ハレルヤ!主の御名を賛美します!!
本日の礼拝説教音声を配信します。良かったらお聴きください(o^―^o)ニコ
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2021年09月26日
2021年9月26日 主日礼拝説教音声「五つのパンの二匹の魚」須賀 舞伝道師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:10| 日記
2021年09月25日
2021年10月3日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書8章31節〜38節
説教:「主イエス、死と復活を予告する」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録4章32節〜5章11節
説教:「分かち合う神の民」須賀 工牧師
感染予防対策をした上、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:マルコによる福音書8章31節〜38節
説教:「主イエス、死と復活を予告する」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録4章32節〜5章11節
説教:「分かち合う神の民」須賀 工牧師
感染予防対策をした上、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:31| 日記
2021年9月26日 主日礼拝説教「五つのパンと二匹の魚」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書6章1節〜5節
本日与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書6:1-15です。主イエスが五つのパンと二匹の魚を5000人にお与えになったという大変有名な奇跡物語であります。
この物語は、マタイ、マルコ、ルカ、そしてこのヨハネのすべての福音書において伝えられる物語で、それらを読み比べますと、ヨハネによる福音書だけが、物語の舞台である地名から語り始めていることが分かります。「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた(6:1)。」新共同訳聖書の巻末にある6番「新約時代のパレスチナ」という地図を見ますと、ガリラヤ湖のほとりに、確かに「ティベリアス」という地名が記されております。この街は、当時のユダヤの王であったヘロデ・アンティパスが、ローマ皇帝ティベリウスを記念して建てた湖畔のわりと大きな港町であったようです。ガリラヤ湖という呼び方は、全くの地名ですが、ティベリアス湖という呼び方は、皇帝崇拝という当時の価値観のもとで、非常に政治的な意味合いが含まれていたのです。それをなぜ、ヨハネによる福音書はあえてここで記しているのでしょうか。
そもそも、このガリラヤ地方、そしてガリラヤ湖は、主イエスと深い結びつきのある場所でありました。主イエスが伝道活動を開始されて、その湖の周辺あるいはその湖の上において、御言葉が語られ、奇跡が執り行われたからです。実は、ヨハネによる福音書には、この「ティベリアス」という呼び方が、後にもう一度、登場します。それは21:1以下、主イエスの御復活を伝える物語です。主が甦られて、弟子たちにそのお姿をあらわされた時、その場所がガリラヤ湖のほとりでありました。ここで、御復活の主は再び、パンと魚を与えてくださり、弟子たちと食事を一緒にされたのです。この場所についても、ヨハネによる福音書は、わざわざ「ティベリアス湖畔で(21:1)で」と伝えています。
それはまるで、当時の輝く権力の象徴であった皇帝ティベリウスの名と、主イエスの名を対比させるかのような表現でありましょう。主イエスのこの世の御働きは、ティベリアスでなされ、ティベリアスで幕を閉じていったのです。ヨハネによる福音書は、あえて、このような表現を用いることで、主イエス・キリストこそ、王の王、主の主、この世界を本当に御支配されるお方であるということを、キリストの光が、この世の権力をまるで覆っていくかのように語っているのではないでしょうか。
福音書とは、主イエスの生涯における言葉と業、そして、十字架の死と復活を証しする書物です。そして、主の伝道活動のまさに頂点とも言える物語が、この五千人に食べ物を与えたという話だと言えるでしょう。この時、主イエスの奇跡の業を見て、多くの人々が主の後を追ってきていました。そのように2節は伝えています。主イエスは、弟子たちと一緒に山に登って座り、目の前に迫ってくる大勢の群衆を見つめていました。
「過越祭が近づいていた」と5節にあります。ヨハネによる福音書にには、ユダヤ人の祭である過越祭が3度登場します。年に一度の祭でありますから、そこのことから主イエスのこの世での伝道活動が3年間であったと知ることがきるでしょう。1度目の過越祭の出来事は、2:13以下です。この時、イエス様は、エルサレムの神殿に行かれ、神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出しました。いわゆる、「宮清め」の物語であります。その時、イエス様は、神殿商人たちにこう言われたのです。たとえ、あなたたちがこの神殿を壊しても三日で立て直して見せよう、と。それを、ヨハネによる福音書は、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである(2:21)」と説明します。その上で、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた(2:22)」と伝えます。
また、ここで併せて思い起こしたいのは、主イエスがこの宮清めをされる前に、洗礼者ヨハネと出会って、洗礼者ヨハネが主イエスのお姿を指し示しながらこのように言ったことです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(1:29)」この洗礼者ヨハネの言う「小羊」とは、正に過越祭の時に捧げられる犠牲の小羊を指します。この犠牲の小羊とは、そもそも、過越祭の起源である、イスラエルの出エジプトの出来事、羊の血を門の鴨居に塗って主がイスラエルの初子を打つことなく過越された、その時の犠牲の小羊に由来しています。犠牲の小羊の血によって、イスラエルは滅びから守られ、そのことを過越祭として記念しているのです。その犠牲の小羊、それも、この世の罪を取り除く小羊こそ、このお方、主イエス・キリストであるのだ、と洗礼者ヨハネはこの時、言ったのです。
そこから一年が経ち、次に過越祭を迎えるのが本日の聖書箇所であります。そして、3度目の過越祭が、19:14以下、ピラトによる主の裁判が開始される時でありました。その時について、ヨハネによる福音書は、わざわざ「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった(19:13)。」と伝えます。当時の習慣で、過越祭の準備として、金曜日の昼間に、神殿で小羊が屠られて、それを人々に配っていたそうです。そのように、神殿で犠牲の小羊が屠られ始める、まさにその時、主イエスの裁判が始められたという叙述は大変興味深いことでありましょう。その裁判の様子を19:14以下はこのように記します。「ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ。」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ、殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません。」と答えた。」皇帝ティベリウスのほかに王はいないと答えたというのです。そして、主イエスが十字架に架けられた時、「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日(過越祭)であった(19:31)」と繰り返して記されています。
本日の物語は、ヨハネによる福音書が伝える2度目の過越祭が近づいてきた時でありました。まさに、人々が過越祭のために犠牲の小羊の準備に取り掛かろうとする頃です。その時に、パンを与えるという恵みの奇跡を主は成されました。エルサレム神殿での宮清めにおいて、御自身の死と復活を予告された時と、十字架刑を宣告する裁判の時との間に、挟まれるかのように記されている本日の話、この3つの物語が深く絡み合っていることは明らかです。それは、即ち、本日の物語の目的が、主イエス・キリストの犠牲の小羊としての死と甦りを指し示すことであるということに他なりません。
ある注解書には、本日の話が教会の「聖餐式」と深く結びついているという説明がされていました。初代教会ではこの物語にならって、聖餐をパンと魚で祝ったところもあったと伝えられています。他の福音書では、最後の晩餐が聖餐の制定のように描かれていますが、ヨハネによる福音書はそのような描き方をしていません。むしろ本日の物語の主の言葉「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた(6:11)。」から、この箇所がヨハネの教会の聖餐制定の箇所であるとも考えられるのです。聖餐は、主イエスの死と復活の恵みを感謝して覚える儀式であります。私たちは、私たちのために主がその体を割かれ、血を流されたことを、パンとぶどう酒という目に見える食べ物を食することで味わい知るのです。
まさに本日の物語も、これから主が行かれる先にある十字架を指し示していると言えます。これに続く箇所で、主イエスは、御自身が命のパンそのものであるとお語りになりました。そして、主イエスというパンを食する人は決して飢えることも渇くこともないと言われるのです。そのことが実際の出来事となったのが、この5000人の供食でありましょう。注目すべきは、共観福音書では、弟子たちが群衆にパンを配ったのに対して、ここでは、すべてを主イエス御自身が成されたということです。主イエスが御自らパンを与えてくださる。ここに聖餐の恵みの核心があるように思わされます。聖餐式の時に、司式をするのは牧師です。配餐をするのは役員の方々です。しかし、その中にも主御自身の御働きがある。主イエスが皆さんに御自らパンとぶどう酒を渡してくださっている、この箇所をよみますと聖餐の恵みが一層重みを増してくるように思わされるのです。
ここでどうやって、お一人で5000人に配ることができたのか、という疑問を持つ人もおられるかもしれません。しかし、イエス様はご自分が神様と等しい存在であると直前の箇所で教えられています。ですから、イエス様に不可能なことはないと考えて当然なのです。しかし、この話には、この世の常識や道理にとらわれ不可能なことばかりに気を取られてしまい、主イエスを信じなかった弟子たちの姿が描かれています。主イエスは、集まってきた群衆を前にして弟子の一人であるフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか(6:5)。」と問いかけます。これは、主イエスがあえてフィリポを試そうとした質問でありました。何を試そうとされたのか。それはフィリポの信仰です。フィリポはそれに対して、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう(6:7)。」と答えました。二百デナリオンとは、当時の年収の2/3の額に価するそうです。つまり、だいたい妥当な数を、フィリポは群衆を見渡して計算した、ということになります。そして、暗にそんな大金など持ってはいないということを訴えるのです。
フィリポの言葉は、主イエスの問いには全く答えていない、的外れな返しでありました。主イエスは、「どこでパンを買えばよいだろうか(6:5)。」と聞かれました。しかも、「御自分では何をしようとしているか知っておられたのである(6:6)。」という説明がここに加わっています。つまり、「パンは主イエス御自身からやってくる、だから、パンはあなたが与えてくださいます。」という答えを期待されていた、ということなのです。
このようなやり取りをしていると、また別の弟子がやってきて「ここに5つのパンと2匹の魚をもっている少年がいます。」と言います。しかし、それに加えて「けれでども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」ときっぱりと諦めの言葉を口にするのです。ここで興味深いことは、このパンが「大麦パン」であったと詳細に説明されていることです。大麦パンというのは、当時、貧しい者たちが食べるパンでありました。そもそも、大麦は家畜の餌でした。それを、「少年」が持ってきた。その少年という言葉も、原語を読むと、「奴隷」という意味が含まれていることが分かります。子どもの時から奴隷として働く少年が貧しいパンを持ってきた。人の目から見ると、何の役にも立たないように見えるかもしれません。しかし、それが主の御用のために用いられたのです。奴隷たちが普段食べているものが、主イエスによって、五千人、いや女性や子どもも入れるとそれ以上のところに与えられ彼らを養うものとなっていったのです。
しかも、パンは大勢の人々を満たしてもなお溢れ、その残ったものを集めると、籠が12個分にもなりました。弟子たちは、5000人をどうしたら満たせるかという状況を、頭で計算したり、現実を見てもう無理だと決めてしまっていました。私たちも、この弟子たちのように、恵みの出処を見失ってしまうことがあります。しかし、主イエスはいつも私たちと共にあって、余すところなく恵みを与えてくださるお方であるのです。
しかし、今日の話は非常に残念な群衆の姿を描いて終わります。パンの恵みをいただいた人々は、主イエスこそ預言者だと言いました。そして、主イエスをユダヤの王とするために引き出そうとしたのです。つまり、群衆は、主イエスにモーセをはじめとするかつての優れた預言者、もしくは、皇帝ティベリアスと対峙できるようなこの世の指導者になって欲しいというような誤った願いを抱いていたのです。イエス様は、そのことを悟ると、一人で逃げるように山へと向かわれました。群衆と主イエスの関係は結ばれることなく終わってしまったのです。
ここでわたしたちが心に留めたいのは、主イエスがなぜ、その群衆の願いを拒まれたのかということです。ここで主は、群衆の願いを受け入れることもできました。むしろ、その方が伝道活動はもっと拡大していったことでしょう。十字架にかからずにも済んだかもしれません。しかし、主イエスは、たとえ群衆の求める指導者が立てられても、群衆は救われることはないのだということを知っていました。旧約の始め、モーセや数々の預言者とイスラエルの民が繰り返してきた罪の歴史が、これからもずっと繰り返され続けるだけであるということを。この罪の歴史を終わらせ、その罪から解放する救いの完成のために、主イエス・キリストはこの世に来られたのです。だから、主は、群衆の元を退かれたのです。
この先には、十字架への道があります。主イエス・キリストは、自分を預言者・王とした人々の願いは拒否した。しかし、その人々を、御自身は十字架の死を通して恵みの内にしっかりと捉えようとされたのです。主イエスは弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい(12節)。」と教えられます。「少しも無駄にならないように」これは、ヨハネによる福音書において、頻繁に使われる言い回しでもあります。その代表的な箇所は、3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」です。この「滅びないで」という言葉が「無駄にならないように」と同じ言葉なのです。
主イエスが無駄にならないように、滅びないようにと捉えてくださった一人の中に、このわたしも入れられている。わたしたちは、神様の御前に等しく、貴く、価値あるものとされている。死んで滅び去るものではなく、永遠の命に生かされるものへと導かれているのです。生きてほしい。生きよ。神様が愛する御子イエス・キリストの命をかけて示された罪からの救いを受け入れ、神様と結ばれて生きる者としてこの一週間も歩んで参りたいと願います。
祈り
天の父なる神様。御名を崇め賛美します。ただいまあなたより御言葉をいただきました。飢え渇く私たちに、あなたは溢れんばかりの恵みをくださること、今一度示されました。この計り知れない恵みをどうか無駄にすることのない者となれますように。私たちの信仰を聖霊の御働きによって強め導いてください。あなたが、御子イエス・キリストの命をかけてまで私たちを愛してくださった恵みにいつも立ち帰って行けますように。主イエス・キリストの体と血をいただき、生かされていることを感謝します。この混沌とした世界に、苦しみ悲しみの多い時代に、主イエス・キリストの福音が広く告げ知らされ、病む者の心が福音を通して癒されてゆきますように。また、どうか信じる一人一人を伝道の器として用いてください。
この祈り、尊き主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。
本日与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書6:1-15です。主イエスが五つのパンと二匹の魚を5000人にお与えになったという大変有名な奇跡物語であります。
この物語は、マタイ、マルコ、ルカ、そしてこのヨハネのすべての福音書において伝えられる物語で、それらを読み比べますと、ヨハネによる福音書だけが、物語の舞台である地名から語り始めていることが分かります。「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた(6:1)。」新共同訳聖書の巻末にある6番「新約時代のパレスチナ」という地図を見ますと、ガリラヤ湖のほとりに、確かに「ティベリアス」という地名が記されております。この街は、当時のユダヤの王であったヘロデ・アンティパスが、ローマ皇帝ティベリウスを記念して建てた湖畔のわりと大きな港町であったようです。ガリラヤ湖という呼び方は、全くの地名ですが、ティベリアス湖という呼び方は、皇帝崇拝という当時の価値観のもとで、非常に政治的な意味合いが含まれていたのです。それをなぜ、ヨハネによる福音書はあえてここで記しているのでしょうか。
そもそも、このガリラヤ地方、そしてガリラヤ湖は、主イエスと深い結びつきのある場所でありました。主イエスが伝道活動を開始されて、その湖の周辺あるいはその湖の上において、御言葉が語られ、奇跡が執り行われたからです。実は、ヨハネによる福音書には、この「ティベリアス」という呼び方が、後にもう一度、登場します。それは21:1以下、主イエスの御復活を伝える物語です。主が甦られて、弟子たちにそのお姿をあらわされた時、その場所がガリラヤ湖のほとりでありました。ここで、御復活の主は再び、パンと魚を与えてくださり、弟子たちと食事を一緒にされたのです。この場所についても、ヨハネによる福音書は、わざわざ「ティベリアス湖畔で(21:1)で」と伝えています。
それはまるで、当時の輝く権力の象徴であった皇帝ティベリウスの名と、主イエスの名を対比させるかのような表現でありましょう。主イエスのこの世の御働きは、ティベリアスでなされ、ティベリアスで幕を閉じていったのです。ヨハネによる福音書は、あえて、このような表現を用いることで、主イエス・キリストこそ、王の王、主の主、この世界を本当に御支配されるお方であるということを、キリストの光が、この世の権力をまるで覆っていくかのように語っているのではないでしょうか。
福音書とは、主イエスの生涯における言葉と業、そして、十字架の死と復活を証しする書物です。そして、主の伝道活動のまさに頂点とも言える物語が、この五千人に食べ物を与えたという話だと言えるでしょう。この時、主イエスの奇跡の業を見て、多くの人々が主の後を追ってきていました。そのように2節は伝えています。主イエスは、弟子たちと一緒に山に登って座り、目の前に迫ってくる大勢の群衆を見つめていました。
「過越祭が近づいていた」と5節にあります。ヨハネによる福音書にには、ユダヤ人の祭である過越祭が3度登場します。年に一度の祭でありますから、そこのことから主イエスのこの世での伝道活動が3年間であったと知ることがきるでしょう。1度目の過越祭の出来事は、2:13以下です。この時、イエス様は、エルサレムの神殿に行かれ、神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出しました。いわゆる、「宮清め」の物語であります。その時、イエス様は、神殿商人たちにこう言われたのです。たとえ、あなたたちがこの神殿を壊しても三日で立て直して見せよう、と。それを、ヨハネによる福音書は、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである(2:21)」と説明します。その上で、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた(2:22)」と伝えます。
また、ここで併せて思い起こしたいのは、主イエスがこの宮清めをされる前に、洗礼者ヨハネと出会って、洗礼者ヨハネが主イエスのお姿を指し示しながらこのように言ったことです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(1:29)」この洗礼者ヨハネの言う「小羊」とは、正に過越祭の時に捧げられる犠牲の小羊を指します。この犠牲の小羊とは、そもそも、過越祭の起源である、イスラエルの出エジプトの出来事、羊の血を門の鴨居に塗って主がイスラエルの初子を打つことなく過越された、その時の犠牲の小羊に由来しています。犠牲の小羊の血によって、イスラエルは滅びから守られ、そのことを過越祭として記念しているのです。その犠牲の小羊、それも、この世の罪を取り除く小羊こそ、このお方、主イエス・キリストであるのだ、と洗礼者ヨハネはこの時、言ったのです。
そこから一年が経ち、次に過越祭を迎えるのが本日の聖書箇所であります。そして、3度目の過越祭が、19:14以下、ピラトによる主の裁判が開始される時でありました。その時について、ヨハネによる福音書は、わざわざ「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった(19:13)。」と伝えます。当時の習慣で、過越祭の準備として、金曜日の昼間に、神殿で小羊が屠られて、それを人々に配っていたそうです。そのように、神殿で犠牲の小羊が屠られ始める、まさにその時、主イエスの裁判が始められたという叙述は大変興味深いことでありましょう。その裁判の様子を19:14以下はこのように記します。「ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ。」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ、殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません。」と答えた。」皇帝ティベリウスのほかに王はいないと答えたというのです。そして、主イエスが十字架に架けられた時、「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日(過越祭)であった(19:31)」と繰り返して記されています。
本日の物語は、ヨハネによる福音書が伝える2度目の過越祭が近づいてきた時でありました。まさに、人々が過越祭のために犠牲の小羊の準備に取り掛かろうとする頃です。その時に、パンを与えるという恵みの奇跡を主は成されました。エルサレム神殿での宮清めにおいて、御自身の死と復活を予告された時と、十字架刑を宣告する裁判の時との間に、挟まれるかのように記されている本日の話、この3つの物語が深く絡み合っていることは明らかです。それは、即ち、本日の物語の目的が、主イエス・キリストの犠牲の小羊としての死と甦りを指し示すことであるということに他なりません。
ある注解書には、本日の話が教会の「聖餐式」と深く結びついているという説明がされていました。初代教会ではこの物語にならって、聖餐をパンと魚で祝ったところもあったと伝えられています。他の福音書では、最後の晩餐が聖餐の制定のように描かれていますが、ヨハネによる福音書はそのような描き方をしていません。むしろ本日の物語の主の言葉「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた(6:11)。」から、この箇所がヨハネの教会の聖餐制定の箇所であるとも考えられるのです。聖餐は、主イエスの死と復活の恵みを感謝して覚える儀式であります。私たちは、私たちのために主がその体を割かれ、血を流されたことを、パンとぶどう酒という目に見える食べ物を食することで味わい知るのです。
まさに本日の物語も、これから主が行かれる先にある十字架を指し示していると言えます。これに続く箇所で、主イエスは、御自身が命のパンそのものであるとお語りになりました。そして、主イエスというパンを食する人は決して飢えることも渇くこともないと言われるのです。そのことが実際の出来事となったのが、この5000人の供食でありましょう。注目すべきは、共観福音書では、弟子たちが群衆にパンを配ったのに対して、ここでは、すべてを主イエス御自身が成されたということです。主イエスが御自らパンを与えてくださる。ここに聖餐の恵みの核心があるように思わされます。聖餐式の時に、司式をするのは牧師です。配餐をするのは役員の方々です。しかし、その中にも主御自身の御働きがある。主イエスが皆さんに御自らパンとぶどう酒を渡してくださっている、この箇所をよみますと聖餐の恵みが一層重みを増してくるように思わされるのです。
ここでどうやって、お一人で5000人に配ることができたのか、という疑問を持つ人もおられるかもしれません。しかし、イエス様はご自分が神様と等しい存在であると直前の箇所で教えられています。ですから、イエス様に不可能なことはないと考えて当然なのです。しかし、この話には、この世の常識や道理にとらわれ不可能なことばかりに気を取られてしまい、主イエスを信じなかった弟子たちの姿が描かれています。主イエスは、集まってきた群衆を前にして弟子の一人であるフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか(6:5)。」と問いかけます。これは、主イエスがあえてフィリポを試そうとした質問でありました。何を試そうとされたのか。それはフィリポの信仰です。フィリポはそれに対して、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう(6:7)。」と答えました。二百デナリオンとは、当時の年収の2/3の額に価するそうです。つまり、だいたい妥当な数を、フィリポは群衆を見渡して計算した、ということになります。そして、暗にそんな大金など持ってはいないということを訴えるのです。
フィリポの言葉は、主イエスの問いには全く答えていない、的外れな返しでありました。主イエスは、「どこでパンを買えばよいだろうか(6:5)。」と聞かれました。しかも、「御自分では何をしようとしているか知っておられたのである(6:6)。」という説明がここに加わっています。つまり、「パンは主イエス御自身からやってくる、だから、パンはあなたが与えてくださいます。」という答えを期待されていた、ということなのです。
このようなやり取りをしていると、また別の弟子がやってきて「ここに5つのパンと2匹の魚をもっている少年がいます。」と言います。しかし、それに加えて「けれでども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」ときっぱりと諦めの言葉を口にするのです。ここで興味深いことは、このパンが「大麦パン」であったと詳細に説明されていることです。大麦パンというのは、当時、貧しい者たちが食べるパンでありました。そもそも、大麦は家畜の餌でした。それを、「少年」が持ってきた。その少年という言葉も、原語を読むと、「奴隷」という意味が含まれていることが分かります。子どもの時から奴隷として働く少年が貧しいパンを持ってきた。人の目から見ると、何の役にも立たないように見えるかもしれません。しかし、それが主の御用のために用いられたのです。奴隷たちが普段食べているものが、主イエスによって、五千人、いや女性や子どもも入れるとそれ以上のところに与えられ彼らを養うものとなっていったのです。
しかも、パンは大勢の人々を満たしてもなお溢れ、その残ったものを集めると、籠が12個分にもなりました。弟子たちは、5000人をどうしたら満たせるかという状況を、頭で計算したり、現実を見てもう無理だと決めてしまっていました。私たちも、この弟子たちのように、恵みの出処を見失ってしまうことがあります。しかし、主イエスはいつも私たちと共にあって、余すところなく恵みを与えてくださるお方であるのです。
しかし、今日の話は非常に残念な群衆の姿を描いて終わります。パンの恵みをいただいた人々は、主イエスこそ預言者だと言いました。そして、主イエスをユダヤの王とするために引き出そうとしたのです。つまり、群衆は、主イエスにモーセをはじめとするかつての優れた預言者、もしくは、皇帝ティベリアスと対峙できるようなこの世の指導者になって欲しいというような誤った願いを抱いていたのです。イエス様は、そのことを悟ると、一人で逃げるように山へと向かわれました。群衆と主イエスの関係は結ばれることなく終わってしまったのです。
ここでわたしたちが心に留めたいのは、主イエスがなぜ、その群衆の願いを拒まれたのかということです。ここで主は、群衆の願いを受け入れることもできました。むしろ、その方が伝道活動はもっと拡大していったことでしょう。十字架にかからずにも済んだかもしれません。しかし、主イエスは、たとえ群衆の求める指導者が立てられても、群衆は救われることはないのだということを知っていました。旧約の始め、モーセや数々の預言者とイスラエルの民が繰り返してきた罪の歴史が、これからもずっと繰り返され続けるだけであるということを。この罪の歴史を終わらせ、その罪から解放する救いの完成のために、主イエス・キリストはこの世に来られたのです。だから、主は、群衆の元を退かれたのです。
この先には、十字架への道があります。主イエス・キリストは、自分を預言者・王とした人々の願いは拒否した。しかし、その人々を、御自身は十字架の死を通して恵みの内にしっかりと捉えようとされたのです。主イエスは弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい(12節)。」と教えられます。「少しも無駄にならないように」これは、ヨハネによる福音書において、頻繁に使われる言い回しでもあります。その代表的な箇所は、3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」です。この「滅びないで」という言葉が「無駄にならないように」と同じ言葉なのです。
主イエスが無駄にならないように、滅びないようにと捉えてくださった一人の中に、このわたしも入れられている。わたしたちは、神様の御前に等しく、貴く、価値あるものとされている。死んで滅び去るものではなく、永遠の命に生かされるものへと導かれているのです。生きてほしい。生きよ。神様が愛する御子イエス・キリストの命をかけて示された罪からの救いを受け入れ、神様と結ばれて生きる者としてこの一週間も歩んで参りたいと願います。
祈り
天の父なる神様。御名を崇め賛美します。ただいまあなたより御言葉をいただきました。飢え渇く私たちに、あなたは溢れんばかりの恵みをくださること、今一度示されました。この計り知れない恵みをどうか無駄にすることのない者となれますように。私たちの信仰を聖霊の御働きによって強め導いてください。あなたが、御子イエス・キリストの命をかけてまで私たちを愛してくださった恵みにいつも立ち帰って行けますように。主イエス・キリストの体と血をいただき、生かされていることを感謝します。この混沌とした世界に、苦しみ悲しみの多い時代に、主イエス・キリストの福音が広く告げ知らされ、病む者の心が福音を通して癒されてゆきますように。また、どうか信じる一人一人を伝道の器として用いてください。
この祈り、尊き主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:28| 日記