2021年10月30日

2021年11月7日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マルコによる福音書10章17節〜27節
説教:「金持ちの男、立ち去る」
*礼拝後、誕生者の祝福と分級があります。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:使徒言行録6章1節〜7節
説教:「前進する教会」須賀 工牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:57| 日記

2021年10月31日 主日礼拝説教「滅びからの救い」須賀 工牧師

聖書:マタイによる福音書18章10節〜14節

 今朝、私達は、召天者記念礼拝を捧げています。過ぐる日、主の御許に召された、聖徒たちの面影を偲びつつ、主の御名を、聖徒たちと共に、賛美するものでありたいと思います。
 さて、クリスチャンにとって、一番の「慰め」とは、何でしょうか。それは、生きるにしても、死ぬにしても、「主イエス・キリストのもの」である、ということです。あるいは「神様のもの」である、ということであります。ここに、クリスチャンの「慰め」があります。
 過ぐる日、主の御許に召された聖徒たちもまた、この地上の人生において、「キリストのもの」として生かされ、そして、「キリストのもの」として召されていかれたのであります。聖徒たちを捕えているものは、もはや「死」ではありません。「キリスト」が、一人一人を、捕らえてくださり、深い慰めと平安の内に、置いていてくださっているわけであります。
 キリスト者は、皆、生きるにしても、死ぬにしても、「主イエス・キリストのもの」「神様のもの」であります。聖書は、このような「私達」と「神様」との関係を、「羊」と「羊飼い」の関係に、譬えています。
 「羊」とは、どういう動物でしょうか。それは、まず「弱い」「愚かな」動物であります。羊飼いがいなければ、自分の力で生きることが出来ない動物です。私達キリスト者も同じです。決して強い存在ではありません。むしろ、弱さを抱えた存在であります。いや、自分の「弱さ」を知っている存在であるとも言えるかもしれません。
 しかし、それでも「羊飼い」にとっての「羊」は、大切な「宝物」であります。聖書は、決して、「強い動物」になりなさい、とは教えていません。「羊」のままで良いのです。「弱さ」を抱えたままで良いのであります。それでも、羊飼いにとって「羊」は、大切な「財産」なのであります。
 召された聖徒たちをはじめ、私達キリスト者は、このように、私達の内に、「価値を生み出してくださる」神様の愛に、強くとらえられながら生き、そして、この神様の愛に抱かれながら、主の御許へと召されていくのです。
 それ故に、私達にとって「死」は、単なる滅びではありません。主の御腕に抱かれ、その主の温もりや愛情を味わいつつ、神様の御手に委ねて、「生きる」ことなのです。この地上にある、いかなる肉的苦しみから解放されて、主のものとして、主の御腕に委ねつつ「新たに生きる」ことなのであります。このところにこそ、キリスト者における、「真の慰め」があると言えるのであります。
 今朝、私達に示された御言葉には、「迷い出た羊」が出て参ります。群れから離れてしまった羊。群れの羊からしてみると、とても迷惑な羊であるかもしれません。
 しかし、このこともまた、私達の信仰の生涯を良く表していると言えるのであります。即ち、「信仰の生涯」は、決して、「楽」ではない、ということです。主の御許に召された信仰の先達もまた、この地上における「信仰の生涯」を走りぬきました。但し、その歩みは、決して「楽」なことばかりではなかったと思います。時には、「躓く」こともあったかもしれません。心が疲れ果て、信仰の目が閉じてしまったこともあるでしょう。今朝は、ご遺族の方々も来られておりますが、教会から帰って来て、疲れ切った、お父さんやお母さん、お連れ合いの姿を目の当たりにしたこともあったかもしれません。時には、教会の愚痴をこぼす場面もあったかもしれません。
 しかし、それでも、「信仰の生涯」を走り抜いたのであります。なぜでしょうか。それは、主イエス・キリストが、いつでも、この私達を捜して下さり、見つけ出して下さり、連れ帰って下さるからであります。つまり、主イエス・キリストご自身が、私達を諦めたり、私達が滅びたりすることを望んではおられない、ということなのであります。ここにもまた、クリスチャンであることの深い慰めと喜びがあると言えるのではないでしょうか。
 羊飼いは、九十九匹を残して、一匹のために、命を懸けて、探しに行きます。九十九匹にとっては、愚かな行為であります。人間の価値観から言えば、無駄な行いであります。
しかし、人の目から見て、愚かに見えることを、主イエス・キリストは、断固として、貫かれるのであります。なぜでしょうか。
 それは、ただ一心に、主が、私達の滅びを望んでおられないからであります。主は、いつでも、主のものとして、この私達を連れ戻してくださるのです。この主イエス・キリストの深い憐れみがあるからこそ、信仰者は、立ち続けることが出来るのであります。聖徒たちもまた、この主の深い憐れみの内に、信仰の生涯を送られたのではないでしょうか。
 「死」は、私達にとって、苦しく、恐ろしく、悲しいものであるかもしれません。しかし、主イエス・キリストは、他の福音書では、このように仰せになるのです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と。主イエス・キリストが、この私のために命を捨ててくださる。それによって、私達の命を繋いでくださるのです。それだけではありません。主イエス・キリストは、その死を越えて、復活をされました。キリストにあって、死は、敗北しているのであります。キリストのものとされた私達もまた、このキリストの犠牲の死と復活を通して、死を越えて、真の平安を得るものとされているのであります。 
 過ぐる日、主の御許に召された聖徒たちもまた、このキリストの犠牲と復活の恵みに与っている一人一人であります。今、聖徒たちは、その恵みによって、主の御手の中で、真の平安を得て、生かされているのであります。滅びゆく命ではなく、繋がられた命を、彼らも又、生きているのであります。
 私達の地上の人生は、確かに、中断されるかもしれません。しかし、それでも、聖徒たちは、私達に大切な、信仰の道筋を残して下さってもいます。その信仰の筋道をしっかりと受け継ぎ、天の民と地の民が、心を合わせて、主の御名を賛美していく。信仰を引き継いで、私達も先達たちの後に続いて、これからも歩みたいと思うのです。
 そして、この聖徒たちの中には、勿論、信仰を持たずに召された人もいます。しかし、パウロは、信仰が与えられた、あなたによって、信仰を持たずに生きた家族もまた、神様によって聖となるのだ、という言葉を記しています。かつて聖徒たちが、キリストによって捕らえられたのは、今、あなたが救われるための備えであり、今、あなたが救われているのは、あなたの家族が、聖とされるために必要なことなのであります。キリストの救いは、このように、私達の思いを遥かに越えて、尊いのだ、ということ。そのことを深く心に刻みつつ、先達たちと共に、これからも主の御名を賛美していく信仰生活へと、私達も身を寄せていくものでありたいと願うものであります。

posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:50| 日記