2021年09月19日

2021年9月19日 主日礼拝説教音声「大胆に御言葉を語る力」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!!

9月19日の礼拝説教音声を配信します!!良かったらお聴きください(o^―^o)ニコ

https://open.spotify.com/episode/4y1yDdzhhWlYF1HpGQ76zk?si=qMLCVOXvT6uaWPP2hKY3hw&dl_branch=1
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:21| 日記

2021年09月17日

2021年9月26日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「ペトロ、信仰を告白する」
聖書:マルコによる福音書8章27節〜30節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「五つのパンと二匹の魚」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書6章1節〜15節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:43| 日記

2021年9月19日 主日礼拝説教「大胆に御言葉を語る力」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録4章23節〜31節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録4章23節から31節の御言葉です。「教会の始まり」は、同時に「伝道の始まり」でもあります。聖霊に溢れた使徒たちは、積極的に、キリストの復活を伝道しました。たとえ、迫害を受けていても、彼らは、逸れることなく、福音を宣べ伝えました。このように、教会の始まりは、伝道の始まりでもあるわけです。
 しかし、「伝道の始まり」は、必ずしも、良い始まりであるとは、言えないものでありました。使徒ペトロとヨハネは、伝道した為に、逮捕されました。そればかりか、伝道すること自体も禁止されることになったのです。このように、教会の始まりは、「挫折」と「痛み」から始まった。そのように、言えるかもしれません。
 それでは、この迫害を受けて、その後、教会は、どうなったのでしょうか。彼らは、悲痛の叫びを上げながら、集まることを止めてしまったのでしょうか。「迫害を止めて欲しい」と、切なる祈りをささげたのでしょうか。あるいは、絶望に暮れて、涙ながらに、解散でもしたのでしょうか。
今朝の御言葉によると、彼らは、全く「絶望」している様子はありません。むしろ、彼らは、神様に対する信仰や希望を、益々、確かにすることができ、更なる伝道の意欲を燃やして、新たに歩みだすのであります。
 それでは、なぜ、このような危機的な状況の中で、それでもなお、彼らは、希望を失うことがなかったのでしょうか。
 それは、勿論、神様の支えと聖霊の働きによるものであると言えます。それでは、その聖霊を通して、彼らは、何を知り、何を得ることが出来たのでしょうか。
 それは、難しいことではありません。この危機的状況の中においても、迫害の中においても、それでも、神様は、この私達の真の支配者でいてくださる。彼らは、そのことを知り得たのであります。言い方を変えて申し上げるならば、この厳しい迫害もまた、実は、神様の御支配の中に置かれている出来事。そのことを、彼らは、聖霊を通して、知る者とされたのであります。
 この彼らの確信は、決して、根拠のない確信ではありません。この確信は、聖書、取り分け、この時代の拠り所でもある旧約聖書によって、裏付けされているのです。そのことを踏まえた上で、25節から30節の御言葉を、改めて、お読みします。「あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、神とそのメシアに逆らう。』事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。
 聖書によると、迫害の報告を受けた信者たちは、「心を一つにし、神に向かって声を上げて言った」とあります。恐らく、これは、「祈り」であると言えるでしょう。
 しかし、ただの祈りではありません。「心を一つに」という言葉は、「同じ言葉で」という意味もあります。この言葉が後に、「信仰を告白する」という意味も持つようになるのです。 
 つまり、ただ、祈ったわけではないのです。祈りながら、彼らは、信仰を告白した、ということにもなるのです。迫害の報告を受けて、ただただ嘆くのではないのです。そこで、改めて、神様に対して、心を向けつつ、そして同時に、信仰を確かにすることができた。その様子が、ここで強く表されています。
 さて、いずれにせよ、その祈りの一部分が、今、お読みした箇所です。今朝、私達が、特に注目したいのは、この祈りの中に、旧約聖書の御言葉が、引用されていることであります。彼らは、ここで、詩編第2編の前半部分の御言葉を、引用しています。
 因みに、この詩編は、「ダビデの詩」とされていますが、内容的には、ダビデの口を通して、「救い主の預言と救いの予告」が歌われています。
 この詩編によると、神様は、この世に、救い主を、遣わしてくださいます。しかし、悲しいことに、イスラエルの指導者たちを始め、異邦人の王も、神様とメシアに反逆を企てる。この詩編は、そのような人間の罪の現実から、歌いはじめます。
 しかし、この詩編は、それで終わりません。4節を読むと、「天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲る」とあります。つまり、神と救い主に逆らう。そのような世界を見て、それでも、神様と救い主だけは、「笑っている」。それが、この詩編で歌われているのです。
 そして、更に、次のことを、神様は、ダビデを通して、約束してくださいます。7節の御言葉です。「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする云々』」。
 何が、ここで言われているのでしょうか。神様は、この世に、救い主を与えてくださいます。しかし、この世の民は、神と救い主に反逆します。しかし、神様は、その人々の様子を嘲笑います。そして、最後の最後には、真の救い主が、この世を支配するのだ、ということなのです。要するに、色々、苦しいことはあるけれど、全てが、神様の御手の中で起き、最後の最後は、神様の勝利で幕を閉じていくのです。
 つまり、神様は、もう既に、人間が、神と救い主に対して、大きな罪を犯すこと。反逆すること。その全てを、ご存じなのであります。いや、むしろ、その反逆すらも、救いの計画の一部としておられるのです。
確かに、救い主は、ヘロデやピラトたちによって、反逆を受け、十字架に架けられました。それは、一見、彼らの勝利であると言えるかもしれません。しかし、実は、その行為そのものが、神様の救いの御計画の一部だったのであります。実際に、この反逆によって、神様の独り子、真の救い主が、私達の全ての罪を背負い、身代わりとなり、死んでくださった。その救いの御計画が、見事に実現したのであります。いや、それだけではありません。神様は死の力を打ち破り、主イエス・キリストを復活させて下さった。その復活の主は、今や、天に昇り、父なる神の右に座し、私達を恵みによって支配して下さいます。神様は、そして、真の救い主は、人間の罪や反逆もまた、救いの通過点としてくださり、それを通して、詩編2篇に予告された、その救いの御計画を、成し遂げてくださったのであります。
 それ故に、神に逆らい、教会を迫害し、伝道を妨害するいかなる力も、今や、その全ては、キリストの御支配の下にあり、神様の救いの御計画を妨げることはできないのだ、ということなのです。
 教会は、あらゆる苦難を越えて、約束の通り、キリストの救いを成し遂げて下さった、神様を信じています。そして、その勝利者キリストが、約束の通り、今も私達の支配者であることも知っています。彼らは、ここで、迫害を受けることで、その迫害すらも、その御手の中で支配しておられる、真の支配者を信じていることになるのです。その信仰を、ここで確かにすることができたのであります。だからこそ、彼らは落胆することなく、むしろ、思いを強くされて、前進することができたのであります。
 彼らにとって迫害は、もうすでに、神様の手の中にあるのです。彼らは、そのことを信じています。いかなる困難も、神様の御支配の下にあることを知っています。だから、彼らは言うのです。「見て下さい」と。この迫害に対して、自分たちで戦うのではないのです。ただ、神様に見てもらう。言い換えるならば、神様の手に委ねる。それでいいのであります。
 私達が、迫害者に対抗して、何かをするのではないのです。いかなる苦しみも、迫害も、艱難も、ただ、主に見てもらう。主の御手に委ねていく。それが大事なのです。
 なぜなら、私達は、私達の主が、全ての苦難を、その御手の中に、置いておられる。そのことを知っているからであります。私達は、いかなる迫害の中にあっても、自分たちを本当に支配しているのは、人間による恐怖ではないことを知っています。私達を本当に、今も、満たし続け、支配しているのは、キリストの恵みしかない。私達は、今、そのことを知っているのです。
 それ故に、私達は、いかなる迫害と戦うことではなく、ただ、一心に、神の僕として生きること。神様のものとして生きること。そして、神様のために生きること。そのことへと、新たに、私達の視点を切り替えていく。そのことが大切なのであります。
 苦難や恐れの中で、その信じる心が、奪われてしまう。そういうことがあります。その中で、立ち止まってしまうことがあります。
 しかし、その全ては、主の御手にある。そのことを覚え、それを主に委ねつつ、自分たちは、主の僕として、与えられた使命、私達のすべことをする。その方へと心を向け直していくものでありたいのです。
それでは、その「すべきこと」とは何でしょうか。御言葉を大胆に語る、ということです。迫害を恐れる必要はないのです。誰からも理解されない。その恐れに支配されることはないのです。ただ、神様が与え、示し、語るものを、自分たちが代弁していく。その力を主に求めつつ、大胆に語る。そこに、主の僕、主の者とされた者の新たな生き方が、指し示されていくのであります。
 そして、忘れてはいけないことは、その伝道は、決して、個人プレーではありません。ペトロとヨハネが、全てのことを、教会全体に報告をしたように、その痛みや悲しみを分かち合う仲間がいるのです。それだけではありません。真の喜びや希望へと、共に押し出されていく家族がいるのであります。
そして、何よりも、そのような私達を、聖霊で満たし、私達を、新たに遣わす神様がいて下さる。その深い恵みに押し出されて、私達は、この日から新たに、歩み出すのです。
この時代にあって、私達の信仰を脅かすものが、沢山あるかもしれません。しかし、そこで、私達を本当に支配しているのは、そのような反逆的な力ではありません。あるいは、誘惑の力でもありません。罪や死でもありません。
 私達は、もう既に、神様の御支配の中にあって、神様のものとして、神様の恵みに満ち溢れて、今を得ているのです。主は既に、世に勝利されました。私達もまた、その勝利の中にいます。大事なことは、その幸いを覚え、喜びを抱きつつ、いかなる世にあっても、主の民として歩み続けることなのです。その幸いに深く思いを馳せつつ、新しい日々を、歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:34| 日記