2021年10月09日

2021年10月17日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書9章14節〜29節
説教:「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録5章12節〜42節
説教:「神から出たもの」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:18| 日記

2021年10月10日 特別伝道主日礼拝説教「今、あなたがここにいるのは」須賀 工牧師

聖書:ヨハネによる福音書3章16節〜21節

 キリスト教とは、ひと言で、言うならば、どのような、宗教でしょうか。恐らく、色々な言い方があるかもしれません。ただ、あえて、私の口から、言えることがあるならば、キリスト教とは、「イエスをキリストと信じる宗教」です。
 そもそも「キリスト」とは、何でしょうか。これは、決して、イエスの「苗字」ではありません。「キリスト」とは、「救い主」という意味です。つまり、「イエスを救い主と信じる宗教」、これが「キリスト教」です。
 教会は、主イエスが、「救い主」であると信じています。それに対して、この世には、沢山の「救い」があるかもしれません。家族、友人、恋人が、救いになる人もいるでしょう。あるいは、お金や仕事が、救いになる人もいるかもしれません。あるいは、他の宗教や信心が、救いになる人もいるだろうと思います。
私達は、その全てが、この世にあって、人の心を救い、癒していることを、否定することはありません。但し、そのような、世の中にあってもなお、「主イエスが、私の救い主」と信じる。これが「キリスト教」であります。
 主イエスが、私達の「救い主である」ということは、どういう意味でしょうか。これは、違う視点で言うならば、私達が「救い」を必要としている、ということでもあります。少し言い方を変えて申し上げるならば、私達人間が、「救われなければいけない状態」なのだ、ということでもあります。もし、私達に「救い」が、必要でないとするならば、わざわざ、主イエスが、救い主として、この世に来る必要もありません。
 しかし、実際に、神の御子である主イエスは、救い主として、この歴史の中に、来て下さったわけです。それは、「私達人間に『救い』が必要」であるからなのであります。
 それでは、私達人間に必要な「救い」とは、何でしょうか。それは、今朝の御言葉に、従って言うならば「滅びないこと」であります。あるいは「死の縄目から解放されること」とも言えるかもしれません。
私達人間は、どれだけ、沢山のものを持っていようと、いつかは、死を迎えます。生まれた瞬間に、脳細胞が死ぬように、生まれながらにして、「死」に向かっていく。それが、私達人間の現実です。そして、私達人間は、私達の力では、その現実に、打ち勝つことはできません。どれだけ強い人間であろうと、どれだけ富んでいる人間であろうと、死を前にして、私達は、必ず敗北し、人生は、儚く中断してしまうものなのであります。
 しかし、神様は、私達人間が、ただただ、滅んでしまうことを望んではいないのです。私達が、滅んでいくことを望まない神様。それが、教会の信じている神様なのであります。どのような状況に立たされていても、どのような立場に置かれていても、それでも、私達人間が、ただただ、滅んで、終わっていくことを、望まない。あなたが滅びから解き放たれて生きることを望まれる。それが、教会の信じている神様なのであります。
 私は、高校3年間、アメリカに留学をしていました。留学中、何度か、説明がつかないほどの孤立感、孤独感のようなものを、体験したことがあります。ある日、知り合いと、冬のシカゴに遊びに行きました。私は、知り合いから離れて、物思いにふけりながら、公園のベンチに横になっていました。すると、この私に、優しく段ボールをかけてくれる人がいました。その人は、ホームレスのおじさんでした。冬の公園で寝ていると死んでしまう。死んではいけない。そのような気持ちで、おじさんの持っている大切な段ボールを、私に、優しくかけてくれたのです。心がボロボロになった自分の命を、助けてくれたのは、恐らく、私よりもボロボロだったホームレスのおじさんだったのではないでしょうか。
 きれいな服を着ている人も、買い物をしている人も、遊んでいる人も、誰一人、この私に目を留めることはありませんでした。しかし、このおじさんだけは、私の内にある何かを感じ取ってくれた。そして、大切なものを、私に与えてくれた。死んではいけないのだと思ってくれた。言葉では説明できないほどの孤立感の中で、それでも、この自分が生きている。いや、この自分が、生きていることを望んでくれる人が、目の前にいた。もしかすると、人は、それだけでも、希望を抱きつつ、生きられるのかもしれません。今でも、この経験は、忘れられない思い出であります。
 神様もまた、私達のことを、誰よりも、よくご存じであります。私達に命を与えてくださった御方だからです。私達の強い所も、そして、弱い所も、私達の不完全な部分も、私達が一生懸命に生きていることも、あるいは、私達の心の痛みも、私達よりも、私達のことをよくご存じであります。
 そして、その上で、それでも、神様は、あなたが滅びることを望まないのです。あなたが生きることを望んでいて下さるのであります。
 その「しるし」として、神様が、私達に、与えてくださったものがあります。それが、御子イエス・キリストなのであります。私達が滅んでいくことを望まない。その神様は、愛する、大切な御子イエス・キリストを、この世に与えてくださったのであります。
 私達が、神様のために、何かをしたから、救いを受けるのではありません。神様が、私達を御心に留めてくださり、神様が、私達の滅びを、望まないでいてくださった。ただ、そのためだけに、神様が、大切なもの、愛する御子を、この世に与えてくださったのであります。それは、今朝の御言葉から言うならば、神様が、世を愛して下さったからであります。
 今朝の御言葉にも「愛」という言葉が用いられています。この「愛」という言葉は、ギリシャ語で「アガペー」という言葉を使います。この「アガペー」の本当の意味は、「価値を生み出す」という意味です。
 「価値を生み出す」という意味でありますから、元々は、「価値のないもの」であったと言えるかもしれません。本来ならば、ただただ「滅びゆく」だけの私達であったかもしれない。ただただ、死んでいくだけの存在であったかもしれません。
しかし、今や、御子イエス・キリストを通して、私達は、神様の目に価値あるものとして受け入れられ、そして、逃れることの出来なかった滅びから救われる道を開いていただいたのであります。
 この御子イエス・キリストは、私達のために、何をして下さったのでしょうか。それは、私達の持っている「滅びの要素」「滅びの原因」、例えば、神様を信じない罪、自分中心の心、自分の中にある心の汚れなど、神様の目には、救いようのない、幾千万の滅びの要素を、主イエス・キリストが、全て背負い、身代わりとなって、十字架で死んでいかれたのであります。
 本来ならば、私達が、あの十字架で裁かれ、見捨てられ、そして、呪われて、滅びていくはずでありました。しかし、その滅びの要素を全て、神は、御子に背負わせたのであります。それほどまでに、神様は、私達の滅びを望んでおられないのです。この主イエス・キリストの身代わりの死によって、私達は、神様の目に、清く、美しく、神様の目に、価値ある相応しいものへと、新たに、造りかえられていくことになるのであります。
 先日、アーサー・ホーランドという、牧師に会いました。70歳という年齢で、十字架を背負いながら、日本の各地を回っている牧師です。今回は、琵琶湖を一周されるとのことで、この機会に家族で会いに行きました。アーサー牧師は、その場で、娘に向けた、短いメッセージをしてくださいました。そして、滋賀の教会のために、石山教会のためにお祈りを捧げてくださいました。そして、最後に、私にも十字架を背負わしてくださいました。
 「背負ってみて、どう思う?」と聞かれました。私は「十字架は重いですね。これが、私の罪の重さですね。同時に、この私に与えられた、救いの重さでもありますね」と応えました。最後に、先生は、こう言われました。「そうだね。罪の重さを知ることは、それだけ愛の深さを知ることだね」と。
 神様は、あなたが、滅びることを望んでおられません。そのために、御子の命を、与えてくださいました。本来は、滅びていくだけの存在であったかもしれません。しかし、今や、私達は、御子の命によって、滅びから救われているのです。このように、今、私達は、新たに生きるものとされているのであります。
 しかし、主イエス・キリストは、ただ、十字架に架けられて、死んだわけではありません。十字架に架けられた御子は、三日目に、復活させられたわけであります。そして、天に昇られました。つまり、主イエス・キリストは、滅びや死に、打ち勝たれた御方でもあるわけです。
 歴史上のいかなる偉人も、最後には、墓に納められます。しかし、主イエス・キリストには、お墓はありません。主イエス・キリストは、死と滅びに勝利したからです。そして、今や、全ての支配者となり、聖霊を通して、今も私達と共に生きていてくださるのです。
 この主イエスを、私の救い主と信じ、このキリストと一つに結ばれていくことによって、私達も又、キリストの復活の命に与り、神と共に、永遠に生きる。新しい命を約束していただけるのであります。
 確かに、私達の肉体は、いつかは、この地上で、滅んでいくかもしれません。私達は、誰もが、死から逃れることはできないのです。しかし、その死は、決して、罪に対する罰や滅びを意味するものではありません。そうではなくて、肉体の死は、むしろ、この地上における、私の罪との別れの時であり、永遠の命、復活の命への入り口となるのです。大切なことは、この深い慰めと約束の中で、今の生き方と向き合っていくことなのであります。つまり、この約束を信じて生きるか、信じずに滅びを選ぶのか、ということであります。
 キリスト教会は、「主イエスを、私の救い主と信じる群れ」です。しかし、この信仰もまた、私達の力によって得られたものではありません。
 神様は、全ての人が、滅びから救われることを望んでおられます。そのために、今、先立って、私達を選び、救いの御手へと招いてくださったのです。そして、何よりも今、あなたが、この救いの御手の中へと、招かれている一人なのであります。
 今、ここにあなたがいる、ということ。それは、もうすでに、神様が、あなたを招いていることでもあるのです。神様は、今、あなたに、本当の喜びを知って、生きて欲しいと願っているのではないでしょうか。この招きの声に、少しでも耳を傾けて頂き、この神様の救いの御腕に飛び込んで行く。そのようものであって欲しいと祈り願うものであります。
 資格や条件はありません。ただ、一方的に、神様が、あなたに生きて欲しいと願っておられる。ただ、その一つの御心が、今、あなたをここに導いているのではないでしょうか。神様の祝福と導きがありますように、心からお祈り申し上げたいと思います。

 天の神様、新しい御言葉の恵みに、心から感謝を申し上げます。あなたから多くの恵みを頂きながらも、罪に満ち、滅びゆく私達でありました。しかし、その私達の滅びを、あなたは願っておられません。むしろ、その私達を救い、新たに生かすために、あなたは、御子イエス・キリストを、この世に与えてくださいました。この御子の命によって、私達が、滅びから救われていることに感謝します。どうか、この深い恵みを覚えつつ、新たに歩むものとしてください。そして、どうか、ここに招かれた一人ひとりが、この救いが、今、自分に向けられている救いの招きであることを信じる心を、あなたが与えてください。全てのことを感謝し、委ねて、このお祈りを、主イエス・キリスト
の御名によって、おささげいたします。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:12| 日記