2021年09月05日

2021年9月5日 主日礼拝説教音声「命への導き手」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美申し上げます!!!

本日(9月5日)の礼拝説教音声を配信します!!

よかったらお聴きください(o^―^o)ニコ
↓↓
https://open.spotify.com/episode/3ZgNehNBGo7CVei2BbtZBs?si=7U1S4WKQRL-3qVMCi5-HJQ&dl_branch=1

posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:13| 日記

2021年09月03日

2021年9月12日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書7章31節〜37節
説教:「耳が聞こえず、下の回らない人をいやす」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録4章1節〜22節
説教:「キリストによってのみ」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を実施しています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:30| 日記

2021年9月5日 主日礼拝説教「命への導き手」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録3章11節〜26節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録3章11節から26節の御言葉です。始めに、11節から16節の御言葉をお読みします。「さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は非常に驚いて、『ソロモン回廊』と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペトロは、民衆に言った。『イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。あながたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです』」。
 先週、私達は、「足の不自由な人」が癒される、という御言葉に聴きました。今朝の御言葉は、その奇跡物語の続きです。足を癒された人は、その後、どうなったのでしょうか。彼は、ペトロとヨハネについていきます。そして、その様子をみた、民衆は、皆、驚いた。そのような様子から、今朝の御言葉が始まっているのです。
 それでは、なぜ、民衆は、驚いたのでしょうか。「足の不自由であった人」が、今、目の前で、歩いているから。だから驚いたのです。つまり、信じられない、その奇跡に驚いたのであります。
 しかし、ペトロは、このように言いました。「わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」と。ここで言われている「力」とか「信心」という言葉。これは、「魔術的な力や信仰」を表しています。
 つまり、民衆たちは、そのような、間違った視点で、ペトロたちを見つめていたわけであります。つまり、何が言いたいのでしょうか。それは、「奇跡」を見た、あるいは、知った、もしくは、経験した、それだけでは、本当の信仰、正しい信仰は、生み出されないのだ、ということ。そのことが、ここから強く、まず、表されているのではないでしょうか。
 さて、民衆に対して、ペトロは、この「力」が、一体、どこから来たのか。そのことについて、ここで、語り始めています。それでは、この力は、一体、どこから来たのでしょうか。
16節には、次のように記されています。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」。
 主イエス・キリストの名が、彼を強めたのです。主イエス・キリストの名、それは、キリストの存在そのものであります。主イエス・キリストご自身が、そこで生きて働かれた。だから、救われたのだ、ということなのであります。ペトロやヨハネによってではないのです。教会を通して、キリストが働いてくださった。そこに救いがあるのです。
 更に申し上げると、ここでは、主イエス・キリストを信じる信仰が、この人を救ったのだとも言われています。その信仰は、どこから来るのでしょうか。主イエス・キリストによって(主イエス・キリストによる信仰)、この人の内に来るのであります。
 つまり、救いとは、キリストによって、与えられた信仰によって、キリストご自身の働きから得られる恵みなのであります。
 それでは、ここで言われている「救い」とは、そもそも何でしょうか。それは、「完全に癒されること」です。ただ、癒されることではありません。完全な癒しです。ただ、癒されるのであれば、その瞬間だけの癒しであり、それは、不完全な癒しです。癒されても、いつかは死んでいく。そうであるならば、それは、不完全な癒しであります。死を越えていく癒しこそが、完全な癒しであります。「完全にされる」とは、そこまで癒されることなのです。
 この人は、今、キリストによって与えられた、キリストを信じる信仰によって、罪や死から解放され、完全に癒されたのであります。ここにこそ、教会を通して、与えられる救いがあります。そして、それは、今まさに、私達に対しても与えられている。真の癒しなのであります。
 ここで言われていることは、それだけではありません。もし、この人を救ったのが、主イエス・キリストそのものであるとするならば、それは、どういうことを意味しているのでしょうか。
 それは、主イエス・キリストは、「今も生きている」ということであります。死んだ、過去の人は、この人を救うことはできません。ましてや、信仰を与えることもできません。それ故に、私達もまた、完全に癒され、救われることはないでありましょう。もし、体の癒しが起きたとしても、それでは、単なる魔術的な力であるとしか信じられないかもしれません。
 しかし、主イエス・キリストは、今も生きている。だからこそ、この人に対しても、私達に対しても、信仰を与えることができ、完全な仕方で、この人を救うこと・癒すことができるのであります。キリストは、死んでいない。今も、生きて、働いているのです。
 それでは、主は何のために、今も生きて働かれるのでしょうか。それを、改めて知る為に、まず、あの十字架の出来事が、何であるか。少し、遠回りかもしれませんが、そこからお話したいと思います。
確かに、主イエス・キリストは、ユダヤ人の手によって、十字架で死にました。墓にも葬られました。ピラトは、主イエス・キリストを釈放しようとした。しかし、ユダヤの人々は、それを拒んだのであります。そこには、神様の御心を拒み続ける、ユダヤ人の罪があると言えるかもしれません。
 しかし、その罪の出来事すらも、神様の救いの御計画の中に置かれているのです。そのことをペトロは、13節の部分で、深く語っています。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」。
 ペトロは、ユダヤ人が、信じてきた神様が、今や、僕イエスに栄光を与えられたのだ、と語ります。あなたがたが信じ続けて来た神様が、僕イエスに栄光を与えているのだと言うのです。あなたがたが十字架に架けた、あのイエスは、神様に呪われるべき存在ではないのだ。神様の栄光を受けた存在なのだ、ということです。あなたがたが苦しめた、あのイエスは、神様の光に包まれた聖なる御方なのだ、ということなのであります。つまり、救い主の苦難と、キリストの栄光は、実は、切り離せないものなのだ、ということが、ここから分かるのです。
 ここに出てくる「僕」という言葉は、イザヤ書53章の「苦難の僕」を意識した。そのような言葉であると言えます。「苦難の僕」とは、「救い主」のことです。この「救い主」は、苦難を受ける。傷を負う。しかし、その傷によって、イスラエルの民が癒される。それが、イザヤ書の預言でありました。
この預言の通り、主イエス・キリストは、この世に来られた。傷を負われた。つまり、ユダヤの人々に傷を負わされることによって、この預言が、実現したのであります。言い方を変えて申し上げるならば、ユダヤ人による罪の出来事が、今や、預言の成就、あるいは、救いの出来事へと変えられていったのであります。あなたがたは、知らずに、救い主を傷つけてしまったかもしれない。しかし、その傷こそが、救い主の負うべき傷であり、あなたがたの癒しのための身代わりの傷なのだ、ということ。そのことを、ここから示されているのであります。
 そして、その主イエス・キリストは、今、復活している。今も生きて働いている。それはなぜか。ユダヤ人を、イスラエル人を救うために他ならない。神の民を、真の神の民とするために、彼らの罪を赦し、新たに生かす。そのために、キリストは、今も生きて、働いているのだ、ということなのです。あの負わされた傷や死が、あなたのための出来事だったのだ、ということ。そのことを、彼らの内に、確かとするために、主は、今も生きて働いてくださるのです。
 だから、ユダヤ人にとって、大切なことは、何でしょうか。それが17節から19節の御言葉です。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」。
 今、ユダヤ人のすべきことは、何でしょうか。彼らにとって、大事なことは何でしょうか。「悔い改める」ことであります。「悔い改める」ことは、後悔することではありません。後悔することは、立ち止まることです。
 しかし、「悔い改め」は違います。方向を変えて、前に進むことです。その先には、何があるのでしょうか。本当の救いです。本当の希望です。今までの自分たちの歩みの先には、何もない。そのことを知り、真の救いや希望や喜びがある。その方向へと転換していくことであります。
 確かに、ユダヤ人は、救い主を殺してしまったのです。しかし、その罪は、既に、神様の救いの御計画の中にあるのです。そして、その救い主は、今、この人を癒したように、あなたがたのことも癒そうとしている。だから、悔い改めて欲しい。真の神の民として、新たに生き直してほしい。ここに、初代教会の大きな願いがあった。そのように言えるかもしれません。
 そもそも、イスラエルとは、何でしょうか。それは、神様によって選ばれた、特別な民であります。改めて、22節から26節の御言葉を読んでみます。「モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離され、その祝福にあずからせるためでした」。
 まず、モーセが出てきます。モーセとは、誰でしょうか。イスラエルの中で、最も偉大な指導者であります。モーセは、祭司的な役割も持ちましたが、神と人とをつなぐ預言者でもありました。
 そのモーセが、「新しい預言者の存在」を預言しているのです。いつか必ず、神と人とをつなぐ、偉大な預言者が現れるのだと。エジプトから救い出すような預言者が現れるのだと。そのように、モーセは、預言したのであります。それは、一体誰でしょうか。
 それが、主イエス・キリストなのであります。キリストを通して、神様が御自身を顕され、キリストを通して、神と人が結ばれ、キリストを通して、罪から救い出されるのであります。
 モーセだけではありません。イスラエルの歴史の中で、数々の預言者たちが、救い主を預言しています。イスラエルの人々は、この希望や喜びを知っているのです。いや、彼らは、その希望を引き継いでいる、彼らの子孫でもあるのです。だから、彼らは、神様の目に特別な存在なのです。
 更に、遡れば、アブラハムにおいても、すでに、救い主の預言がなされていました。アブラハムとは、ユダヤ人にとって、「信仰の父祖」であります。正に、イスラエルの原点であると言えます。
 神様は、アブラハムに、対して、こう言いました。「地上のすべての民族は、あなたから生まれるものによって祝福を受ける」と。地上のすべての民族が、あなたから生まれる者によって祝福を受ける。アブラハムが、祝福をするのではないのです。「アブラハムから生まれる者から祝福が与えられる」のです。それは、誰のことでしょうか。
 それが、救い主であります。救い主は、アブラハムの子孫なのです。その救い主から神様の祝福が、あふれ出るのです。ユダヤの人々は、その大きな恵みを、誰よりも早く、誰よりも近くで、味わうことが許された。そのような民なのであります。正に、神の民であります。正に、神によって選ばれた民であります。ユダヤの人々は、この祝福を、一番近くで味わうことが許され、その祝福の中で、神の民として、神の国を受け継ぐべき存在なのであります。
 だからこそ、救われて欲しいのです。だからこそ、悔い改めの実を結んで欲しいのであります。ここに、初代教会の切なる願いがあったのであります。
 しかし、結果的に、どうなってしまったのでしょうか。ユダヤの人々は、主を拒んだのです。いや、これからキリスト教会も拒むことになるのです。この後、ペトロとヨハネは、逮捕されます。そして、投獄されてしまうのであります。
 それでは、神様の救いの御計画は、ここで、むなしく終わってしまうのでしょうか。それは違います。この祝福は、今や、世界の人々、つまり、私達に向かってくることになるのです。
 今までは、ユダヤ人としての血縁。それだけが、神の民としての証しでありました。しかし、今や、ユダヤ人だけではなく、悔い改めるすべての民が、真の神の民、神の子どもとして、祝福を受け、神の国の相続人となるのです。
 あのキリストの救いは、今や、全ての人の救いになるのです。あのキリストの死と復活は、今や私達を罪と死から解放し、新しい命を与えることになるのです。キリストは、今も生きて、私達にも信仰を与え、新しい命を与え、神の民として、神様の目に相応しいものとしてくださるのであります。神様の救いの歴史は、今、全世界の人々に救いを約束することで、前進していくことになるのであります。
 そして、その私達には、今も、希望が与えられています。それが、20節の御言葉です。「こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています」。
 今、この時代は、混沌とした時代であるかもしれません。様々な苦しみや悲しみ、不安や恐れに支配された時代であると言えるかもしれません。
 しかし、必ず、「慰めの時」がくるのです。この慰めの時は、キリストと共に来るのです。それが、「世の終わりの時」です。「世の終わり」は、恐ろしいことではありません。それは「慰めの時」であり、「息をつく時」でもあります。私達は、その恵みや希望を感じながら、今を生きることができるのであります。
 かつて、キリストを約束された御方は、本当に、キリストをこの世に与えてくださいました。かつて、キリストを通して救いを約束された御方は、本当に、キリストによって、その救いを成し遂げてくださいました。そうであるならば、神様が、この約束を忘れるはずはありません。
 私達にとって、大事なことは、何でしょうか。それは、新しい神の民として生きる。その責任を果たすことです。それは、何でしょうか。日々、悔い改めて生きることです。そして、主を待ち望むことであります。日々、キリストの救いの恵みに心を向けて、主が再び来る日を待ち望む。そこに、新しい民とされ、永遠に、神と共に生きることが許された、私達の姿があるのです。
 主イエス・キリストは、今も生きています。皆さんに信仰が与えられているのが、何よりもの証しでありましょう。そして、そのキリストは、必ず、目に見える仕方で、再び来られます。その日を待ち望みつつ、悔い改めの心をもって、共に励まし合いながら、歩みを進めて参りたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 20:25| 日記