2021年10月03日

2021年10月3日 主日礼拝説教音声「分かち合う神の民」須賀 工牧師

ハレルヤ!主の御名を賛美します!

本日の礼拝説教音声を配信します!良かったら、お聴きください(o^―^o)ニコ

https://open.spotify.com/episode/7mgqatCmJYYpvwsQ4yxvxV?si=c911dfd59a9644f0
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:22| 日記

2021年10月10日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「山上で主の姿が変わる」
聖書:マルコによる福音書9章2節〜13節

〇主日礼拝説教(特別伝道礼拝)10時30分〜
説教:「今、あなたがここにいるのは」須賀 工牧師
聖書:ヨハネによる福音書3章16節〜21節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
YouTubeでのライブ配信もしています(^▽^)/
posted by 日本基督教団 石山教会 at 01:50| 日記

2021年10月3日 主日礼拝説教「分かち合う神の民」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録4章32節〜5章11節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録4章32節から5章11節の御言葉であります。この世界に、教会が誕生しました。約2000年前のお話です。そして、いよいよ、最初の教会が、動き始めていくことになります。今朝の御言葉は、その誕生したばかりの教会が、あるいは、当時の生まれたばかりのクリスチャンたちが、具体的に、どのような生活をしていたのか。そのことについて、共に、聞いて参りたいと思います。
 はじめに、32節から33節の御言葉を、お読みします。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」。
 何よりもまず、教会は、「一つ」であること。そのことを大切にしていました。元々、教会には、色々な人がいます。人それぞれに個性があります。生まれた環境も違えば、育った環境も違います。社会的立場や価値観もまた違うわけです。バルナバのような人もいれば、そうでない人もいるのです。しかし、教会は、それでも「一つ」であることを、大切にしました。
 教会が、「一つである」ということは、どういうことでしょうか。それは、例えて、申し上げるならば、一人ひとりが、手や足や顔となって、一つの体を形成している、ということであります。
 手が足を裁くことはできません。目が口を妬むことはできません。それと同様に、誰かが、誰かを裁くことも、妬むことも、比べることも、軽蔑することもありません。あるいは、自分の利益だけを追求することもなければ、自分の思いや心、そして、持ち物にすら、固執することもないわけであります。このように、教会は、まるで「一つの体」のようにして、共に生きる。そのことを、まず、大切にしていたのであります。
 それでは、なぜ、彼らは、そのように、生きることが出来たのでしょうか。それは、たとえ、違う立場であろうとも、ただ一つの救いを、共に分かち合い、共に、味わうことが出来たからであります。富める者も、貧しい者も、強い者も弱いものも、ただ一つの救いを、共に分かち合い、共に味わうことができた。それが、彼らを「一つの体」としていく力となったわけであります。
 それでは、その救いとは、どういう救いなのでしょうか。それが、「主イエス・キリストの十字架の死と復活」であります。主イエス・キリストが、この私のために、そして、あなたのためにも、命を捨ててくださった。主イエス・キリストが、この私のために、そして、あなたのためにも、復活してくださった。主イエス・キリストが、この私を、そして、あなたを、主のものとして受け止めて下さった。
 このただ一つの救いの恵みを、そこに連なる全ての人が、立場の違いを越えて、共に分かち合うことが出来た。あの人も、この人も、全ての人が、キリストの御前で、共に、自らの罪や弱さを知り、同時に、そのキリストを通して、共に救われている。その幸いを、立場を越えて、一緒に、味わうことが出来たわけであります。その深い恵みや幸いの中で、彼らは、一つの家族、一つの体とされていったのであります。
 あなたのことを救った御方は、あの人のことも救ったのです。あなたのことを、命がけで愛してくださった御方は、あなたの隣にいる人も愛しぬいてくださったのです。大切なことは、ただ一つの救いを、共に味わい、噛み締めながら、共に、一つの家族として、一つの体として、生きていく。そのことなのであります。
 逆に言うならば、もし、教会が、一つになれない。そういう場合があるとするならば、それは、キリストの救いを共に味わうことを忘れ、自分の思いや心、自分の持っているものに、自らを固執させてしまっているからなのかもしれません。
 大切なことは、自分の思いや心、自分の持ち物を、一旦、置いて、キリストが、私達に何をしてくださったのか、そのことに、目を向け直すことであります。そして、そのキリストの救いに向かって、共に心を向けていきながら、その恵みの深さや豊かさを、共に味わう。その所から、教会の歩みを、初めて行くことが大切なのであります。
 さて、そのことを踏まえた上で、34節から37節の御言葉を、共に聴いて参りましょう。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ―「慰めの子」という意味−と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」。
 誕生したばかりの教会における、具体的な生活が、ここに記されています。一言で、申し上げるならば、彼らは、「持ち物・財産を共有した」ということです。自分たちの財産を、教会にささげ、教会から必要に応じた分配を頂く、という新しい生き方が、行われていたわけであります。
 しかし、これは、決して、「自分の財産や持ち物を放棄しなさい」という教えではありません。あるいは、共産主義的な制度が、教会の中に、敷かれていた、ということでもありません。あくまでも、自分の持ち物は、自分の持ち物であることは変わりません。それが、否定されているわけではないのです。
しかし、それだけでは、新しい生活には、ならないでありましょう。今までと同じことです。今までの生活が続くだけです。
 そこには、確かに新しい生き方があるのです。それは何か。それは、「自分の持ち物を自分のものだ」と主張する。そのことから離れていく生活です。あるいは、自分だけが、良ければ、それで良いのだ、という自分中心の生き方から解放される生活です。そして、自分のものを、兄弟姉妹のために用いる。その心の豊かさをもった生活であります。そこに、今までにない、復活の主と共に生きる、救いを共に味わう、新しい生活が、生まれてきたのであります。
 勿論、この新しい生き方は、教会のルールではありません。つまり、全く、自発的な思いから、生まれた、生き方なのであります。その意味で、彼らは、義務や権利からも縛られることなく、他人からも強制されることもなければ、自分自身にも縛られることもなく、真の自由な意志を持って、共に生きる。そのことを大切にしたのであります。
 そして、何よりも、彼らは、自分の人生そのものを、ただ、自分だけのものとするのではなく、神様のために、そして、兄弟姉妹のために用いる。そのことを、喜びとすることができたのであります。
 それでは、その自発的な思いは、どのようにして生まれてきたのでありましょうか。それは、キリストが、この私のために、命を捨てて下さった。あのキリストが、この私のために、全てを捨ててくださった。この人生は、この命は、キリストの救いがなければ、滅びるだけだった。しかし、そのキリストが、この私の命を救ってくださった。今、私の命は、私のものではない。主のものでしかない。あの主が、この私のために、全てを捧げてくださったように、私も又、主と兄弟姉妹のために生きたい。最初に、共に確認した、あの救いを共に味わう中でこそ、この心は与えられていくものなのであります。
 そのような、新しい生き方の実例として、今朝の御言葉には、「バルナバ」という人物の名前が上げられています。彼は、レビ族の出身です。レビ族は、ユダヤ教の祭司の家系でありました。正に、エリートの家庭に生まれ、将来が、保証された人物でありました。本来、レビ族は、財産を持たず、献金や捧げもので生活をする人々でありましたが、当時、一部のレビ族は、人々から不動産や土地を買い取って、自分のものにしていたとも言われています。
 このバルナバが、キリストと出会ったのであります。言うならば、主イエス・キリストと敵対しているような家系の人であるわけです。しかし、主イエス・キリストは、このバルナバの手を掴んで、離さなかったのであります。ここにも、既に、深い慰めがあると言えるかもしれません。
 恐らく、バルナバは、今まで、自分の持っているものを、自分のものとして、大切にしていただろうと思います。自分の財産、自分のレビ族としてのプライド、自分のエリート意識、自分の将来。全てが、自分のものでありました。もしかすると、それを失うことを恐れながら、生きていたかもしれません。
しかし、教会を通して、キリストと出会うことができた。そこで、キリストの救いを知った。そこで、自分の持っているものは、自分の救いにならないことを知った。ただ、キリストしか、この私の救いのためにならないことを知った。「キリストしか勝たん」ということを知った。彼を、突き動かしたものがあるとするならば、この私が、キリストのものとされている。その深い喜び。ただそれだけであったのかもしれません。
 この後、このバルナバは、使徒パウロと出会います。そして、パウロを、教会に紹介します。そして、そこから、教会は、世界に向けて、その翼を広げることになるのです。正に、バルナバは、自分のために、命を捨ててくださった。その御方のために、自らの命を、主に委ね、主に捧げ、主の足もとに置いて、新たに生きるもとされたのであります。
 さて、今朝の御言葉は、最後に、「アナニアとサフィラ」の出来事について、記しています。一度、読んだら、忘れられない、そのような、聖書のお話の一つとも言えるかもしれません。
簡単に申し上げると、何が起きたのでしょうか。簡単に言うと、献金をごまかしたら、死んでしまった、というお話です。
 当時、この出来事に触れた人々が、恐れたように、今の私達も、恐れをもって、この話を読むわけでありますが、大切なことは、この出来事を、通して、一体、何が、今、語られているのか、ということなのであります。
 この夫婦の問題は、なんでしょうか。彼らは、教会のために、土地を売りました。そして、そのお金の一部を、自分たちの懐にいれました。そして、あたかも、全てをささげているかのようにふるまい、嘘をつき、神様に、献金をお捧げしたのであります。
 つまり、彼らにとって、重要なことは、嘘をついてでも、自分たちの信仰深い姿を、みんなに見てもらいたい。そのことだったのであります。もし、そうでなければ、嘘をつく必要はなかったのです。ありのままを見せることができたのであります。嘘をついてでも、信仰深い姿を見て欲しい。人々から認められたい、称賛されたい、褒められたい。そういう心が、何よりも先にきてしまっていた、ということなのであります。
 彼らは、自分に与えられた信仰の大きさを、他の人と比べてしまったのではないでしょうか。あの人は、これだけ捧げている。バルナバは、これだけ捧げた。自分たちには、全てを捧げる勇気はない。自分のものを失うことが怖い。でも、信仰が弱いと思われるのも嫌だ。自分たちの信仰深さも認めて欲しい。だけど、自分の全てを失いたくない。そういう複雑な感情が、彼らに嘘をつかせてしまったのではないでしょうか。自分のものを全て失うことなく、他人に認められることを願った。そのためには、嘘をつく必要があったのだ、とも言えるかもしれません。
 ペトロは、ここで言うのです。「売らなかったら、自分のもののままだったでしょ。」「売ったとしても、それをどう捧げるかは自由でしょ。」「問題は、あたかも、自分が全てを捧げているかのように演技をし、信仰深く振舞いながら、神様の前で、嘘をついたことではないか」と。
 そもそも、沢山、捧げたから救われるわけではないのです。信仰深さを認められたから救われるわけではないのです。キリストによって、救われたからこそ、新しい生き方が生まれてくるのであります。キリストが、この惨めな私のために命を捨ててくださった。キリストが、死んで滅びるだけの私に、命を与えて下さった。その深い恵みの中で、自らの人生を神と隣人のために捧げる。それが、復活の主と共に生きる、新しい生活なわけであります。捧げるものの大小で、救いの大小は変わらないのです。弱きものも、強きものも、富める者も貧しいものも、ただ一つの救いを、共に味わう。捧げる力がなくても、自分は、愛されているのだ。神様に認められているのだ。その救いを、共に味わうところから、教会の新しい生活が始まるのであります。だから、信仰生活を、誰かと比べる必要はないのです。アナニアとサフィラが、忘れていたのは、このただ一つの救いの意味だったのかもしれません。
 この出来事は、本当に悲しいことです。しかし、そのことを通して、今、私達に、向けられたメッセージがあるのではないでしょうか。それは、自分の無力さ、弱さを隠す必要はないのだ、ということです。
信仰者だから、こうでなければいけない。あの人が、こうしたから、自分もこうしなければいけない。他の人から褒められるような、そんな人にならなければいけない。そうやって、自分のもっている弱さを隠し、偽りの自分を演じ、信仰深いという仮面をかぶって生きる。
 もしかしたら、周りの信仰者に、周りの仲間に、失望されることを恐れているのかもしれません。本当は、自分の不完全さを知っている。でも、他の人に認めてもらいたい。そういう気持ちは、私達の内にも、起り得ることであるかもしれません。
 しかし、神様は、その本性を見ておられるわけであります。その弱さも含めた、あなたを見ているのです。そして、それでいいのです。その素直な姿で良いのです。出来なくてもいいのです。一部でもいいのです。大事なことは、あなたがあなたらしく、神様の前ので、素直に生き、全てを委ねていきられる、ということなのです。
 皆さんは、信仰者として、強く生きることに、かっこよく生きることに、一生懸命になっていないでしょうか。それも大事なことです。しかし、自分には出来ないこともあることを、自分の不完全さを知りつつも、それを隠し、偽りの自分を演じ、まるで信仰深い人を演じていないでしょうか。本当は、弱くて、出来ないこともあって、ボロボロであることを、自分はよく知っている。自分は、他の人のようにはできない。そのことも良く知っている。だから、本当の自分を知られるのを恐れ、それを隠してしまう。そういうことはないでしょうか。
 でも、忘れてはいけません。神様は失望しないのです。弱さも知っているからです。無力なことも知っているからです。そのことを知った上で、あなたは、主のものとされているのであります。
 だから、大事なことは、あなたが、どれだけ弱く、無力で、不完全であったとしても、そのあなたの為に、御子は命を捨て、あなたの命を救ったのだ、ということ。あの最初の原点を思い起こすことであります。出来ない自分を、弱い自分を、神様は愛して下さらないのではないか。仲間は、見捨ててしまうのではないか。そう思わなくていい。そのあなたを、主は、御自身の家族に加えられたのです。そして、共に、恵み味わい、分かち合う神の民の一人としてくださったのであります。
 大事なことは、あなたのために命を捨てられたお方が、あなたに新しい命を与えてくださるということ。その幸いの原点を心に留めて、この私の人生を、主の足もとに置き、主の御手の中で、共に、一つの救いを味わい、共に生きるということです。その自分がたとえ、特別なことができなくても、あなたがここに、私達と共に招かれ、主のものとして、共に生きている。ただ、それだけが、教会全ての大きな喜びであり、それこそが、キリストの証しになるのです。伝道の働きとして用いられていくのです。その幸いを改めて、心に留めつつ、新しい一週間を歩み出したいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 01:44| 日記