれる人も、どうすれば解決に向かっていくかを真剣に考えてくれる人もいました。色々な人がいて、私を色々な仕方で支えてくれました。たくさんの方々に支えられ、祈られて、今の自分がある、そのように考える時、いつでも必要な糧、道、恵みが備えられていたのだと実感し、神様に感謝をせずにはいられません。

 話は遡りますが、小学校時代、私の担任の先生は詞を書くのが好きで、ある日一つの詞を作り、教室の前、黒板の右上に大きく掲示しました。当時、私達のクラスはやんちゃな男子が数名いて、先生に反抗していました。今思えば、担任の先生も悩み、苦しみ、何とかして学級経営を進めていかなければならない、そのようなプレッシャーと、生徒の抱える問題に向き合う時間の中で、苦しんでいたのではと思います。そのような中で書いて下さった詞でした。まだ小学生だった私は、その詞の意味を深く理解出来ずにいました。その後、その詞は曲がつけられ、担任だった先生は小学校の有志メンバーで「夢バンド」という名前のバンドを組んで、1年に1度だけ、無料のコンサートの中で演奏をしています。ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
 配信、著作権等の都合により、詞をそのまま紹介できないのが残念ですが、要約、少しアレンジをするとこのような内容です。題名は「あなたがいるから」
 「教室は宇宙です。だれ一人同じ人はいない。あなたがいるから楽しい。あなたはひとりぼっちじゃない。クラスの中で一人一人がうまく結びついてそれぞれの役割を果たしている。それが先生にはよくわかる。あなたは地球にたった一人のかけがえのない存在です。あなたがいるからいいのです。」
 幼稚園教諭として働く中で、小学校の先生が言いたかったことが少しずつ分かるようになってきました。私は初め、子ども達をまとめようとしたり、全員が同じことをできるように指導したりという教育を行っていました。そのために子どもをきつく叱ったこともありました。しかし、そのようにすればするほど、子どもたちの結びつきは弱く、子ども同士の関係が悪くなっていきました。そして、何より一人一人の違いが見えなくなってしまいました。そのような中、ある日夢バンドのコンサートの案内が来たので、懐かしさに見に行き、パンフレットに書かれた「あなたがいるから」の詞を見た時、自分に欠けていたものが何となく分かった気がしました。クラスの子ども達を全体として見るのではなく、一人一人を、クラスの部分をじっくりと見て行くと、思いもよらなかったところで、小さな、しかし確かにクラスの誰かにとって重要なことをしてくれている子どもがいるということに気づく事ができました。しかも、それが一つだけではなく、至る所で見つかり始めたのでした。クラスは宇宙でした。一人一人がうまく結びついて均衡が保たれていました。そして、子どもたちはそれぞれの役割を果たしていました。それに気づいていないのは皮肉にも、誰よりもそれを見つけやすい場所にいたはずの、クラスを担任する私でした。そして、御言葉でこの気づきは確かなものとされました。そして、悔い改めへと導かれたのでした。
 聖書の御言葉は本日の聖書箇所、コリントの信徒への手紙T、12章12節から26節の御言葉です。改めてお読みします。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体の全ての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部分でなくなるでしょうか。耳が『わたしは目ではないから、体の一部分ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。」
この御言葉によって、私はクラスの見方が大きく変わりました。子どもたちは、それぞれ、体の各部分のような役割をしています。活発な子どもはクラスのマンネリ化を防ぎ、新しい風を吹き入れてくれています。気の強い子どもはクラスがまとまるためのきっかけを作ってくれています。おっとりした子どもは気づけば誰かの側に寄り添っていてくれます。せかせかした子どもはクラスの子ども達同士のつながりをつくる橋渡しになってくれています。神経質な子どもは誰も知らないところで、誰にも気づかれないような物を整えてくれています。挙げだしたらキリがありません。それぞれ、短所に見えるところが、視点を変えれば長所になっている。少し違う言い方をすると、弱いところにこそ、神様から頂いている恵み、賜物が明らかにされていく。それはパウロが言う、「弱さを誇る」ということにつながるのではないか。そのことに気づかされたことは、この幼稚園という務めを与えられたからこそ、そしてキリストを土台として建てられた幼稚園に招かれたからこそでありました。感謝して、これからも御言葉に従い、御言葉に基づいて幼稚園の業に励んでいきたいと強く願っています。
 そして、忘れてはならないのが、この御言葉は何よりも教会につながる私たちに向けて語られているということです。教会はイエスキリストが中心となり、みなが違う賜物を頂き、お互いに支え合い、つながり合い、それぞれの役割をはたしているからこそ、信仰の共同体として固く立ち続けることができる。そのことを忘れてはならないと思いました。自らの弱さは痛いほど実感しますが、それを引き立たせることで、兄弟姉妹との結びつき、つながりが深く、強くなっていく、そのように導いて下さるのが神様なのだと信じ、これからの信仰生活を歩んでいきたい、そのように願っています。

 昨年度から、副園長という役が与えられ、子どもと直接関わる機会は少なくなりましたが、客観的にクラスを観察し、一人一人の弱さ、賜物を出し合える教育を行えるように後輩の先生や保護者へ関わるように心がけています。どこまでできるか分かりませんが、神様から与えられる賜物を十分に用いながら、今後も神様の御心にかなう歩みができるようにと祈っております。

 また、昨年の10月に第1子が与えられました。私が36歳、連れ合いが34歳と、やや高齢出産寄りでしたが、無事に元気な、声の、身体の大きい、元気すぎる娘を預かりました。出産に関してのエピソード等は教会だよりに掲載して頂きましたので、ここでは割愛しますが、本当に心を込めて真剣に神様に祈るという経験ができた、祈って頂ける信仰の友が与えられている、その中に入れて頂いているという神様の恵みを強く実感した出来事となりました。
 娘はすくすく成長していますが、平均を大きく上回る体重、身長で、抱きかかえるのも一苦労です。喜ばしいことではありますが、その影響か、1ヶ月ほど前に私の右肩に違和感があることに気づき、放置していると、段々と痛みがひどくなって、肩から上に腕を上げることが出来なくなりました。整形外科に行くと「40肩」と診断され、まだ37歳なのに、とショックを受けました。しかし、夜の痛みが激しくなり、うめきながら眠れない夜を過ごす日が続き、セカンドオピニオンを行いました。2番目の病院は丁寧にレントゲンを撮影して下さり、診断結果は「頸椎症性神経根症」という、首の異常でした。今は痛み止めを飲みながら、何とか普段通りの生活を送れていますが、副作用で眠たくなるため、礼拝中や仕事中に睡魔に襲われることが何度かあります。もし礼拝の途中で居眠りをしていたら薬の副作用だな、と思っておいて下さい。今まで健康に恵まれ、指の骨折を1回、足首を3回ほど捻挫した程度で、身体の部分が動かせない、思い通りにいかないという経験をほとんどしたことがありませんでした。今まで当たり前であると思っていた、身体の一部分を動かすという行動が、本当に大切な、重要な行為であったと気づかされました。神様から与えられている体は、全て必要なものであり、欠けてはならないものであると実感した時、また、第1コリント12章の御言葉に立ち返りました。本日お読みした御言葉の後に続く27節です。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
 私たちは神様の目には誰も欠けてはいけない、欠けては困る存在なのではないでしょうか。肩が上がらないだけで、こんなに苦しいのです。イエス様も、体の部分が迷い出たり、苦しんだり、不調をきたしたりするのは苦しいはずです。いや、それどころか、私たちのために十字架にかかって下さるほどに私たちを愛して下さったイエス様です。私たちの誰かが欠けるようなことがあれば、心に憤りを覚え、興奮しながら涙を流して下さるのではないかと思うのです。ヨハネ福音書にあるラザロの時のように。
これからも互いに配慮をしあい、互いに苦しみ合い、互いに喜び合いながら、終わりの日まで、与えられた賜物を十分に用いながら信仰生活を歩み続けていきたいと願っています。
 
お祈り
 天の神様、御言葉の恵みに感謝致します。今日、このような土の器を用いて下さった恵みに感謝致します。わたしたちは神様の目には小さく、弱い存在です。自らの力や能力では至らないことばかりですが、それでも神様は私たちをキリストの体の部分として生かし、愛し、用いて下さいます。さらに弱さを際立たせることで私たちの結びつきを強め、分裂しないように配慮しあって生きていけるようにと導いて下さいます。そのことを強く信じるものとして下さい。石山教会の歩みの上に、清和幼稚園の歩みの上に、神様のお守りとお導きがありますように。私たちの主、イエスキリストの御名によって、祈ります。 アーメン
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:59| 日記