2021年09月12日

2021年9月12日 主日礼拝説教音声「キリストによってのみ」須賀 工牧師

ハレルヤ!!主の御名を賛美します!!!

9月12日の主日礼拝説教音声を配信します↓↓
https://open.spotify.com/episode/5WbrOp17pbDnA3aulwHuTh?si=owfHVn2MSBCda0ZZhiErRQ&dl_branch=1

良かったらお聴きください(o^―^o)ニコ
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:21| 日記

2021年09月11日

2021年9月19日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「四千人にパンを与える」
聖書:マルコによる福音書8章1節〜10節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「大胆に御言葉を語る力」須賀 工牧師
聖書:使徒言行録4章23節〜31節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:42| 日記

2021年9月12日 主日礼拝説教「キリストによってのみ」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録4章1節〜22節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録4章1節から22節の御言葉であります。今朝の御言葉は、一言で申し上げるならば、教会が受けた「迫害」についてのお話です。
 教会の歴史を思い返してみれば、教会の歴史、取り分け、初代教会は、正に「迫害の連続」であったと言えるかもしれません。しかし、度重なる「迫害」を受けながらも、教会の勢いを止めることは、誰も出来ませんでした。むしろ、「迫害」を通して、教会の地盤が強化され、益々、勢いよく、成長していくことにもなったのであります。
 今朝の御言葉は、そのような教会の歴史を踏まえつつ、「迫害」の渦中にあって、教会が、一体、何を大事にし、一体、何に目を向け続けたのか。どうして、教会の勢いが、それでも失われなかったのか。そのところに、強く注目をしつつ、御言葉に聴いて参りたいと思います。
 まず、初めに、1節から4節の御言葉をお読みします。「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」。
 使徒ペトロとヨハネは、「祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人々」によって、逮捕されます。逮捕の理由は、何でしょうか。一つは、許可なく、神殿で活動をしていたからです。そして、もう一つは、「主イエス・キリストの復活」を語っていたからであります。
 ここに出てくる「祭司、神殿守衛長」は、全てサドカイ派に所属している人々です。要するに、「サドカイ派の人々」が、使徒ペトロとヨハネを逮捕した、ということであります。
 それでは、「サドカイ派の人々」とは、どういう人々なのでしょうか。彼らは、簡単に言うと、極めて「現実主義」でありました。それと同時に、「エリート主義・権威主義」の人々でもありました。彼らは、旧約聖書の「復活の教え」を否定し、今ある現実、今の地上での権威を重んじる。そういう人々でもあったわけです。それ故に、許可なく、神殿の中で、「キリストの復活」を語ることなど、断固として、許すことは、出来なかった。それ故に、ペトロとヨハネは、逮捕されたのであります。
 この逮捕劇は、一見、この世の権威に対して、教会が、敗北したかのように、見えるかもしれません。しかし、本当に、その通りでしょうか。聖書によると、「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」のだとあります。
 この痛みや苦しみの中においてでさえも、神様は、多くの人々を、教会へと招き入れ、救い出して下さったのであります。いかなる迫害、いかなる苦難の中に置かれていても、神様は、人間の救いのために、教会を通して、働き続けて下さるのであります。
 苦難の中で、迫害の中で、その歩みが、止められてしまうことがある。語ることを止められてしまうことがある。活動を制御されてしまうことがある。人の目から見れば、もうおしまいだと、思わずにはいられない。そのような出来事がある。しかし、それでも、神様は、教会を通して、その救いの御手を、止めることはないのです。神様の救いの御計画が、止まることはないのであります。迫害の中で、それでも、教会が進み続け、成長し続けることが出来たのは、人間が頑張ったからではありません。そこで、神様が、変わることなく、働き続けて下さった。それに他ならないのであります。
 教会が、苦難の中に置かれている。その時にこそ、私達は、決して、止まることなく、救いのために働き続けている。その神様に、目を向け直していく。そのことを、改めて、大切に憶えておきたいものであります。
 さて、5節から12節の御言葉をお読みします。「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によっておおいうことをしたのか』と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。『民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです』」。
 逮捕されたペトロとヨハネは、翌日、ユダヤの最高議会−サンヘドリン−にて、「取り調べ」を受けることになります。因みに、このサンヘドリンこそ、主イエス・キリストの死刑を決定した議会でもあります。いずれにせよ、いつでも、死刑を言い渡されてもおかしくない。そのような、緊迫した状況が、ここから描かれていると言えるかもしれません。あるいは、ペトロたちにとっては、非常に不利な状況が、ここで描かれていると言えるのです。
 彼らは、まず、このように、問いかけます。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と。ここで言われている「ああいうこと」とは、「病人を癒したこと」を指しています。つまり、「誰の権威で、この病人を癒したのか」という問いかけであります。もう少し、かみ砕いて言うならば、「お前たちを動かしているボスは、一体、だれなんだい?」という問いかけでもあると言えるでしょう。
 但し、ここに一点だけ、不可解なことがないでしょうか。そもそも、ペトロとヨハネが、逮捕された理由は何でしょうか。それは、「復活」を教えたことです。しかし、この取り調べでは、「彼らのボスは誰なのか」と問いかけている。つまり、逮捕をした理由と取り調べの内容が、ここにきて食い違っているのです。
この違いは、なぜ生じているのでしょうか。この議会には、大祭司の他に「議員、長老、律法学者」も同席しています。この人たちは、全て、ファリサイ派の人々です。ファリサイ派の人々は、サドカイ派の人々に比べて、「権威主義」ではありません。むしろ、「民衆に近い存在」でもありました。彼らは、むしろ積極的に、民衆に対して「復活の希望」を語り、民衆の支持を得ていたとも言われています。
 つまり、この「復活」という事柄を巡って、ファリサイ派とサドカイ派は、対立をしていたことになるのです。目的は、ペトロとヨハネを投獄することでありますから、それをスムーズに遂行するためには、内輪で揉める訳にはいきません。それ故に、あえて「復活」を話題に出さず、違う話題で話を進めようと考えたのであります。
 しかし、その人間の計画は、神様の救いの計画の前では、太刀打ちすることができませんでした。結果的に、ペトロは、聖霊に満ち溢れて、主イエス・キリストの十字架の死と復活の救いを語ることになるのです。
 ここで大事なことは、いかなる苦難の前に立たされていたとしても、そこで、神様は、ペトロの口を通して、ただ一つの、真の、聖なる救いを語り続けてくださるのだ、ということなのであります。
 今、ペトロたちの前にいるのは、御子を殺した当事者たちであります。キリストという「石」を捨てた当事者たちです。しかし、神様は、あなたがたが捨てた石が、あなたにとって、ただ一つの救いになるのだと語るのです。ペトロの口を通して、語られた神様の御言葉は、彼らを呪い、裁く言葉ではなかったのです。彼らを救いへと招く言葉なのであります。この病人が、癒されたように、あなたがたも癒されるのだと。あなたがたの傷も穢れも、主イエス・キリストによってのみ癒されるのだと。その癒しは、主イエス・キリストによってのみ与えられるのだと。神の敵に対しても、神様は、ただ一つの救いへと招く御言葉を語られるのであります。
 いかなる苦難があろうとも、それが、信仰を揺さぶるような苦難であっても、あるいは、私達を罪へと陥れるような苦難であったとしても、教会を通して、神様は、変わることなく、ただ一つの、真の、聖なる救いを、語り続けて下さるのです。あなたが、今、どこに立たされていたとしても、あなたが、もし、神の敵の側に立たされていたとしても、それでも、主は、変わることない、揺らぐことのない、逸れることない、ただ一つ救いだけを、教会を通して、語り続けてくださり、私達を招き続けてくださる。その幸いが、ここで強く指し示されているのではないでしょうか。この深い恵みの中にあって、私達は、目の前の苦難と、向き合っていくことが、大切なのかもしれません。
 さて、最後に、この取り調べを通して、議会は、あることを知りました。一つは、「彼らがイエスの弟子である」ということ。また、「彼らがノンキャリであること」。このことも知りました。知恵も知識も、権威もない。ましてや、あのイエスの弟子となれば、彼らを、このユダヤの社会から抹殺することは可能です。
 しかし、彼らは、結果的に、ペトロとヨハネを釈放します。なぜでしょうか。そこに救われた人が、共にいたからです。これも大切なことです。
 教会は、ただ救いを語るだけでは、立ち続けることはできなのです。大事なことは、そこに救われた人がいる、ということです。実際に、キリストの名によって救われた。そのあなたが、教会と共にいるということ。それこそが、実は、「キリストの救い」を、「真実」なものとする。その動かぬ証拠となるのです。
この人は、議会で、何かをしたわけではありません。ただ、そこにいるのです。救われたものとして、教会に連なっているだけなのです。しかし、それで良いのです。そのことを通してもまた、「主イエス・キリストの救い」が、誰にも言い返せないほどに、真実であること。そのことを証明することができるのであります。このことも大切なこととして覚えておきたいものであります。
 さて、議会のメンバーは、使徒たちに、「これ以上、語るな」と脅します。しかし、ペトロたちは、それを断固として拒否します。なぜでしょうか。
 彼らは、もう既に、地上のものではなく、神様のものとされているからです。地上の権威ではなく、天上の権威に従っているからであります。だからもう、聖霊が導かれるままに、神様が示されるままに、語り続けることを、辞めることはないのです。かつて、罪と死とに囚われていた彼らは、今、復活の主と出会うことで、主に囚われた、主の僕としての人生を歩み出しているのであります。だからこそ、主の僕として与えられた務めを、止めることはできないのです。このように、教会は、苦難の中でも、ただ一つの救いに堅くとどまり、そして、神の民として、荒れ野のような世界を、更に先へと、歩み続けることになるのです。
感染症の影響を受けて、現代の教会にも苦難が、沢山訪れました。「礼拝をするな」「賛美をするな」というのは、ある意味で、迫害であると言えるかもしれません。
 しかし、私達は、苦難の中でも、教会を通して、変わることない、ただ一つの救いを味わうことができます。その救いを知ることができます。その救いを思い起こすことができるのです。そして、私達は、改めて、この私を本当に支配しているのは、ただキリストの救いだけであることを、再び知ることができる。神様も又、変わることなく、救いの御業を止めることはない。語り続けるのです。
 大事なことは、このキリストによってのみ、与えられる、この一つの救いに目を向け直し、その救いに留まり続けることではないでしょうか。特別なことができなくても良いのです。優れたことが出来なくても良いのです。キリストの救いに留まり続けるだけでよいのです。その時、私達自身もまた、常に、喜びを知って生きることができる。いや、それだけではなく、その姿こそが、この世に対して、キリストの救いを証しする、大きな力となるのではないでしょうか。その幸いを、ここから改めて示されているのです。

〇祈り
天の神様、新しい御言葉の恵みに、心から感謝を申し上げます。私達の信仰を脅かすほどの苦難は、私達の身近にもあります。しかし、主よ、どうか、この苦難の中にある時にこそ、あなたがた聖霊を送ってくださり、語るべき言葉を、私達が聞くべき言葉を与えてください。そして、決して、変わることない、ただ一つの救いを示し続けて下さり、私達を立ち帰るものへと導いてください。どうか、あなたの救いの働きを止めることなく、益々、力強く、あなたが語り続けてください。そして、そのことを通して、私達もまた、日々、喜びと希望を抱きつつ、歩むものとしてください。そして、この私達の存在もまた、あなたの御業のために、豊かに用いてくださいますように、心よりお願い申し上げます。全てのことを感謝し、委ねて、このお祈りを、主イエス・キリストの御名によって、おささげいたします。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:36| 日記