2021年08月08日

2021年8月8日 主日礼拝説教音声「キリストに結ばれる」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

本日の礼拝説教音声版を配信します(o^―^o)ニコ

https://open.spotify.com/episode/35IsgSqhWGtRclealP8oiZ?si=e87e0e7a90d446e4
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:19| 日記

2021年08月07日

2021年8月15日 礼拝予告

〇教会学校 −休会−

〇主日礼拝 10時30分〜
証し:「キリストの体の一部」大橋壮嗣兄(教会役員)
聖書:コリントの信徒への手紙T12章12節〜26節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:05| 日記

2021年8月8日 主日礼拝説教「キリストに結ばれる」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録2章37節〜42節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録2章37節から42節の御言葉であります。37節の御言葉を改めて、お読みします。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」。
聖霊の働きによって、教会が誕生しました。そして、聖霊に満たされたペトロの口を通して、神様の御言葉が、ここで語られることになります。
 この御言葉に聴いた、人々は、どのようなリアクションを取ったでしょうか。今朝の御言葉によると、多くの人々が、「大いに心を打たれた」と言われています。
 ここで言われている「大いに心を打たれた」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。人々の心の内に、感動が沸き上がった、ということでしょうか。人々が、ペトロの言葉に「感心した」ということでしょうか。確かに、そのように、イメージする方が、多いかもしれません。しかし、ここで記されている「大いに心を打たれた」という表現。これは、そのような、意味ではないのです。
 では、これは、どういう意味を持っているのでしょうか。実は、この言葉には、「後悔する」というニュアンスが、込められているのです。ある説教者は、「悔恨の情が、自分の心を刺し貫くような気持ちだ」と表現しています。つまり、もう少し、かみ砕いて言うならば、「後悔の念が、心を打ち付けるような気持ち」ということなのです。
 聖霊に満ちたペトロの説教を通して、あるいは、誕生したばかりの教会の説教を通して、人々の心の内に、「後悔の念」が生じた。言い方を変えるならば、「罪の自覚」が、生じたのだ、ということなのであります。ここに集う、全ての人が、御言葉の力と聖霊の働きによって、自らの罪の現実と、向き合わざるを得なくなった。そして、「変わりたい」と思った。「救いが必要だ」と思ったのであります。
 そもそも、ペトロを通して、語られた説教とは、どういう説教だったのでしょうか。その説教の結論が、直前の36節に、記されています。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。
 「あなた」が、イエスを、十字架につけて殺した。このように、ペトロは、人々の罪の現実を、言い表しました。ここで、ペトロは、「あなたがた」とは、言いませんでした。罪の問題は、個人の問題だからであります。いや、ペトロの説教は、今、ここで、説教を聞いている、私達一人ひとりの、いや、わたしの、あなたの問題でもあるからです。
 神の御心から離れ、自分を中心とすること。ここに罪があります。私達は皆、この罪から逃れることはできません。正に、イスラエルの人々も、今を生きる、私達もまた、ここで、イエスを十字架に架けた当事者として、罪が問われているのです。
 しかし、ここで、ペトロは、私達の罪の問題だけを、語っているのでしょうか。36節の御言葉には、続きがあります。即ち、「あなたが十字架につけて殺したイエスを」「神は、主とし、またメシアとなさったのです」と。このようにも語られているのです。
 これは、どういう意味でしょうか。これは、あなたが、罪によって殺した、その御方こそ、あなたを罪から救う真の救い主なのだ、ということであります。
 つまり、この「説教」は、ただただ、人間の罪だけを語り、人間を責めているだけではないのです。ここで、はっきりと救いも語られている。罪によって殺した御子こそが、あなたを罪から救う救い主なのだと。この救いの恵みの中でこそ、自らの罪の現実が、こと更に、深く見つめられているのであります。自分に対する、神の救いを知るということは、自分の悲惨な状況を知る、ということでもあるのです。
 それでは、このような、気づきは、どこから生まれていくのでしょうか。自分の頭の中で、納得できたから、気づけたのでしょうか。自分が、イエスを、十字架につけたなどと、誰が、納得できるのでしょうか。自分が罪人であることを、誰が認めることができるのでしょうか。即ち、人間が、人間の力で、この気づきに立つことは出来ないのであります。
 大事なことは、この説教が、「聖霊降臨日」になされた「説教」であることを思い出すことです。聖霊が働き、聖霊を通して、ペトロが語ったのです。
 つまり、今、ここで、働いているのは、「聖霊御自身」なのであります。聖霊の働きなくして、このような、気づきは起き得ないのであります。人間の力で気づかされるのではないのです。神様の霊が、キリストの霊が、私達の内に、救いの事実と罪の現実を、明らかにし、私達の心を突き動かしていくのであります。このように、私達が、救いへと歩み出す、その一歩を、後押しするのが「聖霊」なのであります。それは、言い換えるならば、神様の御業なのであります。実は、このことこそが、今朝の御言葉の一番のポイントなのです。
 38節から39節の御言葉を、お読みします。「すると、ペトロは、彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』。
 人々の問いかけに対して、ペトロは、答えました。まず、「悔い改めなさい」と。「悔い改める」とは、どういう意味でしょうか。
 それは、「方向を転換すること」であります。決して、「反省すること」ではありません。反省は、自分の行いだけを省みる行為です。それに対して、「悔い改め」は、自分自身の存在の全てを、神に向け直すことです。これは、決して、ネガティブな行為ではありません。自分の過ちに気づき、本当の喜び、本当の希望、本当の幸いを知って、その方向へと歩みを進め直すことです。それ故に、「悔い改め」は、「悲しみから喜びに変えられる」出来事でもあるわけです。
 それでは、「悔い改め」をすれば、罪が赦されるのでしょうか。罪の赦しを得る、救いを得るための条件が、「悔い改め」なのでしょうか。言い方を変えて言うならば、「悔い改め」という、人間の行いによって、罪の赦しが、実現するのでしょうか。
 それは違います。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙3章4節で、次のように、聖霊に導かれて記しています。「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを…云々」。このように、「悔い改め」もまた、実は、神様の深い、憐れみの御手の中で、導かれて、行われているのであります。
 罪の自覚も、救いを知ることも、悔い改めですらも、実は、神様の憐れみの御手の中での出来事なのです。これは、大きな幸いではないでしょうか。自分の罪を知り、自分の弱さを知り、神様に見捨てられているような気持ちになることがある。自分は、駄目な信仰者だと思うことがある。自分は、神に立ち帰らなければいけないと感じることもある。
 しかし、その罪の自覚も悔い改めへの促しも、あなたが、一人でしているわけではないのです。そこに、神がいて下さる。いや、そこで、もうすでに、私達は、神様の憐れみ深い、御手の中に招かれ、導かれている。ここに、私達の深い幸いがあるのです。
 さて、ペトロは、今朝の御言葉で、もう一つ、大事なことを語っています。それが、「洗礼」です。そして、この洗礼こそが、「罪の赦し」を得る道だと言うのです。
 しかし、ここで、大事なことは、何でしょうか。それは、ペトロが、「罪を得られる」とは、言わなかったことです。そうではなくて、「罪を赦して頂く」と言っているのであります。罪の赦しは、自分で、自分の力で、獲得するものではない。それは、外から与えられるものなのです。そして、神様が、それをして下さるのだ、ということなのであります。そして、そのために、神様は、「洗礼」という手段を、用いてくださるのであります。
 それでは、「洗礼」を通して、与えられる救いとは、どういう「救い」なのでしょうか。「主イエス・キリストの名による洗礼」とは、私達が、主イエスを、私の救い主と信じ、その救い主と一つにされることです。そして、その主の十字架の死と復活の恵みに与り、罪の赦しと新しい命を頂くことであります。罪に死に、新しい命に生きることです。神様の命に生きる、ともいえるかもしれません。このような、幸いが、ここで約束されているのです。
 勿論、「洗礼」という、一つの儀式が、罪の赦しを、実現させるわけではありません。しかし、神様が、こうして、この地上で、このような救いを見える形で備えてくださった、その洗礼を通して、私達の内に、このような、計り知れない、救いを実現してくださったのであります。
 但し、「洗礼」は、ただ、罪の赦しを実現するだけではないのです。その先に、何が起こるのでしょうか。「聖霊の賜物」があるのです。洗礼を通して、キリストと結ばれる。罪が赦される。新しい命を頂く。それだけではないのです。私達もまた、聖霊を頂くのであります。
 それは、どういう意味でしょうか。それは、「教会の一部」となる、ということです。違う聖書的表現で言うならば、「キリストの体の一部」となることです。いや、更に、違う表現で言うならば、「新しい神様の民」、「神様のもの」とされる、ということであります。
 神様が、備えてくださった、洗礼を通して、私達は、今や、罪を洗い流されているだけではなく、その我が身が、既に、神様のものとされているのであります。そして、これもまた、私達の力ではなく、神様の一方的な働きによって、いただくものなのであります。
 この時代もまた、今朝の聖書に基づいて言うならば、「邪悪な時代」であると言えるかもしれません。罪に満ち、悪に満ちた世界であります。恐れや不安に支配された時代です。誘惑やつまずきに溢れた社会です。
 しかし、私達は、今、既に、そのような、罪や悪の時代を生きているわけではないのです。既に、私達は、洗礼を通して、聖霊を頂き、今や、神様の歴史の中に生きる者であり、神様の御支配と、神様の憐れみの御手の中に、永遠に生きるものとされているのであります。そして、一人でも、多くのものが、この幸いを得るために、そして、私達自身が、その恵みを確かにするために、教会は、人間の罪を語り続け、救いを証し続けるのであります。
 この救いを頂いているのは、私達が、特別だからでしょうか。それは、違います。神様が、あなたを選んだのです。神様が、あなたを招かれたからなのであります。神様が、招かれるものは、ここにいる、あなたをはじめ、すべて、家族も、友人も、遠く離れた人も、救われるのです。
 勿論、人間の目から見れば、救いから遠く離れたような人もいるかもしれません。私なんか、その遠く離れた一人にすぎません。しかし、人間の目には、いかに、愚かに見えても、神様が、その人を招き、選ぶものは、救われるのです。
 これは、救いの主導権が、この「私に」ではなく、「神様に」あることを意味しています。到底、人間の目から見れば、救われる価値のない人も、例えば、この私が、どうしても赦せない人であったとしても、神様が、その人を招くことで、救いの道が切り開かれていくのであります。私達が、その選びに良し悪しを言うスペースはないのであります。
 だから、大事なことは、たとえ、この私が赦せなくても、神様は、赦すことの出来る御方なのだ、ということ。そのことを忘れないことです。
 ここに記されている「遠くにいるすべての人」という言葉には、二つの意味があります。それは、「物理的な距離」。そして、もう一つは、「感情の距離」です。私達には、気持ちが離れていく人がいるのです。あるいは、家族に苦しめられ、友人に裏切られ、その人たちを感情の中で、遠くに置いてしまうこともあるのです。ペトロは、そのような人々と「近づきなさい」とは教えていません。しかし、その人もまた、主によって選ばれた時に、人間の感情や思いを、遥かに超えて、救いの御手の中に入れられる。その救いの可能性を、ここで、強く語るのであります。私達が、こうして、救われていることもまた、奇跡です。しかし、その奇跡を、神様は、他の人にも起こして下さるのであります。
 では、選ばれた人が、救われるのであるならば、選ばれない人は、救われないのでしょうか。確かに、その通りであります。しかし、全ての人が、救われるために、主は、教会を備え、悔い改めの機会を備え、洗礼を備えてくださったのではないでしょうか。
 そして、何よりも、御子イエス・キリストは、その弟子たちに対して、宣教の命令を出されました。それは、教会の使命であると共に、教会の一部でもある、あなたの使命でもあるのです。つまり、あなたが、先立って救われたのは、あなたの身近にいる人が、救われるために、必要なことなのであります。
 主は、あなたを必要としています。それと同じように、あなたの身近にいる人、あるいは、遠くにいる人もまた、実は、あなたが受けた、その恵みを、必要としている人なのです。その人の為に、今、あなたが、先立って、この恵みを頂いている。その幸いを、改めて、深く思い起こしつつ、宣教の旅路へと、それぞれの場所へと、喜びをもって、歩み出していきましょう。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:55| 日記