2021年10月16日

2021年10月24日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
説教:「いちばん偉い者」
聖書:マルコによる福音書9章33節〜37節

〇主日礼拝 10時30分〜
説教:「わたしだ。恐れることはない」須賀 舞伝道師
聖書:ヨハネによる福音書6章16節〜21節

感染予防対策をした上で、礼拝をささげています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。YouTubeでもライブ配信をしています(o^―^o)ニコ
posted by 日本基督教団 石山教会 at 23:02| 日記

2021年10月17日 主日礼拝説教「神から出たもの」須賀 工牧師

聖書:使徒言行録5章12節〜42節

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録5章12節から42節の御言葉です。改めて、12節から16節の御言葉をお読みします。「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった」。
 初代教会の人々が、大事にしていたことがあります。それは、一つになって「祈る」ことです。「祈る」とは、何でしょうか。それは、神様と深く交わることです。つまり、初代教会が、とても大事にしていたことは、祈りを通じて、神様との深い交わりに生きる、ということであります
 それでは、初代教会の人たちは、一体、何を祈っていたのでしょうか。一つは、「大胆に御言葉を語る」ことが出来るように。そして、もう一つは、「主イエスの名」によって、「しるし」と「不思議な業」が行われるように、というものでありました。初代教会の人々は、特に、この二つのことを、祈っていたようであります(使徒4章23節以下)。
 さて、今朝の御言葉は、神様によって、この祈りが聞き入れられて、そして、使徒たちによって「しるし」と「不思議な業」が行われていた。そういった様子が描かれています。
但し、この出来事は、決して、使徒たちが、魔術的、あるいは迷信的な業を繰り広げた、ということではありません。
 使徒たちは、あくまでも、一つ一つの業を「イエスの名」によって、行ったのであります。つまり、そこで、真に働いているのは、「復活の主イエス・キリスト」ご自身に他なりません。主イエス・キリストご自身が、様々な人々の、様々な問題を、主御自身の問題として、担って下さったわけであります。人間には、そのような力はありません。私達人間は、たとえ家族ですら、その苦しみを、本当の意味で、担うことができないものであります。
 しかし、使徒たちを通して(教会を通して)、主イエス・キリストご自身が、その人々の痛みや苦しみを理解し、御自身の問題として、担っていて下さるのです。そのような出来事が、教会を通して、まず、行われていたのであります。
 そして、この一つ一つの出来事を通して、人々は、キリストと出会い、キリストと交わり、教会の仲間へと加えられていくことになります。正に、この一つ一つの出来事が、生きた神を知るきっかけとなったわけであります。あるいは、主イエス・キリストが、今も生きていることを知るための力強い「しるし」となったのであります。
 但し、全ての人が、その時、教会に加えられたわけではありません。その中には、教会を称賛しつつも、教会を避ける人もいました。つまり、教会に好意を抱きながらも、神様を畏れ、自分たちとは、違う何かを感じ取り、敷居が高く感じてしまう人もいたのだ、ということが分かるのであります。
 さて、それでは、この人たちが、救われるチャンスは、もうないのでしょうか。それは、違います。そこで、大切なことがあります。それが、二つ目の「祈り」です。即ち、「大胆に御言葉を語る」力や機会を、神様が、教会に、与えてくださっているのだ、ということです。違う言い方で言うならば、神様は、彼らを、決して、諦めてはいないのだ、ということであります。「しるし」や「業」だけではなくて、御言葉と御霊の力によって、神様は、この人々に対して、折を得ても得なくても、絶えず、語り続けてくださるのであります。
 それだけではありません。神様の御言葉は、好感を持ちながらも、教会を避けていく人に対してだけではなくて、教会に敵意をむき出しにする人々に対しても、大胆に語られていくことになるのであります。なぜでしょうか。神様の御心は、裁くことではなく、彼らを赦し、救い出すところにあるからです。
 そのことを踏まえた上で、少し、長いですが、今朝の御言葉の17節から33節の御言葉を、改めて、お読みします。「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい』と言った。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。『牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。』この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。そのとき、人が来て、『御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています』と告げた。そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。『あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。』ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。』これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた」。
 ここでは、何が、語られているのでしょうか。簡単に申し上げます。使徒たちは、大祭司とサドカイ派の人々に逮捕されます。しかし、天使が、使徒たちを助け出します。続いて、再逮捕され、裁判にかけられることになります。しかし、使徒たちは、そこでも、主イエス・キリストの救いを、大胆に語るチャンスを、得ることができたのであります。但し、喜びもつかの間、そのことによって、使徒たちは、処刑される寸前まで、追い込まれていくことになるのです。スポーツの試合で言うならば、正に、「シーソーゲーム」のような展開が、ここで繰り広げられているのであります。正に、点の取り合いのような様子が、ここで示されていると言えるかもしれません。
 このように、初代教会は、正に、揺れ動いていく、荒波のような現実の中に、立たされているものなのであります。良い時もあれば、悪い時もある。そういう揺れ動く現実の中に、教会は、立っているのです。
 しかし、どれだけ、揺れ動く現実の中にあっても、教会が大事にしていたことがあります。それが、御言葉を大胆に語り続ける、ということです。更に言うならば、主イエス・キリストの十字架の死と復活。罪の赦しと、永遠の命。彼らは、決して、ブレることなく、ただそれだけを語り続けたのであります。いや、正確に言えば、どのような状況のもとにあっても、神様が、教会を通して、語り続けて下さった。
なぜでしょうか。彼らを救うことが、神様の御心だからであります。去っていった民衆を、敵意むき出しのユダヤ指導者たちを、そして、最後に申し上げますが、世界に生きる、全ての人を救うことを。そのことを御心に留めているからであります。だから、救いの御言葉、命の言葉は、決して、止めることはできないのであります。
 例えば、そもそも、主の天使たちは、なぜ、使徒たちを、牢獄から助け出したのでしょうか。彼らの命を助ける為でしょうか。違います。主の天使たちは、彼らに言うのです。「命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と。
 これは、決して、使徒たちの命を、軽んじているわけではありません。彼らの命は、もう既に、神様のものなのであります。だから、彼らが、すべきことは、民衆に向かって語り続けることだけなのであります。折を得ても得なくても、神様は、教会を通して、語ることを止めないのです。
 それは、民衆を救うことを、大切にしているからであります。それほどまでに救われることを願っているのです。その救いに応えることを願っているのであります。「あなたがたも救われているのだ」と。「あなたがたも命を得なさい」と。「高い敷居は、私が越えさせるのだ」と。時が良くても、悪くても、神様は、教会を通して、救いへと招くことを、決して止めないのです。
 使徒たちが、境内に入って、教えを始めたのは、「夜明け」のことでありました。そのような時間に、誰かがいるとは、到底、思えません。しかし、神様は、教会を通して、御言葉をもって、御言葉を語りながら、待ち続けてくださるのではないでしょうか。あなたが来ることを、あなたが招きに応えるのを、主は、教会を通して、御言葉をもって待ち続けてくださるのではないでしょうか。
神様の御言葉は、更に、留まることを知りません。次に、この命の御言葉は、教会の迫害者にまで及ぶことになるのです。最高法院の議員たちは、使徒たちの語る言葉を聞いて、自分たちが責められている気持ちになったようです。
 しかし、果たして、それは本当でしょうか。使徒たちは、先にも、そして、ここにおいても、議員たちを、決して、責めているわけではありません。使徒たちは、あくまでも、ただ一心に、主イエス・キリストの救いだけを語っているのではないでしょうか。悔い改めて、主イエスを救い主と信じる。ここに救いがある。あなたがたも又、この救いに招かれている一人なのだ、ということであります。
 イエスを十字架に架け、徹底的に、教会を迫害した、迫害者に対してもまた、教会は、変わることなく、ただ一心に、主イエス・キリストの福音だけを語りぬくのであります。それは、なぜでしょうか。神様は、裁くためではなく、信じる者が、永遠の命を得て、救われることを、ただただ、望んでおられるからなのであります。悪に対して、悪で返すのではなく、悪に対しても、救いの御言葉で返していく。人間に従うのではなく、人間に合わせるのでもなく、ただ目の前の人が、本当の意味で、救われることを、主は願い、教会を通して、大胆に御言葉を、語り続けてくださるのであります。
 これは、私達にとっても、深い慰めであると言えるかもしれません。私達も又、信仰生活の上で、色々なことがあります。信仰を見失うこともある。教会から去って行くこともある。失敗することもあれば、背を向けて、敵意を向けることもあるかもしれません。
 しかし、神様は、教会を通して、決して、変わることなく、ブレることなく、ただ一つの救いを語り続けて下さるのであります。私達にとって、本当の居場所があるとするならば、それは、変わらない場所であります。変わることなく、愛を感じられる場所です。学校や職場、家庭の中に、居場所を見失うこともある。けれど、教会に戻っていくと、そこで、自分が、神様によって、変わることなく、救われている・愛されていることを知ることができる。この自分の命を、諦めないでいてくれる御方がいる。それを深く味わうことができるのであります。
 教会は、民衆に向けて、御言葉を語り続けます。そして、教会は、次に、迫害者に向けても御言葉を、語り続けます。しかし、教会は、それで終わりません。
 次に、教会は、全世界に向かって、御言葉を語り続けることになるのです。ここに、神様の深い御計画があります。神様は、今や、限られた地域を越えて、教会を通して、全世界に、神様の福音、キリストを知らせてくださるのであります。
 そのことを踏まえた上で、続きの御言葉に聴いて参りたいと思います。34節から42節の御言葉をお読みします。「ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。『イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。』一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭を打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」。
 初代教会の状況をシーソーゲームに譬えるならば、今、正に、教会は、「最大のピンチ」を迎えています。なぜでしょうか。使徒たちが、大胆に御言葉を語った結果、議員たちが怒り狂い、死刑を視野に入れ始めることになるのです。
 しかし、この危機的な状況の中で「ガマリエル」という人物が登場します。この人は、ユダヤ教の歴史の中で、恐らく、最も尊敬された律法学者の一人でありました。彼の決断によって、使徒たちの命が、ギリギリのところで助けられることになるのです。言うならば、ガマリエルが、この試合を、中断させる役割を負ったのです。
 私達は、このガマリエルの決断に感謝をしたいところでありますが、果たして、感謝できるのでしょうか。そもそも、このガマリエルが、言いたかったことは何でしょうか。それは、リーダーが死ねば、グループは自滅する、ということです。神からでたものであれば、リーダーは生きている。しかし、人から出たものであれば、リーダーは滅びる。リーダーが死ねば、自ずとグループは自滅する。そういう理論です。
 つまり、簡単に言えば、ガマリエルは、教会が、直ぐに自滅すると考えた。だから、放っておけば良いと、考えたのです。なぜでしょうか。リーダーであるイエスが、既に、死んでいるからであります。ガマリエルは、そもそも、キリストの復活を受け入れていなかったわけであります。イエスは、既に、死んだものであると考えた。だから、放っておいても、滅びていく。そのように考えていたのです。そして、何よりも、彼は、使徒たちを鞭で打つことを否定しませんでした。鞭を打ち、肉体的に苦しめば、諦めて解散する。そのように思ったのかもしれません。彼は、もう既に、自分たちが、勝っていることを認め、試合を中断させる提案をしたと言えるのであります。
 しかし、果たして、物事は、ガマリエルの計画や思惑の通りに、進んで行ったのでしょうか。それは、違います。最後に、使徒たちは、ガマリエルの予想に反して、喜んで帰り、更に、力を込めて、伝道に命を注ぐ、結果になったのです。教会は、滅びるどころか、喜び躍り上がって、勢いをつけていくことになったのです。
 この使徒たちの生き方―教会の生き方―は、主イエスのためなら苦しみも喜びとする。そのような高尚の精神ではありません。何よりも、主イエス・キリストご自身が、この地上において、既に、「あなたがたは、わたしのために世に憎まれる」と言われました。つまり、この世で、痛みを負うことは、彼らにとって、教会にとって、キリストの弟子であることの最大の証しだったのであります。 
 このように、ガマリエルが、教会を放っておいたことによって、教会の信仰が、益々深められ、勢いを増すことになります。ガマリエルは、ユダヤの歴史上、一番の律法学者でありましたが、この瞬間、ユダヤの歴史上、一番、やらかした人物になってしまったのです。
 しかし、それだけではありません。ガマリエルが、教会を放っておいたために、ガマリエルのもとから、教会を放っておけない弟子が、次に、生み出されていくことなるのです。
 それは誰でしょうか。それが、使徒パウロです。パウロ−以前はサウロ―は、ガマリエルの弟子でありました。そして、教会に対する迫害者の一人でもありました。
 しかし、そのパウロが、あの師匠が、「もう死んだ」と言っていたはずの「復活の主」と出会い、救われて、教会に加えられていくことになるのです。そして、このパウロを通して、いよいよ、教会が、全世界へと広がっていくことになるのです。
 主イエスは、復活をせず、既に、死んだと考えた。だから、教会は自滅すると考えた。それがガマリエルです。しかし、その弟子であるパウロが、皮肉なことに、復活の主と出会い、教会が、ますます、成長していくことになるのです。復活は、やはり事実なのです。そうでないと考えられないことが、ここで起きているのです。主は死んでいない。主は生きているのです。
 最後の最後に、教会は、神様の御計画によって、勝利するのです。見える教会は、いつでも、この社会の中で、揺り動かされることがあります。荒波にのまれていくことがある。
 しかし、大事なことは、何でしょうか。人の思いに従うのではなく、神様に従って生きるということ。敷居を下げるのではなく、変わることのない、ただ一つの御言葉を大胆に語ること。そして、人間の計画ではなく、神様の御心に思いを向けて、心を一つにして祈り合い、喜び踊りながら、歩み続けることなのではないでしょうか。
 神様は、どのような時も、教会を通して、語り続けることをやめません。そして、全ての人が、この福音に触れ、復活の主と出会い、真の命を得て、喜び生きられるために、神様は、今も、教会を通して、全世界に、働きかけて、下さっているのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:58| 日記